第24話 灰の旗は、静かに揺れる

 目を開けたとき、天井がいつもより近く感じた。


 薄いカーテン越しに、冬の朝の光がぼんやりと差し込んでいる。

 時計は、七時を少し回ったところ。


 まず意識に入ってきたのは、腕の重さだった。


 自分の右腕の上に、柔らかい何かが乗っている。

 寝返りを打とうとして、そこでようやく思い出した。


(……そうでしたね)


 ゆっくりと視線を横に向ける。


 シーツの上で、氷川真衣ひかわまいが眠っていた。

 肩まで布団をかぶっているが、髪だけが枕からこぼれ落ちている。


 少し乱れた前髪。

 眠っているときだけ見せる、わずかに緩んだ口元。

 うつ伏せ気味になっているせいで、頬に薄くシーツの跡がついている。


 ――昨夜、この部屋で。


 そこまで思い出して、真宮秋也まみやあきやは、意識的に思考を切った。


 警察官としての訓練か、単に照れくさいだけなのかは、自分でも判別がつかない。


(事実としては、“恋人と同じベッドで眠った”ということです)


 それ以上、細部を言語化する必要はない。

 ただ、腕の上の温もりだけが、その事実を確かめるように残っている。


 そっと腕を抜こうとすると、指先を掴まれた。


「……ん」


 小さな声。

 真衣が、まぶたをまだ閉じたまま、握る力だけを強める。


「おはようございます、真衣さん」


 なるべく穏やかに声をかける。


「そろそろ起きないと、遅刻してしまいます」


「……あと五分くらいなら、許されると思います」


 はっきりとした敬語だった。


 ただ、語尾が少しだけくぐもっている。

 眠気と、何か別の感情が混ざった声音だ。


「五分で支度が終わるとは、とても思えませんが」


「では、七分……」


「根拠のない数字が増えていきますね」


 軽くため息をつきながらも、腕を引き抜く動きは止める。


 真衣は、そのまま指先を握ったまま、ようやくゆっくりと目を開けた。


 視線が合う。

 ほんの一瞬だけ、お互いに昨夜のことを思い出したように、目線が泳いだ。


「……おはようございます、真宮さん」


「おはようございます」


 口調はいつも通りなのに、空気だけがわずかに違う。


 布団の中から覗く首筋のあたりに、薄く赤い跡が残っているのを見て、真宮は意識的に視線を戻した。


(見てはいけない、というわけではないのでしょうが)


