裏庭の しおれ紫陽花 露もなく それにつけても 夏の暑さよ

水無の庭/上

 ――木陰の蝉が、アスファルトの照り返しに押しつぶされそうになりながら鳴いている。


 佳奈は、閑散とした駅前でタクシーを拾うのを諦めて、汗をだらだら流しながら商店街を歩いていた。今にも歴史にうずもれてしまいそうな地方都市でも、古いビルの隙間に閉じ込められた熱気は、東京とそう変わらない気がする。変色したアーケードの天窓が直射日光を遮ってくれているのが、せめてもの救いだ。


 赤信号の横断歩道で、うっすら溶けかけのアイスバーを握りしめた子どもが数人、「あつ~い」と泣きごとを上げながら屯していた。年長と思しき子供が自分もアイスバーにかぶりつきながら、少しイラついた声音で言った。「夏なんだから仕方ないだろ」。額に浮かぶ汗を乱暴に拭う。


 ――夏なんだから仕方ない。


 ただ通りすがっただけの言葉に、胸の奥で小さな棘が動く。

 そう言って、あの人が笑ってくれた記憶が、のどの奥にひっかかったまま、ほどけきらない。


 角を曲がって商店街の通りを外れ、暫し歩くと、景色は急激に古びた。昭和の中ほどに置き忘れられたような急な坂道が、見上げる先に長く続いている。佳奈は「う」と短く唸ったあと、意を決して坂道に足を掛けた。


 その坂の上に、祖母の家はある。


 正確には、祖母の家だった場所、と言い直した方が正しいのかもしれない。今の名義が誰のものになっているのかを、佳奈は知らない。


 祖母が亡くなったのは、春の残り香と夏の匂いの混じる5月の半ばだった。

 通夜も葬式もとっくに済んでいて、今日はただ、遺品整理のために鍵を預かって来ただけだ。両親は仕事で来られない。「悪いけど、ある程度片づけておいてくれる?」と母に頼まれたとき、佳奈は「うん」とだけ答えた。

 断る理由はいくらでもあったが、不思議と断る気は起きなかった。


 坂の中ほどで立ち止まり、袖で汗をぬぐう。振り返れば、猫の額ほどの小さな町が眼下に波打っていた。黒々とした瓦屋根の上に陽炎が立ち、遠くの山の稜線が青白くかすんでいる。


 特別の感慨はない。郷愁も、さほど。

 ただ、水かお茶を買っておけばよかったな、と佳奈はぼんやりと思った。ひどく喉が渇いていた。

 日差しを遮ってくれる親切なアーケードは既になく、情け容赦のない日差しがひび割れたアスファルトを焼いている。舗装の隙間から顔を出す雑草も、些か萎びて活力がない。

 祖母の家の冷たい井戸水のことが、今はやけに強く思い出される。佳奈はもうひと踏ん張りと奮起して、灼けつく坂道の残りに歩を進めた。


 坂を上り切ってすぐの角地に、祖母の家がある。

 黒々とした瓦屋根の木造住宅だ。子どもの頃はやたら大きな家に思えたのに、こうして改めて見ると、地方の古びた普通の家でしかない。木造二階建て6LDK、築50年。不動産屋のチラシの一角を飾るとして、数行に押し込められてしまいそうな程度の。


 申し訳程度の門柱には、色あせた木札がかかっている。

 かすれた文字を指先でなぞると、指にはざらついた感触だけが残った。


「ただいま」


 思わず、小さく声が漏れた。

 誰もいない家の前で、わざわざ言う必要はないのに。けれども祖母の家に来るときは、いつだってこの言葉を口にしていた気がするから。

 寂びた門扉を軋ませる。玄関まで続く短い踏み石には、芝生の名残がちらほら。雑草はそれほど蔓延ってはいないようだった。


 そして、その向こう。視界の隅に、くすんだ紫色があった。

 裏庭へと続く細い通路の、奥の奥。生垣の隙間から、しおれた花房が覗いている。


 紫陽花だ、と理解するより早く、身体がそちらへ向かっていた。


 玄関の鍵を開けるより先に、裏庭へ回り込む。不揃いな敷石をじゃりじゃりと踏みしめ、建屋の角を曲がると、じわり、と肌にまとわりつくような湿気が強くなった気がした。


 裏庭は狭い。


 それに、子どもの頃の記憶よりはるかに荒れていた。表と比べて雑草は伸び放題で、物干し竿は外れかけで傾いている。昔はいつも綺麗に掃き清められていた土間も、旺盛な植物の侵略を受けて肩身が狭い。


