第2話




 「それで、酉の妖怪が何故に、遥々房総の地に来たのだ?」

 悪守が問いかける。


「期待しているかも知れないけれど、島流しとかでは無いわよ」


 「お母さんが可愛い子には旅をさせよってさ」


 紅葉は水筒を取り出し、コップ代わりの蓋に並々と麦茶を注ぐ。

 そして、ごくごくと喉を鳴らしながら身体を潤す。


 「……外界にはこんなにも素晴らしい飲み物があるのよ」


 爽やかな夏風が吹くのと同時、左手の指先を悪守へと差し向ける。


 「――井の中の蛙大海を知らず」


 紅葉は続けて言葉を積み重ねる。


 「貴方が暮らしているこの土地だけじゃないのよ。社会変革があったのはね」


 悪守は無い鼻を鳴らした。


 「そんな粗品、誰が欲しがるか――とでも言いたげな面じゃな」


 紅葉は肩をすくめる。


 「まあ、土蚯蚓には勿体ない品だろうけどね」


 悪守は外方を向いた。


 「……童を見たのも幾分前か」


 「山椒魚みたいね」


 紅葉は洞の外気温でも量るように淡々と言い放った。


 「でも、干乾びてないだけご立派よ」


 軽蔑を含みながらも、尊敬の念も込める。


 「世がどれだけ移ろおうと、此処で呼吸し続けている。その往生際の悪さだけは、評価してあげてもいいわ」


 悪守は口腔の奥で土砂を転がすように低く笑った。


 「褒め言葉として受け取っておこうか、小娘」


 「どちらでもいいわよ。受け取り方は土生虫の自由だもの」


 麦茶の残滓を口の中で転がしながら、紅葉は淡く肩を揺らした。


 「……腐りもせず、逃げもせず、ただそこに居続けた。それって、案外難しいことなのよ」


 「ふん。吾に説教を垂れるとは、随分と偉くなったものだな」


 「偉くなんてないわ。ただ――」


 土埃の漂う空気をひとつ吸い込み、視線を悪守へと戻す。


 「変わらないものの強さ、それを知っているだけよ」


 悪守はそれを受け流したかに思われた。

 しかし、頭部をゆっくりと紅葉に近づけ、

 「変わらぬものに美学を見出すとは、小娘の分際にして少々風流であるな」と述べる。


 「何、阿呆なことを言っているの?」


 紅葉は口を紡ぐことなく、説教臭く垂れた。


 「変化を完全に否定している訳では無いの。

――唯、古典的な事を全て忘れようだなんて薄情で出来ないだけよ」


 「――そうか。少々腹を割ることができると思ったが」


 悪守は声を落とす。


 「別に調伏しに来たわけでは無いし、かと言って利点のない会話をするだけ時間の無駄だ」


 声音には怒気も温度もなく、ただ初冬の風のような乾いた平静だけがあった。


 紅葉は決して無関心ではない。

 ただ、情というものがいずれ己を蝕むと知っているがゆえに、その芽を、悪守へ渡すことだけは避けたかったのである。


 まして、悪守とはいえ、人畜以外の畜生に情緒を揺さぶられるなど滑稽千万なのだ。

 

 「――人畜無害の妖なら可愛いものだけど、悪守だしね」


 紅葉は口角を僅かに釣り上げた。


 その口跡を聞いた刹那、悪守の表情が変わる。


 もちろん蚯蚓なので顔という顔はない。

 所謂のっぺらなのだが、それが深々と伝わってくる。


 「小娘、吾を悪守と呼ぶか?」


 それに対し、紅葉は驚いたように口を開いた。


 「その反応を見るに、言われたのは初めてのようね」


 悪守はしばし紅葉を見据えたのち、声を低く潜ませるように吐き出す。


 「小娘が意気がると思うに、やはりか」


 紅葉は僅かに口角を揺らし、軽く声を落とす。


 「素直に受け入れるなんて意外ね」





 少女と化物は面と向かい対峙を続けている。

 しかし、先の刺々しいモノとは明らかに異なる雰囲気を醸し出していた。


 というよりも、徐々に丸くなっているという方が正しいのだろう。


 「――有為転変、それは熟感じておった。

人や畜生をひっくるめ、久しい来訪者がお主だった」


 悪守はそれを悟っていたのだ。


 だからこそなのか、若干であるが、悪守の口調が緩んだように感じられた。



 「――良かったわね。静かに逝去する前に、私に会えたのだもの」



 妖は人々の記憶から完全に忘れさられること。

 これが人間の死という概念に相当する。


 悪守というのは、本来活気を失った寺院に住み着くものだ。

 しかし、稀に例外というのもある。


 人を喰うなりして、坊主に鎮められ、界の中に閉じ込められる。

 それが何時しか土地神と崇められ、何時しか寂れ、悪守となる。


 これが、この悪守のあらましである。

 

 「――そうかも知れぬな」


 悪守は再び言の葉に笑みを混ぜる。

 

 だが、それは今迄のものとは意味が違う。


 それは、少女への嘲笑に対し、愉悦が勝ったことを意味していた。


 「⋯⋯蚕と一緒ね。人の手が入ると、『元の世界』には戻れない――故に、一人では生きていけない」


 それを淡々と述べる紅葉自身も、いつの間にか顔が緩んでいた。


 まるで夏の氷屋の如く、緩まずにはいられなかったのだ。

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