 少なくとも、朝からじっと見るようなものでもない。


「時間、大丈夫ですか」


 真衣が、今度ははっきりとした声で問う。


「会議、あるんですよね。昨日の続きの」


「ええ。九時から公安のフロアで、その後、外事との調整が入っています」


 枕元のスマートフォンに目をやる。

 予定表には、「公安一課ミーティング」「外事二打合せ」の文字が並んでいる。


 昨夜、合同会議室で共有された“灰の旗旅団”――

 海外テロ組織と「灯りの架け橋」を繋ぐかもしれない影。


 それを切り離すか、結び付けるか。

 今日からは、その作業が本格的に始まる。


「……では、本当に起きます」


 真宮は、ようやく決心したように布団をめくった。


 ひんやりとした空気が触れてくる。

 昨夜まで二人分の熱で温められていたスペースに、冷たさが少しずつ戻っていく。


「コーヒーを淹れます。真衣さんは、ゆっくりで構いませんので」


「いえ。ご一緒します」


 そう言って、彼女も布団から身を起こした。


 Tシャツにパーカーという、いつもの部屋着。

 ただ、裾のあたりがわずかに皺になっているのが、“いつも通り”との違いだった。


     ◆


 キッチンには、まだ昨夜の煮込みハンバーグの名残が漂っていた。


 洗い物は、ほとんど片付いている。

 真衣が、寝る前に一通り済ませてしまったからだ。


「本当に、全部やってくださらなくても良かったのですが」


「そちらこそ、こちらの家まで来ていただいているのに、“何もさせない”わけにはいきません」


 そう言いながら、彼女は手際よくトーストを並べていく。


「……それに」


「それに?」


「こういうことをしていると、少しだけ、“普通の人”になれた気がします」


 パンくずを払う指先が、ほんの少しだけ震えていた。


「事件とか、行方不明者とか、そういう単語が出てこない時間が、たまに欲しくなるので」


「それは、とても健康的な感覚だと思います」


 真宮は、コーヒーメーカーのスイッチを押しながら答えた。


「通常の生活を営む人でなければ、“普通の人”の感覚を守ることは出来ませんから」


「それは、誉め言葉ですか」


「もちろんです」


「では、素直に受け取っておきます」


 短いやり取り。


 だが、そのたびに胸の奥にじわりと広がるものがある。


 これが、本当に手放してはいけないものなのかもしれない――

 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。


 だからこそ。


(だからこそ、“外側”で起きることを、出来る限りここに持ち込まないようにしなければなりませんね)


 テーブルにマグカップを二つ置く。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 真衣は、マグを両手で包み込むように持った。


「……昨夜の会議、どうでしたか」


 ふいに、声のトーンが少しだけ仕事に戻る。


「詳細は申し上げられませんが」


 真宮は、一瞬だけ言葉を選ぶ。


「“あの団体”の背後にいるものが、少しだけ輪郭を見せ始めた、というところでしょうか」


「輪郭、ですか」


「はい。まだ名前も、全貌も、確定はしていません。

 ですが、“資金の流れ”と“人の流れ”が、同じ方向を向き始めています」


 マネーロンダリングに使われていた口座。

 そこから、海外の匿名口座へと渡っていく金。

 さらに、国外の紛争地帯で活動する武装組織の資金源と重なりかけているデータ。


 全てが一本につながったわけではない。


 だが、点と点の間隔は、確実に狭まっている。


「……危なくなったら、逃げてくださいね」


 真衣が、唐突に言った。


「公安の仕事だから、と言われたら、それまでなんですけど。

 でも、私としては、危ないと分かった瞬間に全力で逃げていただきたいです」


「はい。危険が合理的な範囲を超えた場合は、逃走を最優先にいたします」


「“合理的な範囲”って、どこですか」


「少なくとも、“真衣さんにとって許容できる範囲”ではないでしょうね」


「……今のは、少しだけずるいお答えです」


 そう言いながらも、彼女の口元には僅かな笑みが戻っていた。


     ◆


 食事を終え、洗い物を二人で手早く片付ける。


 洗剤を流す音と、スポンジが皿をこする音。

 そんな生活音の中に、ふとした沈黙が挟まる。


(こういう沈黙は、悪くありませんね)


