第23話 火種の地図と、隣の体温

 警察庁本庁舎の上層階は、冬の朝でも空調がよく効いている。

 だが、その会議室の空気は、温度とは別の意味で冷たかった。


 窓際のブラインドは、途中までしか上げられていない。

 テーブル中央には、黒いモニタがいくつも並び、その手前に各省庁のネームプレートが整然と並べられている。


 ――官邸案件の色が、濃い。


 椅子に腰掛けながら、真宮秋也まみやあきやは静かにそう思った。


     ◆


「それでは、始めましょうか」


 最初に口を開いたのは、内閣官房 内閣情報調査室長――大山田おおやまだだった。


 五十代半ば。

 穏やかな顔つきだが、目の奥には“政権の呼吸”を読み続けてきた人間特有の疲れがある。


「本日の議題は一つです」


 大山田は、背後のスクリーンを顎で示した。


「更生支援NPO『灯りの架け橋』および関連団体を通じた資金・人の流れと、国際テロ組織との関連疑義について」


 スクリーンには、すでにいくつもの矢印と円が描かれていた。


 《灯りの架け橋》

 《灯りの会》

 《新しい芽を育てる会》

 《市民の声ネットワーク》


 それらから先に伸びる線は――国内外、いくつもの団体へと絡み合っている。


「警察庁 警備局 公安第一課、井上審議官」


 呼びかけられた男が、静かに立ち上がる。


 五十代前半。

 均整のとれた体格。

 声量を上げなくても、自然と部屋の端まで届く声の持ち主だ。


「では、公安側から現状をご説明します」


 その隣には、真宮も座っていた。

 肩書は、「警備局 公安第一課 課長補佐」。

 今日は、井上の補佐兼、実務レベルの調整役として同席している。


 テーブルの向こう側には――。


 組織犯罪対策部長・黒川剛志くろかわたけし

 警備部長・村瀬和也むらせかずや

 警視庁公安部 犬本いぬもと情報分析官。


 更に、

 警察庁 外事第二課 田中審議官。

 外務省 国際テロ対策室 参事官・佐野。


 そして、ネームプレートには「海上保安庁 情報課」「防衛省 情報本部」の文字も並ぶ。

 彼らはオブザーバーだが、存在感は小さくない。


 ――官邸、警察庁、警視庁、外務、防衛、海保。


 日本で「テロ」という言葉が正式に会議の議題に乗るとき、集まる顔ぶれだ。


「まずは、これをご覧ください」


 井上が、スイッチを押す。


 スクリーンが切り替わり、棒グラフと折れ線グラフが重なった図が表示された。


 《灯りの架け橋 寄付金推移》

 《関連団体への助成金流出》


 数年前から、右肩上がりに伸びる線。

 そこからさらに、複数の小さな団体に資金が“分散”されている。


「生活安全部の通報を受け、公安監視対象に格上げしたのが一年前」


 井上の声は淡々としている。


「当初の懸念は、生活保護受給者の囲い込みと、政治団体への違法な選挙動員。いわゆる“票田化”です」


 それ自体も、十分に問題だった。


 だが今日は、その先の話だ。


「その後、公安第一課および外事第二課でトレースを続けた結果――」


 クリック。


 画面が切り替わる。


 地図。

 日本列島から細い線が伸び、東南アジア、中東、ヨーロッパのいくつかの都市を結んでいる。


「国内団体『灯りの架け橋』および関連任意団体と、海外NGO『東アジア人道支援ネットワーク』との資金・人的な結びつきが確認されました」