 その一角に、紫陽花の株があった。


 ……いや「あった」というより、「まだ、ある」と言うべきかもしれない。


 記憶の中で、大きく見事に広がっていたはずの枝は痩せ細り、葉の多くは茶色く縮れている。残った数枚の葉も、縁を丸めてくったりとうなだれていた。

 花は、かろうじて形を保っている。けれど色褪せ、花弁は薄紙のように乾いて頼りなく、触れればこなごなに崩れてしまいそうだ。

 幹の根本の土は、ひび割れて白く乾いていた。


「……あぁ」


 喉から洩れた声は、自分のものとは思えないくらい弱かった。

 わかりきっていた。祖母が亡くなってからもう一ヶ月。祖母が病院に入ってからだと、やがて一年にはなる。誰も住んでいない家の庭の世話など、誰がするだろう。現代のご近所づきあいはそこまで温かなものではなかったし、両親だって、わざわざこの坂を登って水やりに来る余裕もない。


 ……それでも、どこかで期待はしていた。

 ここだけは、あの頃のまま、変わらずにいてくれるんじゃないか、と。


 ――あら、佳奈。よく来たね。


 ふと、背中の方から懐かしい声がした。――ような気がして、佳奈ははっと振り返った。


 誰もいない。


 気の早い蝉の声と、遠くを走る汽車の音だけが、裏庭の空気を震わせている。


「……気のせい、か」


 何を期待したのだろう。バカな話だ。

 呟いて、前を向き直る。紫陽花の根本にしゃがみ込むと、鼻先にかすかな匂いが届いた。湿った土の匂いではない。乾いた土と、夏の埃と、かすかに残った花の香りが混ざった、薄弱な香り。


 指で土をつつくと、指先に温度が刺さるようだった。熱を蓄えた土は、優しさとは真逆の、じわじわとした痛みを指に伝える。


「ずっと、こうだったのかな」


 葬式のときに来たときは、裏庭まで手を回す余裕なんてなかった。玄関と仏間と、台所を行ったり来たりしていただけだ。

 荒れた有様は、あの時にも見たのではなかったか。それでも見ないことにして、体面を繕うのにひた隠して、それで忘れていたのだとしたら――。


 それは、ずいぶんと薄情に思えた。胸の奥で小さな棘が動く。


 佳奈は少しだけ苦く瞑目した。そう長い時間をかけず後悔を済ませると、立ち上がり、勝手口へ回る。すりガラス越しに見える台所は薄暗くて、バカに静かだ。


 鍵は――流石に掛かっている。

 祖母は、生前から鍵を掛けるのが嫌いだった。「泥棒なんて入るものか」と笑っていた。危ないからやめてほしいと、両親は何度も言っていたのに。

 結局、その悪癖は最後まで変わらなかった。けれどそのおかげで、祖母の寿命は一年ばかり伸びたのだから咎めるに咎められない。町会費の集金に来た町内会の人が、返事がないのを不審に思って中に入ると、廊下で倒れていた祖母を発見して119番をしてくれたのだ。

 せっかく祖母の家を訪れたのだし、その恩人に挨拶に行くべきなのかもしれないが、生憎手土産の一つも持っていないし名前もうろ覚えだ。

 そういうのは全部両親に任せてしまおう。佳奈はそう結論して、鍵を捻った。ガチャリという少し錆びついた音が、やけに大きく響いた。


 扉を開けると、比較的ひんやりとした空気が顔に触れた。冷房の冷たさではない。長い時間をかけて冷えた建物の内部の、古い木と畳の匂いを含んだ、陰の空気だ。

 あまり気持ちのいいものではない。そもそも外と比べて涼しいだけで、室内の温度は30度を超えている。柱に据えられた温度計が正しいのであれば、だが。


 靴を脱ぎ捨てるようにして上がり込み、台所の電気をつける。そう明るくない蛍光灯が、天井に取り付けられたまま少し黄ばんだシーリングファンを照らした。


 流し台には、洗われて伏せてある食器が数枚。その横に、束になった輪ゴムと、くたびれた布巾。冷蔵庫の横面には、大きい文字のカレンダーが取り残されたように掛かっている。