 言葉が尽きたわけではない。

 ただ、無理に埋める必要もない、というだけだ。


 歯磨きを済ませ、スーツに袖を通す。


 ネクタイを締めながら鏡を見ると、首元にわずかに赤い跡が浮かびかけていた。


「……」


 少しだけ結び目を上にずらす。


「何か、隠されましたか」


 背後から、くすっと笑う声がした。


「いえ。公務員として、不要な情報は伏せるべきだと思いまして」


「それは、倫理規定に書いてありましたか」


「暗黙の了解として、どこかにあったような気がします」


「では、私も気を付けます」


 彼女も、シャツの襟元を軽く整えた。

 首筋の赤みは、髪でほとんど隠れている。


「大丈夫でしょうか」


「ええ。少なくとも、警務局の監察官に見せる必要はなさそうです」


「それは、安心しました」


 笑い合ったあと、ようやく玄関に向かう。


     ◆


 ブーツを履きながら、真衣はふと玄関のドアを見上げた。


 昨日までは、ここで「お邪魔しました」と頭を下げて帰っていた。

 それが今は、「いってらっしゃいませ」と見送る側になる。


 その違いを、身体がまだ完全には理解しきれていない。


「では、行ってまいります」


 真宮は、いつもと同じ言葉を口にした。


 だが、そのままドアノブに手をかけようとはしない。


 ほんの僅かなためらいのあと、振り返る。


 視線がぶつかる。


「……あの」


 真衣が、自分から一歩だけ近づいた。


「今日も、お気をつけてくださいね」


「もちろんです」


「約束、ですよ」


「約束いたします」


 言葉だけでは足りない何かが、玄関の狭い空間に漂った。


 真宮は、ゆっくりと手を伸ばす。


「失礼します」


「はい。失礼されます」


 返事の意味は、少しおかしい。

 だが、そのおかしさが、緊張を和らげる。


 彼は、彼女の肩に軽く腕を回した。

 ぎゅっと力を込めるのではなく、軽く包み込むように。


 身体の線が触れ合う。

 スーツ越しの冷たさと、部屋着の柔らかさ。


 それだけで、思った以上に心臓がうるさくなる。


「……」


 数秒の沈黙。


 抱きしめているのか、抱きしめられているのか、自分でも判別がつかない時間。


「ありがとうございます」


 先に言葉を発したのは、真宮だった。


「いえ。こちらこそ、ありがとうございます」


 彼女は、顔を少し上げる。


 そのまま、背伸びをした。


 唇が、彼の頬にそっと触れる。

 今度は、明らかに意図した動きだった。


 頬の一点が、じんわりと熱を帯びる。


「これで、少し安心しました」


「……そうですか」


「はい。もう一つ、してもよろしいですか」


「もう一つ?」


 問い終わるより早く、今度は唇が唇に触れた。


 短く。

 けれど、先ほどより少しだけ長く。


 敬語のまま交わされる、静かなキス。


 距離を詰めているのに、どこか丁寧なままの二人らしい、慎重な甘さだった。


「……仕事に支障が出たら、申し訳ありません」


「出たとしても、自業自得ということにしておきます」


「それは、あまり慰めになっていない気がします」


 そう言いながらも、表情は明らかに緩んでいた。


「必ず、無事に帰ります」


「はい。お帰りをお待ちしております」


 ドアが閉まる。


 その音を聞き終えてからも、真衣はしばらく玄関に立ち尽くしていた。


 頬に残る感触と、胸の鼓動が、現実感と同時に不安を連れてくる。


(……本当に、戻ってきてくださいね)