 井上が、地図上の一つのポイントを示した。


「このNGOは、表向きは“紛争地域への医療物資支援”を掲げています。

 ですが、昨年から欧州の情報機関の一部が、“特定テロ組織との共謀のおそれ”ありとしてマークしている」


 黒川組対部長が、腕を組んだまま顎をしゃくった。


「例の、砂漠の国のやつか」


「はい」


 田中審議官が引き継ぐ。


「中東某国で活動する武装集団――“灰の旗旅団”」


 その名が出た瞬間、会議室の空気がわずかに緊張する。


「国際的には、特定テロ組織指定が検討されている段階です。

 現状、日本政府としては“便宜を図らない”という姿勢に留めていますが、欧米各国は事実上“テロ組織”として扱っている」


「……で、その“灰の旗”と」


 大山田が、ゆっくりと井上を見る。


「我々の国内NPOが、どう繋がっている?」


 井上は、一つ息を整えた。


 ここから先は――数字と線が、現実の“火種”に変わる部分だ。


「まず、『灯りの架け橋』が支援している若年層の一部が、『東アジア人道支援ネットワーク』主催の“海外ボランティアプログラム”に参加しています」


 スクリーンに、新たな図が出る。


 複数の顔写真。

 年齢、出身地、出国日。

 それぞれの下に、“帰国確認済”“所在不明”といった文字が並ぶ。


「このうち――」


 井上が、一本の線を示す。


「“所在不明”が、五名」


 静かなざわめきが、テーブルの上を走った。


「行方不明届は、三名分しか出ていません」


 犬本情報分析官が、端の席から口を挟む。


 三十代前半。

 眼鏡の奥の目は眠そうだが、指先は常にキーボードの上を滑っている。


「ほか二名は、家族関係が希薄で、“そもそも行き先を共有していなかった”パターンです。

 住民票上は、今も都内在住。ですが――」


 スクリーンに、パスポートの出入国記録が表示される。


「二年前に出国して以来、再入国の記録はありません」


 防衛省情報本部のオブザーバーが、軽く眉を上げた。


「現地で死んでいる可能性は?」


「否定はできませんが」


 田中審議官が答える。


「欧州経由で入ってきた情報では、“東アジア系の若者が現地で過激化し、一部が武装グループに合流している”という報告があります」


 佐野参事官が、メモをめくった。


「うちでも、各国大使館経由で照会をかけていますが……現状、“日本人”と特定できている例はまだありません」


「だが、“いない”とは言い切れない」


 大山田が、椅子の背にもたれた。


 その視線が、室内の全員を順番に舐める。


「官邸としては、“日本発のテロリスト”という事態だけは、絶対に避けたい。

 たとえ規模が小さくとも、“日本人が海外でテロに関与した”という事実が立てば、政治的なダメージは甚大です」


 村瀬警備部長が、軽く手を挙げた。


「国内でのリスクは?」


「現時点で、“灰の旗旅団”が日本国内で直接行動を起こす兆候はありません」


 犬本が、端末を見ながら答える。


「ただし――“扇動”のサインはじわじわと増えています」


「扇動?」


「はい」


 スクリーンに、SNSの画面がいくつも並ぶ。


 “制度はあなたを守らない”

 “本当の自由は、ここにはない”

 “外の世界でやり直そう”