 六月のところで、ページが止まっていた。


 祖母が倒れたのは、去年の六月の終わりだった。夜中にトイレへ行こうとして、廊下で倒れ、その後は先述の通りだ。

 予後は良好だと聞いていた。それでも歳のこともあって心配だからと入院がずるずる伸びて、結局そのまま家に帰ることなく、祖母は旅立ってしまった。

 病院から連絡を受けたとき、佳奈は会社の会議室にいた。仕事のメールに埋もれたスマートフォンの着信を見て、小さく舌打ちしたことを覚えている。


 ――またおばあちゃん?


 祖母は、入院中によく電話をかけてきていた。

 八十路を超えているのにスマートフォンを駆使するような機械に強い人で、退屈を凌ぐ手慰みの一つだったのだろう。

 内容は取り留めもなく、元気にしてるか、ちゃんと食べてるか、暑くないか、寒くはないか……だとか。どれも取りたてて重要な内容ではなかった。

 はじめは嬉々として付き合っていた四方山話も、繰り返されるうちに厭気がさす。仕事中に何度も鳴る着信が、正直うっとうしいと感じることもあった。

 それもあって結局、佳奈は一度も入院中の祖母を見舞わなかった。


 だから、あのときもそうだと思ったのだ。仕事中だというに、またかけてきたのだ、と。

 しかし画面に表示されていたのは、見慣れた「ばあちゃん」の文字ではなく、母の名前だった。仕事中にかけてきたことなど、今まで一度もなかった、母からの着信。


 ――あの一瞬の舌打ちを、今も思い出す。


 流し台の下を開けると、プラスチックのバケツがひとつ置かれていた。青いバケツだ。子どもの頃、これでよく水遊びをした覚えがある。

 それを手に取り、蛇口をひねる。水道管の奥でごぼごぼと音がしてから、水が勢いよく飛び出した。


 冷たい。


 バケツに水が溜まっていく音が壁や天井に跳ね返って、家の奥まで届いていくような気がした。


 なみなみと水をたたえたバケツを抱える。思ったより重くて、少しだけよろめいた。


 勝手口から裏庭へ戻ると、熱気が一気に押し寄せてくる。日差しに目が眩みそうになって、思わず手庇を作った。

 えっちらおっちらとバケツを運んで、紫陽花の株の前にしゃがみ込む。


「……ごめんね」


 つい口をついた言葉が、果たして誰に向けたものなのか。自分でもわからなかった。


 萎れた紫陽花にか、それとも、もういない人にか。


 バケツを少し傾けて、根元に水を注ぐ。じょうろがあればよかったが、どこにあるのかわからなかった。白く乾いてひび割れていた土が、じわりと色を変える。水の表面に浮かんでいた気泡が土の隙間に吸い込まれ、じゅうじゅうと湿った音を立てた。


 葉にも、水をかける。バケツに手のひらを潜らせて、水を撒く。ひやりとした水が、自分の体温で温くなっていくのが少し気まずい。水飛沫が太陽光を反射して、やけにわざとらしくきらめいた。