 小さく呟いてから、ようやくリビングへ戻った。


     ◆


 警察庁・警備局公安部。


 第一課のフロアに入った瞬間、空気の密度が変わる。


 昨夜の合同会議の余韻が、そのまま残っているような緊張感だった。


「課長補佐、おはようございます」


 相馬修司そうましゅうじが、書類束を抱えたまま顔を上げる。


「おはようございます」


 真宮は、軽く会釈を返した。


「昨日の議事録、ひとまずまとめました。あと、外事二から追加の情報です」


 東雲佳織しののめかおりが、端末の画面をこちらに向ける。


 モニタには、複数の送金記録が並んでいた。


「“灯りの架け橋”名義の口座から、“市民の声ネットワーク”という任意団体宛の送金。

 そこから、さらに海外の“灰色協会”なる団体に流れています」


「“灰色協会”……また、曖昧な名前ですね」


 久瀬玲香くぜれいかが、腕を組む。


「“灰の旗旅団”と直接繋がっていると断定するには、まだ弱いですが」


「名前だけなら、世界中に同じものが山ほどありそうですからね」


 相馬が苦笑した。


「ただし」


 東雲が、画面をスクロールする。


「この“灰色協会”の代表者が、テロ資金供与リストの“要注意人物”に引っかかりました。

 外事二が、去年から追いかけている人物です」


「名前を」


「ラシード・ハリド。中東某国出身。

 表向きは難民支援NGOのスタッフですが、“灰色の刃”の資金調達係という疑いがあります」


 フロアの空気が、わずかに重くなった。


「つまり、“灯りの架け橋”からの金が、その人物の団体を経由している」


「現時点では、“可能性が高い”です。

 名義貸し、あるいは迂回送金の線も含めて、外事が調べています」


 真宮は、ホワイトボードの前に立った。


 青いペンで、「灯りの架け橋」の下に、「市民の声ネットワーク」、さらにその下に「灰色協会」と書き込む。


「ここまでは、まだ“合法的な寄付”の範囲に収まるでしょう」


「ですが、使途が問題になる」


 久瀬が言った。


「“灰色協会”が、武装組織の資金を肩代わりしていた場合、“灯りの架け橋”は結果的に“テロ資金供与”に加担している可能性がある」


「その通りです」


 真宮は、赤いペンに持ち替えた。


「現時点の仮説としては、“灯りの架け橋”は、“自分たちがどこに繋がっているかを、完全には理解していない”可能性が高い」


「……善意で集めた金が、どこかで“色を変えられている”」


 相馬の声に、わずかな苦味が混じる。


「利用されているのか。自覚的に乗っかっているのか。

 どちらにせよ、“放置していい話”ではありませんね」


「はい」


 真宮は、ボードに小さな×印を付けた。


「では、今日からの方針を確認します」


 フロアの視線が、一斉にこちらを向く。


「一つ。“灯りの架け橋”周辺の監視強化。

 久瀬警部補を中心に、支部の出入り、役員の動き、支援対象者のリストを把握してください」


「了解しました」


「二つ。資金の流れのトレース。

 東雲巡査長、外事二の田中審議官と連携して、“灰色協会”までのルートを可能な限り可視化します」


「承知しました」


「三つ。“灰の旗旅団”本体の情報収集。

 相馬警視、警視庁公安部の犬本情報分析官と接続し、過去の国内活動との関連性を洗ってください」


「了解です」


「四つ。――これは、警務課名義の仕事になりますが」


 真宮は、赤い線を一本引いた。


「“灯りの架け橋”の内部に、“意図的に外部組織と繋がろうとしている人物”がいないか。

 生活安全部および警務局と連携して、“内部告発”ルートの整備とケアを行います」


「内部告発、ですか」


 南條が、少し驚いたように声をあげた。


「まだ、“犯罪組織だ”と決まったわけじゃないのに」


「だからこそです」


 真宮は、淡々と答える。


「“善意だと思っていたものが、いつの間にか誰かを傷つけていた”と気付いたとき。

 その人が、“どこに相談すればいいか分からない”状態は、最も危険です」


 フロアに、静かな沈黙が落ちる。


「“灯りの架け橋”の中にも、必ず“どこかおかしい”と感じている人がいるはずです。