 そんな文言が、匿名アカウントから繰り返し発信されている。


「投稿主の一部は、『灯りの架け橋』の関係者、あるいは支援を受けた人物と推定されています」


 犬本の声は、どこか乾いていた。


「直接“爆破しろ”“殺せ”とは言っていません。

 ただ、“現在の社会と自分の人生を徹底的に否定する”言葉を積み上げている。

 そうやって、現実から切り離していくタイプです」


「……出口を、一つに絞るやり方だな」


 思わず口をついて出たのは、久瀬の言葉だった。


 彼女は公安第一課の末席に座り、メモを取っていたが、気付けば会議の熱に巻き込まれていた。


「“ここではないどこかにしか救いはない”と信じさせる。

 そこまでは、宗教団体の一部と同じ。

 ただ、その先に“紛争地”や“武装組織”があるなら――」


「“出口”ではなく、“爆心地”になる」


 真宮が、静かに言葉を継いだ。


 何人かの視線が、自然と彼に向く。


「公安第一課として、『灯りの架け橋』および関連団体の“出口”を追ってきました」


 真宮は、前方の地図を見つめながら続ける。


「支援対象者が、どこに行き、誰と繋がり、どのような“物語”を与えられているのか。

 その一部が、“海外ボランティア”という名前で、日本の統計から外れていく」


「行方不明者統計と、照合したな」


 井上が小さく頷いた。


「はい」


 犬本が、別の画面を出す。


「年間約八万人前後――日本の行方不明者数です。

 もちろん、その多くは家庭内不和、認知症、借金、家出……様々な事情が絡んでいます」


 グラフの一部が、薄く色を変える。


「ですが、“ボランティア”“留学”“研修”といった形で出国した後、国内の居住実態が途絶えるケースも、決して少なくない」


「特に、ここ三年で増えているのが――」


 犬本が、赤い枠で囲んだ。


「『灯りの架け橋』の支援を受けた層と重なる、“二十代前半で、家族との繋がりが弱く、非正規雇用を転々としていた若年層”です」


 会議室に、重い沈黙が落ちる。


「数字がすべて“テロ”に繋がっているとは、申しません」


 井上が、慎重に言葉を選ぶ。


「ですが、“逃げ場のない若者”が、“唯一の居場所”を経由して海外の武装組織の影に触れている可能性は、否定できない」


「……では、結論を急ごう」


 大山田が、指先でテーブルを二度、軽く叩いた。


「我々は、何をする」


 それは、官邸の人間がよく使う言い回しだ。

 “できるかどうか”ではなく、“やる前提”で話を進める。


「『灯りの架け橋』に対する強制捜査を、直ちに行うべきだという意見もある」


 黒川組対部長が、腕を組んだ。


「資金洗浄の疑いだけでも、かなり黒に近い。

 フロント企業や暴力団との接点も見えてきている。

 ここで一度、ガツンと行ってもいいんじゃないか」


「ですが――」


 真宮が、静かに口を開いた。


「現時点の証拠だけでは、“テロ資金供与”での立件は困難です。

 無理に強制捜査に踏み込めば、“善意の支援団体を権力が潰した”という構図ができあがります」


 村瀬警備部長が、眉をひそめる。


「世論の話をしているのではないぞ、真宮君。

 これは、“未然防止”の話だ」


「承知しています」


 真宮は、一切怯まなかった。


「だからこそ、“どこまでを法で切れるか”を見極める必要があります。

 テロを口実に、気に入らない団体を片っ端から潰すような前例を作れば――それこそ、我々が守るべき“線”が崩れます」


 大山田が、わずかに目を細めた。


「では、君はどうするべきだと考える」


「“火種の地図”を、もう一段細かく描きます」


 真宮は、スクリーンに映る矢印の群れを見据えた。


「資金の流れだけでなく、“人の物語”を追う。

 行方不明者統計、出入国記録、『灯りの架け橋』の支援履歴、SNS上の言動――」


 指先で、空中に線を描くようにしながら続ける。


「“このまま放置すれば、どこで爆心地になるか”を、可能な限り具体的に見える化する。

 それができれば、“どこで、どのタイミングで、どの名目で介入するか”を、法の枠内で選択できます」


「数字と構造で、火種を囲い込む、ということか」


 田中審議官が、小さく笑った。


「君らしい」


 大山田が、再び全員を見渡す。


「では――こうしよう」


 彼は、指先で三本の線を空に描いた。


「一点目。

 『灯りの架け橋』および関連団体に関して、公安・外事・組対・警備で“合同タスクフォース”を設置する。

 事務局は警察庁警備局公安第一課。井上審議官、よろしいですね」


「承知しました」


 井上が、短く頭を下げた。


「二点目。

 外務省および防衛省、海保はオブザーバーとして、海外情報および海上ルートに関する知見を随時共有する。

 佐野参事官、防衛省情本、海保情報課も、異論は?」


「ありません」


「了承しました」