 茶色くなった部分はそのまま。けれど、まだ緑の残っている葉は、しっとりと色を深めていく。


 花房にも、そっと水をかけた。

 紙のようになっていた花弁が、少しだけ重たくなる。色が戻るわけではない。それでも、薄く乾いていた花弁の一つ一つが、かろうじて輪郭を取り戻す。


 ざあっと、バケツの残りを生垣にぶちまける。土の暗い匂いと微かな草いきれが、湿気と混ざって立ち上った。すこしだけ、裏庭に生気が戻ったような、そんな気すらした。


 ――あら、ずいぶん見違えたねぇ


 耳元で、愉快そうな声がした。――気がした。


 軒に吊るした風鈴は静かで、風はない。それなのに、頬のあたりをふっと何かが撫でたような感覚があった。


 振り返る。……やはり、誰もいない。

 蝉の声が、急に遠くなった気がした。


「……ばあちゃん?」


 口に出してしまってから、自分でもバカな、と思う。

 返事はない。当たり前だ。


 代わりに、佳奈の頭に、過ぎ去った夏の日の光景が浮かび上がった。



///



 小学校低学年の頃だったと、思う。


 その夏も、今日のように暑かった。少なくとも、佳奈の主観ではそうだ。祖母の家に泊まりに来ていた佳奈は、朝からずっと不機嫌だった。


 夏の暑いのが嫌いだった。


 汗をかくのが嫌だし、日差しに目を細めると頭が痛くなる。クーラーの効いた部屋から出たくなくて、祖母が「外で遊んでおいで」と言っても、「やだ」としか言わなかった。


「夏なんて大っ嫌い」


 居間の畳にだらりと寝転がって、そう呟いたとき、祖母は特に何も言わなかった。

 ただ、台所で麦茶を作っていた手を止めて、流しの下からバケツを取り出し水をためると、ふいに裏庭の方へ歩いていく。

 気になって、佳奈もその後をついていく。渋々裏庭に出ると、茹だる炎天下の中、祖母は紫陽花の前にしゃがみ込んでいた。


「見てみ」


 祖母が顎でしゃくった先には、今よりずっと大きく、青々とした紫陽花の株があった。けれど、そのときはどういうわけか、全体的にしょんぼりと萎れていた。

 葉は力なく垂れ下がり、花も首を折ったようにうなだれている。


「きのう、水をあげるの忘れちゃってねえ。こんなになっちゃった」


 祖母はそう言うと、青いバケツの水を、根元にどばどばと注いだ。根元の土に水たまりができて、ポコポコという泡が立っていた。


「佳奈」


 紫陽花の前で、祖母はくるりと振り返る。額に汗をかいた顔は、どこか勝ち誇ったようだった。


「今はこんなでもね、夕方にはしゃきっとするんだよ」


「そうなの?」


「そうだよ。植物ってね、思ってるよりずっと頑丈なんだ。ちょっとくらい水を忘れたくらいで、そうそう死んだりしない」


「ふうん」


「人間もね、そういうとこあるよ」


 そう言いながら、祖母は佳奈の額の汗を腰に提げた手拭いでぬぐった。


「夏は暑いし、しんどいし、嫌になることも多いけどさ。だからって、夏が全部悪いわけじゃないだろ」


 佳奈は黙り込む。せいぜい、蝉の声が耳にうるさいと感じるくらいで、「夏の良さ」なんてわからなかった。


「わかんない」


「そうだねえ」


 祖母は空を見上げるようにして、少し考え込む。


「スイカもうまいし、風鈴もいい音がするし、夜になったら花火もいい……」


 指を折って数えながら、最後に少しおどけたように笑った。


「それにつけても夏の暑さよ、ってね」


「なにそれ」


「なんだかんだ言っても、夏は暑いからね。暑い、って文句を垂れるのも、夏の醍醐味のひとつなのかもしれないよ」


 佳奈は納得したようなしないような顔をして、紫陽花を見下ろした。


「夕方になったら一緒に見に来よう。ちゃんとしゃきっとするか」


 そう言って、祖母は笑った。

 その日の夕方、本当に紫陽花はしゃきっとしていた。朝のしおれた姿が嘘みたいに、葉はぴんと張り、花も鮮やかな青に光っていた。



///



「夕方になったら、しゃきっとするかな」


 無意識に口から洩れた言葉に、自分で少し笑ってしまう。

 あのときの小さな驚きと、少しだけ背中を押されたような気持ちは、今も身体のどこかに残っているのだろう。


 今の紫陽花は、あの日と同じようにはいかないかもしれない。枝も葉も老いていて、水をたっぷりあげたところで、昔のような瑞々しさを取り戻すことはないかもしれない。むしろ根ぐさりをして、本当にダメになってしまうかも。


 それでも何もしないよりは、ましなはずだ。

 立ち上がると、暑さと立ち眩みで少しクラクラした。額の汗を拭いながら、佳奈は家の中へ戻った。

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