 その人たちが、行政や警察に“直接”繋がるルートを作る。

 それが、今回の“警務局併任”の役割の一つでもあります」


「……本当に、“便利な人”ですね、課長補佐は」


 相馬が、ぼそりと呟いた。


 揶揄とも、感心とも取れる口調。


「褒め言葉として受け取っておきます」


 真宮は、わずかに微笑んだ。


     ◆


 午前十時三十分。


 外事第二課の会議室。


 壁一面に世界地図が貼られ、各所に小さなピンが刺さっている。


「――以上が、“灰の旗旅団”に関する、現時点での外事側の分析です」


 田中審議官が、プレゼンテーションを終えた。


 プロジェクタには、武装組織の旗や、荒れた街の衛星写真が映し出されている。


「テロ組織としての規模は、中堅程度。

 ただし、オンラインでの宣伝能力が高く、“賛同者”を各国に散らしているのが特徴です」


「いわゆる、“分散型支援者ネットワーク”ですか」


 真宮が、資料をめくりながら問う。


「その通りです。

 中心にいるコアメンバーは、それほど多くない。

 ですが、“共鳴した個人”が、それぞれの国で小規模な犯行を行う」


「“狼独り”ですね」


 相馬が、顔をしかめる。


「はい。ただし、“灰の旗旅団”の場合は、さらに一段階グレーです」


 田中が、別のスライドを映す。


「海外のいくつかのケースでは、“実際に刃物を振るった人物”と、“資金や物資を用意した人物”が分離しています。

 前者は、“政治的主張のための行動”だと信じ込んでいる。

 後者は、“それを利用して、別の目的を達成しようとしている”」


「別の目的?」


「例えば、“敵対政党の支持率を下げる”とか、“特定の企業を市場から排除する”とか。

 要するに、“テロを道具として使う”勢力が、背後にいる可能性があります」


 会議室に、重い空気が流れた。


「国内では、まだ直接的な犯行は確認されていません。

 しかし、“灯りの架け橋”のような団体を通じて、“賛同者候補”がリストアップされている可能性があります」


「“孤立している人”“居場所を求めている人”」


 真宮が、小さく呟く。


「支援対象者の中には、“誰かのために役に立ちたい”“自分も戦いたい”と考える人もいる。

 そこに、“刃物”を持った思想が入り込めば――」


「そういうことです」


 田中が頷いた。


「ですから、“灯りの架け橋”は、単なるマネロンのハブとしてだけではなく、“リクルートの土壌”としても見ておく必要があります」


「……厄介ですね」


「ええ。非常に」


 短い言葉の応酬。

 だが、その背後で交わされる情報量は、膨大だった。


     ◆


 昼休み。


 といっても、“休み”と言えるほどの時間はない。


 それでも、外の空気を吸うためだけに、真宮は庁舎の屋上近くの小さなテラスに出た。


 冬の空は、淡い灰色。

 ビルの隙間から、遠くの街が見える。


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。


《お昼、ちゃんと食べてくださいね》


 真衣からのメッセージだった。


 “ちゃんと”という言葉に、少しだけ力が入っている気がする。


《可能な範囲で、摂取を試みます》


 真宮は、真面目なのか冗談なのか分からない返信を打つ。


 すぐに、スタンプと短い文章が返ってきた。


《それは“食べないときの前振り”です》


《最低限、コンビニのおにぎり二つくらいはお願いします》


(……見抜かれていますね)


 思わず、小さく笑みが漏れる。


 仕事の内容を詳しく伝えることは出来ない。

 だが、“ちゃんと生きて帰るつもりだ”という意思表示だけは、こうして出来る。


(この人の前で、“誰にも知られないまま一人で抱え込んで消える”ような真似は、二度としません)


 昨夜、自分が口にした言葉を、改めて胸の内でなぞる。


 誰にも知られないまま消えていく人たちを、現場で嫌というほど見てきた。


 行方不明者の数字。

 ニュースの片隅に載る、名前だけの報告。


 その一つ一つの裏に、どれだけの絶望や諦めがあったのか。


 だからこそ。


(だからこそ、“線”を引く必要がある)