 短い返事が重なる。


「三点目」


 大山田は、わずかに声を低くした。


「官邸は、“日本発のテロリストを出さない”という原則を堅持しつつ、“国内の支援団体を一方的に政治的に叩かない”というバランスを取る。

 世論対策、報道対応は、こちらで引き取ります」


 その言葉は、公安にとってはありがたくもあり、同時に重荷でもあった。


「真宮君」


「はい」


「君には、“線引き役”を期待しています」


 大山田の視線が、真っ直ぐに突き刺さる。


「テロ対策の名の下に、何でも許されるとは、私は思わない。

 だが、“何もしない”という選択肢も取れない。

 その間で、どこまで踏み込むか――その感覚を、君は持っていると聞いている」


 真宮は、一瞬だけ過去の陶器棚を思い出し、それから静かに頷いた。


「光栄です。

 ただ、“私個人の感覚”ではなく、“数字と法の線”で答えを出します」


「それでいい」


 大山田は、満足そうに目を細めた。


「では――タスクフォースの初動計画について、具体的に詰めましょう」


     ◆


 会議の後半は、実務レベルの割り振りになった。


「公安一課は、『灯りの架け橋』大規模集会の全面モニタリングだ」


 井上が、ホワイトボードに書き込んでいく。


「相馬警視」


「はい」


「実働班の編成を。

 会場内外での張り付き、キーマンの動線確保、緊急時の確保要員まで。

 “あくまで監視”を建前にしつつ、“いつでも動ける”態勢を整えておけ」


「了解しました」


 相馬は、手帳にメモを走らせる。


「久瀬は、幹部クラスの行動パターンを洗え。

 朝比奈のほかに、“実際に手を動かしている”連中がいるはずだ。

 東雲は、会場内外の通信・映像の集約窓口」


「承知しました」


「了解です」


 短い返事の一つひとつが、現場の重さを引き受けていく。


「外事二課は?」


 田中が、水城みずき警視に視線を送る。


「『東アジア人道支援ネットワーク』側の動きです」


 水城は、落ち着いた声で答えた。


「在外公館および相手国当局との情報交換を強化します。

 特に、“日本人ボランティア”の現地での扱い、“灰の旗旅団”と活動エリアが被っていないか――その辺りの実態を詰めます」


「頼む」


 田中が頷く。


「犬本」


「はい」


「行方不明者統計と、『灯りの架け橋』支援者リスト、出入国記録、SNSの動き――すべてクロスして、“ハイリスク群”を洗い出せ」


 井上が、ペン先で空中に丸を描く。


「“どの層が、どのタイミングで、どんな言葉で動かされやすいか”――そこまで見たい」


「難しい注文ですね」


 犬本は苦笑したが、その目はどこか嬉しそうでもあった。


「“数字”で人間を切るのは好きじゃないですが、“数字”で救えるなら、やりますよ」


「組対は?」


 井上が黒川を見る。


「資金の国内側だ」


 黒川は、短く答えた。


「フロント企業、暴力団、政治団体。

 “灯りの架け橋”の金が、一度どこに落ちて、それからどう洗われているか。

こっちは、うちの得意分野だ」


「頼もしいですね」


 真宮が、思わず口にすると、黒川は鼻で笑った。


「お前さんの“線引き”のほうがよっぽど難儀だろう。

 俺たちは、“ここまで来たら黒”ってラインが比較的はっきりしてるが、そっちは“灰色”とずっと付き合う仕事だ」


「その灰色を、どう切り分けるかが、今回の鍵になります」


 真宮は、落ち着いた声で返した。


「“テロ対策だから”の一言で、灰色を黒に塗りつぶす気はありません」


「頼むから、官邸の前ではそういうことをあまりストレートに言わないでくれ」


 村瀬が、半ば冗談めかして言った。


「政治の人たちは、“グレー”より“白か黒か”のほうが安心する」


「そうですね」


 真宮は、わずかに口元を緩める。


「だからこそ、“どこを黒にしていいか”を、こちらで先に決めておく必要があります」


 その言い方に、井上が小さく笑った。


「……本当に、“長官の息子”とは思えん物言いだな」


「父とは、よく意見が割れますので」


 淡々と返しながらも、心のどこかで――。


(それでも、この立場があるからこそ、動かせるものもある)


 と理解している。


 “便利な駒”として使われることには、もう慣れている。

 問題は、その駒で、どこまで“終点”を動かせるかだ。


     ◆


 会議が終わったのは、日がすっかり傾いた頃だった。


 庁舎の廊下には、いつものように、抑えられた靴音が続いている。

 その中を歩きながら、真宮はポケットの中のスマートフォンを確かめた。


 未読メッセージが一件。


『今夜、カレーではありません。

 お腹の空き具合は、いかがでしょう?』


 送り主:氷川真衣ひかわまい


 思わず、口元が緩む。


(……終点の話ばかりしていると、バランスが悪いですね)


 返信は、短く。


『程よく空いています。

 程よく、疲れています』


 送信ボタンを押してから、少しだけ考え、もう一行追加した。


『お邪魔してもよろしいでしょうか』


 数秒も経たないうちに、返事が来る。


『もともと、そのつもりで煮込んでいます。

 お待ちしております』


 仕事の画面を閉じ、私生活の通知に切り替える。

 その感覚にも、少しずつ慣れてきた。


(“誰にも知られないまま、誰かが一人で抱え込んで消える”――)


 今日の会議でも、心のどこかで、その言葉がぐるぐると回っていた。


 だから、せめて。


 自分は、誰かに「一緒にいていいですか」と言える側でいたい。

 そして、誰かから「いてください」と言われる側でありたい。


 ――それが、刃ではない“終わらせ方”の、もう一つの形かもしれない。


     ◆


 マンションのドアを開けると、柔らかな光と、トマトソースの匂いが迎えた。


「お邪魔します」


「お疲れさまです」


 エプロン姿の真衣が、キッチンから顔を出した。


「今日は、ラザニアです。

 カレーを続けると、“ラクを覚えたな”と思われそうだったので」


「誰もそんなことは言っていませんが……」


 思わず笑いながら、コートをハンガーに掛ける。


「嬉しいです」


「それなら、よろしいです」


 短いやり取りの中にも、どこか“職場”とは違う空気がある。


 テーブルには、すでにサラダとスープが並べられていた。

 陶器の皿は、相変わらず手作りのものが多い。


「新しいのは、どれですか」


「これと、これです」


 真衣が指差したのは、少し深めのグラタン皿と、小さな取り皿だった。


「ラザニアを無理やり入れても割れなかったので、そのまま採用しました」


「強度テスト済みなのですね」


「はい。現場主義なので」


 そんな軽口を交わしながら、二人で食卓に着く。


「……今日も、行方不明者のニュースが流れていましたね」


 テレビからは、ちょうどそんなニュースが流れていた。


『――警察庁は、全国の警察に対し、行方不明者情報の積極的な公開を呼びかけています――』


 テロップの横には、“八万三千五百二十人”という数字が表示される。


「減りませんね」


 真衣が、小さく呟く。


「数字は、簡単には動きません」


 真宮は、ラザニアを一口味わってから答えた。


「一つひとつのケースは、すべて違う事情を抱えています。

 その中から、“どこが終点であるべきか”を見つけるのは、簡単ではありません」


「でも、見ようとしている人は、少なくとも何人かいる」


 真衣が、真っ直ぐに彼を見る。


「行方不明者の数字を、“ただの数字”として見ない人が」


「……そうありたいとは思っています」


 言葉にすると、少し気恥ずかしい。


「今日も、そういう話でしたか」


「はい」


 嘘はつかない。

 ただ、詳細は語らない。


「“出口が紛争地につながっているかもしれない”――そんな話です」


「……やりきれないですね」


 真衣は、スープを一口飲んでから、小さく息を吐いた。


「“灯りの架け橋”の件、ですね」


 名前を出したのは、氷川のほうだった。


「捜査一課にも、少しだけ情報が降りてきました。

 “直接事件化しているわけではないが、相談対応の際には名前を見たら注意するように”と」


「情報共有が行われているのは、良いことです」


 真宮は、素直にそう言った。


「ただ、現場に余計な恐怖だけを流すわけにもいきません。

 “怪しい団体だ”というラベルだけが一人歩きすると、別の被害が出ますから」


「“噂話”になってはいけない、ということですね」


 真衣の言葉には、二十二話での出来事が滲んでいた。


「はい」


 真宮も、自然と頷く。


「“噂”と“警戒情報”の境界線は、思っている以上に近い場所にあります。

 だからこそ、言葉を選ぶ必要がある」


「……そういうところだけ、本当に頑固ですよね」


 真衣が、少しだけ苦笑する。


「恋人が噂話のネタにされても、感情論ではなく、線引きの話をする」


「感情がないわけではありません」


 真宮は、さすがにそこは否定した。


「あなたの十数年を、安っぽい言葉で貶されるのは、警察官としても、男としても、不快でした」


「今日は、はっきりと言いましたね」


 真衣の頬が、わずかに赤くなる。


「ラザニア効果でしょうか」


「ラザニアにそんな効能があるとは知りませんでした」


 冗談を挟みながらも――二人の視線は、どこかで絡まり続けている。


     ◆


 食事を終えると、自然とソファに並んで座る流れになった。


 テーブルの上には、まだ少しだけワインが残っている。

 テレビは音量を絞られ、代わりに部屋の隅のスタンドライトが柔らかい光を落としている。


「本当に、お疲れではありませんか」


 真衣が、隣で尋ねる。


「少しは、疲れています。

 ですが――」


 真宮は、視線を彼女の横顔から足元へと一瞬落とし、それから正面に戻した。


「ここにいるときのほうが、“まともな疲れ方”をしている気がします」


「どういう意味でしょうか」


「職場では、“終点”のことばかり考えていますから。

 ここでは、“途中”のことを考えられる」


 答えながら、自分でも少しだけ驚く。


(……だいぶ、正直になってきましたね)