 自分が守りたいものと、切らなければならないものの間に。


 それを間違えないために、今日の会議があり、現場がある。


     ◆


 午後三時。


 警視庁公安部・情報分析室。


 室内には、大型モニタが並んでいた。

 各国のニュース映像、SNSのトレンド、監視カメラの映像。


「――犬本情報分析官です。よろしくお願いします」


 眼鏡をかけた三十代後半の男性が、軽く頭を下げた。


「警視庁公安部情報分析担当。都内のテロ関連情報の集約をやってます」


「公安第一課課長補佐、真宮です。

 警備局側からの橋渡し役として、しばらくご一緒させていただきます」


 形式的な挨拶を交わしたあと、犬本はすぐにモニタの一つを指差した。


「見てください、これ」


 そこには、海外ニュースのテロップが流れていた。


《某国地方都市 路上で車両突入事件 死者3名》


「犯行声明、出ました。名義は“灰の旗旅団”。

 ただし、実行犯は地元の若者ひとり。

 オンラインでのやり取りのログを解析中です」


「タイミングとしては、“灯りの架け橋”の資金が流れた後ですか」


「はい。数ヶ月後ですね。

 直接の因果関係は、まだ断定できませんが」


 犬本は、別の画面を開く。


「国内では、今のところ“灰色の刃”名義での犯行声明は出ていません。

 ただし、掲示板やSNS上での書き込みは、ちらほら見られます」


 画面には、日本語と外国語が混ざったメッセージが並んでいた。


『この世界は灰色だ』

『旗を持つ者だけが、色を変えられる』


「……センスはあまり良くありませんね」


 真宮が、淡々と評する。


「でも、“引っかかる人”はいるんですよ、こういうのに」


 犬本は、苦々しげに言った。


「“自分は透明だ”“誰にも見えていない”と感じている人が、“刃を持てば存在を証明できる”と錯覚する」


「“存在証明としての暴力”」


「そうです。

 で、“灰の旗旅団”のやっかいなところは、“思想的にはそこまで尖っていない”ところです」


「尖っていない?」


「はい。“世界を変える”とか“大義のため”とか、そういう大きな物語をあまり語らない。

 どちらかと言えば、“今苦しいお前を、俺たちは理解している”という方向に寄せてくる」


 その言葉に、真宮は“灯りの架け橋”の朝比奈の笑顔を思い出した。


『役所は冷たい。警察は取り合ってくれない。家族はあなたを理解しない。……でも、ここは違う』


「……似ていますね」


「ええ。構造としてはほぼ同じです」


 犬本が頷く。


「“ここだけが、お前の居場所だ”と言う。

 そこに、“旗”がセットで付いてくるかどうかの違いだけです」


「“居場所”を掲げるところに、“灰の旗旅団”が入り込む余地が生まれる」


「なので、“灯りの架け橋”みたいな団体は、放置すると本当に危険なんです」


 犬本の声には、明確な危機感があった。


「“善意でやっているのだから”という盾を掲げながら、“旗を持った者”を増やす土壌になっていく。

 しかも、“誰のせいか”が分かりにくい形で」


「だからこそ、“どこで切るか”を見定める必要がある」


 真宮は、小さく息を吐いた。


「はい。警視庁側としては、出来れば“灯りの架け橋”の大規模集会までに、“灰の旗旅団”との直接のリンクを一つでも押さえたい」


「こちらも、そのつもりで動きます」


     ◆


 夕方。


 自席に戻ると、机の上に一枚の封筒が置かれていた。


 差出人は、監察官室。


『先日の噂話事案に関する処分決裁完了のお知らせ』


 中には、簡潔な報告書が入っていた。


 久保田警部――口頭注意および指導記録。

 三宅主査――厳重注意および人事評価への反映。

 南川警部――減給処分。

 北川元警視――警部への降任および地方警察本部への異動。


 すでに知っている内容だった。


 だが、“決裁済み”という印が押された紙を見ると、改めて“線が一本引かれた”ことを感じる。


(誰かの十数年を、“誰と付き合っているか”だけで測るような言葉は、少なくとも当分の間は減るでしょう)


 それが、どれほど世界を変えるのかは分からない。


 噂話は、また別の形で生まれるかもしれない。

 新しいハラスメントは、別の場所で芽を出すかもしれない。


 それでも。


(少なくとも、“氷川真衣”という一人の刑事に向けられる不必要な刃は、今は一本減っている)


 その事実だけは、数字には表れない。

 ニュースにもならない。


 だが、自分にとっては、テロ組織の資金ルートを一本潰すのと同じくらい重要な“仕事”だった。


 机の端に封筒を置く。


 同時に、スマートフォンの画面に目をやった。


《本日もお疲れさまです。

 ご無事でしたら、何よりです》


 真衣からのメッセージが届いている。


《何とか一通り、生き延びました》


 そう返しながら、思う。


(“仕事で”ではなく、“好きな人として”こういうメッセージを送ってくれる人を、守れないようなら)


 自分が今まで引いてきた“線”の意味すら、揺らいでしまう。


     ◆


 その夜。


 海外の、とある暗い部屋。


 薄い灯りの下で、数人の男たちがモニタを見ていた。


 画面には、日本語のニュースサイトが映っている。


《警視庁某署、捜査費不正使用で幹部処分へ》


「……日本の警察は、相変わらず“内部の汚れ”には敏感だな」


 一人が、鼻で笑った。


「良いことではないか」


 別の男が、淡々と言う。


「腐敗した権力は、長くは続かない」


「だが、そのおかげで、“こちらの仕事”はやりやすくなる」


 最初の男が、口元を歪めた。


「“正義”に忙しい警察は、“灰色の影”を見落とす」


 モニタの隅には、小さな送金記録が表示されている。


 “灯りの架け橋”――“市民の声ネットワーク”――“灰色協会”。


 そこからさらに、見えない経路を辿って、彼らの手元に金が流れ込んでいる。


「日本で刃を振るう準備はどうだ」


「土壌は、少しずつ整っている。

 “居場所のない者”は、どこの国にもいる」


 薄暗い部屋に、静かな笑い声が広がった。


 その笑い声と、霞が関のビルの灯りの間には、何千キロもの距離と、いくつもの“灰色の線”が横たわっている。


 その線のどこで、誰が刃を抜き、誰がそれを止めるのか。


 まだ、誰も知らない。


 ただ一つだけ確かなのは――


 明日の朝も、

 真宮秋也は、同じ玄関で同じ言葉を交わすだろうということだ。


「行ってまいります」


「お帰りをお待ちしております」


 敬語のまま。

 少しだけ近づいた距離を保ちながら。


 そのささやかな儀式が続く限り、

 彼は、旗ではなく“線”で世界を変えようとし続ける――。

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