 真衣が、ソファの背にもたれながら、少しだけ彼のほうに体を預けた。


「こちらとしては、課長補佐に“途中”を思い出していただくのが、主な業務ですので」


「“業務”でしたか」


「はい。ボランティアではありません」


「では、対価をお支払いしなければなりませんね」


「え」


 一瞬、真衣の動きが止まる。


「……具体的には、どういった形の対価をお考えで?」


「そうですね」


 真宮は、真面目な顔のまま少し考え込む。


「まずは、“一晩、隣にいることを許可していただく”というのはいかがでしょうか」


「それ、対価というより、単なる希望ですよね?」


「希望を、きちんと“お願い”として表明するのも、大人の礼儀だと思いまして」


 敬語のまま、内容だけが少しずつ甘くなる。


 真衣は、ソファの背にもたれていた体を起こし、真宮のほうを向いた。


「……そういうことを真顔でおっしゃるの、反則だと思います」


「失礼しました」


「いえ」


 首を横に振る。


「嬉しいので、反則のままで大丈夫です」


 その言い方が、自分でも少し甘すぎると分かっているのか、真衣の耳が赤い。


「今日は、“帰れ”とは申し上げません」


「ありがとうございます」


「むしろ、“いてください”とお願いしたいくらいです」


 言い終えた瞬間、自分で自分の言葉に戸惑ったのか、視線をテーブルのほうに逃がす。


「……今のは、聞かなかったことにしていただけると」


「できれば、記録しておきたいところですが」


「課長補佐、ここは監察官室ではありません」


「そうですね。では、“心の中の記録媒体”にだけ保存しておきます」


「それが一番ずるいです」


 言葉では文句を言いながらも――真衣は、ソファの背からもう一度彼の肩へと体を預けた。


 肩と肩が触れる。

 その一点から、じわりと温度が広がっていく。


「……今日は、終点の話は、ここまでにしませんか」


 真衣が、小さな声で言う。


「行方不明者も、テロも、噂も、職場の人たちも。

 全部、一旦棚の上に置いておく時間が、少しだけ欲しいです」


「賛成です」


 真宮は、すぐに同意した。


「私は、“仕事以外の話をする”という訓練が、必要だと以前から感じていました」


「訓練、ですか」


「はい。たとえば――」


 彼は、ほんの少しだけ表情を崩す。


「最近、ラザニアのソースが濃くなってきた理由とか」


「それ、仕事以上に答えにくい質問なんですけど」


「そうでしょうか」


「“あなたが来る回数が増えたので、ちゃんとしたものを作りたいと思うようになりました”なんて、言えるわけがないじゃないですか」


 言ってから、自分で気付いた。


「……あ」


「今、とても重要な証言が得られました」


「取り消しはできませんか」


「残念ながら、録音はしていませんが、記憶にはしっかり残りました」


「だから、その“記憶媒体”を一度フォーマットしていただきたいんです」


「嫌です」


 あまりにも即答だったので、真衣が吹き出した。


「……そういうところ、本当にずるいです」


「自覚はあります」


 そんな他愛もないやり取りを重ねながら、二人の距離は自然と縮まっていく。


 ソファの背に預けていた真衣の頭が、いつの間にか真宮の肩に落ち着いていた。

 彼の手は、躊躇いがちに、しかし確かに彼女の指先を探し当てる。


 絡めた指先に、わずかな力がこもる。


「……真宮さん」


「はい」


「お願いがあるのですが」


「何でしょう」


 少しだけ呼吸を整えてから、真衣は言った。


「今日は、“お疲れさま”のハグを、先払いでいただけますか」


「先払い、ですか」


「はい。

 このあと、きっと、もう少しだけ欲張りになると思うので」


 自分で言っておきながら、顔をあげることができない。

 視線は膝の上に落ちたまま、耳だけが真っ赤になっている。


 真宮は、ゆっくりと彼女の肩に腕を回した。


 軽く、ではなく。

 かといって、強く締め付けるのでもなく。


 “ここにいる”と、互いに確認できる程度の力で。


「いつでも、何度でも」


 耳元で、低い声が落ちる。


「“お疲れさま”は、払います」


「……それ、支払い過ぎて赤字になりませんか」


「大丈夫です」


 少しだけ抱きしめる力が強くなる。


「あなたからも、“対価”をいただいていますので」


「対価、ですか」


「はい。

 たとえば――」


 ほんの僅かに体を離し、視線を合わせる。


「こうして、“一日を終わらせる場所”を、共有させていただいていることとか」


 その一言で、真衣の目の奥に、すっと何かが灯った。


「……そう言われると、弱いですね」


「それは、良かったです」


「良くないです」


 口では否定しながらも、彼女の指先は、真宮のシャツの袖をそっとつまんで離さない。


「“終点”ばかり見ていた人が、“終わらせたくない時間”を作ってくれているんですから」


「終わらせたくない時間、ですか」


「はい。

 少なくとも、私にとってはそうです」


 静かな告白だった。


 言葉ほど、声は大きくない。

 だが、その小ささがかえって重みを増している。


 真宮は、小さく息を吸い、吐いた。


「……今夜は、そこに、ご一緒してもよろしいでしょうか」


「質問の仕方がずるいです」


「そうでしょうか」


「“よろしいでしょうか”なんて言われて、断れる人間がどれだけいると思ってるんですか」


「少なくとも、あなたではないと信じていました」


「自己評価が高いですね」


 言いながら、真衣はそっと顔を近づけた。


 敬語のまま。

 職業倫理も、自尊心も、今まで積み上げてきたものも、何一つ捨てないまま。


 ただ、唇の距離だけが――静かに、縮まっていく。


 触れた瞬間、部屋の中の音が、ほんの少し遠くなった気がした。


 テレビのニュースも、外を走る車の音も、隣の部屋の生活音も。

 そんなものより、今は目の前の呼吸が近い。


 唇が離れたあとも、額と額は触れたままだった。


「……あの」


「はい」


「今のは、“先払い”ですか、“本払い”ですか」


「そうですね」


 真宮は、少しだけ考えるふりをした。


「“前金”ということにしておきましょうか」


「ということは、まだ続きがあると」


「はい。

 ただし、こちらの心臓の耐久度を考慮しながらになりますが」


「心臓の耐久度、ですか」


「ええ。最近、想定よりも脆いことが分かりましたので」


 そんな会話を交わしながら――。


 スタンドライトの光は、少しだけ弱められた。

 カーテンの隙間から覗く街灯りは、そのまま静かに外を照らしている。


 だが今夜は、そのどちらも、二人の“終点”ではない。


 だが今夜は、その考えを追い払う。


 職場で追いかける“終点”も、火種の地図も、行方不明者の数字も。

 すべて、ひとまず棚の上に置いて――。


 隣にある体温だけを、

 確かめるように。


 敬語のまま、

 言葉の端々に滲む照れと、

 指先で触れるたびに増えていく“恋人感”だけを頼りに、


 二人の距離だけが、静かに、しかし確実に近づいていった。

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