第2話
3
「それで、酉の妖怪が何故に、遥々房総の地に来たのだ?」
悪守が問いかける。
「期待しているかも知れないけれど、島流しとかでは無いわよ」
「お母さんが可愛い子には旅をさせよってさ」
紅葉は水筒を取り出し、コップ代わりの蓋に並々と麦茶を注ぐ。
そして、ごくごくと喉を鳴らしながら身体を潤す。
「……外界にはこんなにも素晴らしい飲み物があるのよ」
爽やかな夏風が吹くのと同時、左手の指先を悪守へと差し向ける。
「――井の中の蛙大海を知らず」
紅葉は続けて言葉を積み重ねる。
「貴方が暮らしているこの土地だけじゃないのよ。社会変革があったのはね」
悪守は無い鼻を鳴らした。
「そんな粗品、誰が欲しがるか――とでも言いたげな面じゃな」
紅葉は肩をすくめる。
「まあ、土蚯蚓には勿体ない品だろうけどね」
悪守は外方を向いた。
「……童を見たのも幾分前か」
「山椒魚みたいね」
紅葉は洞の外気温でも量るように淡々と言い放った。
「でも、干乾びてないだけご立派よ」
軽蔑を含みながらも、尊敬の念も込める。
「世がどれだけ移ろおうと、此処で呼吸し続けている。その往生際の悪さだけは、評価してあげてもいいわ」
悪守は口腔の奥で土砂を転がすように低く笑った。
「褒め言葉として受け取っておこうか、小娘」
「どちらでもいいわよ。受け取り方は土生虫の自由だもの」
麦茶の残滓を口の中で転がしながら、紅葉は淡く肩を揺らした。
「……腐りもせず、逃げもせず、ただそこに居続けた。それって、案外難しいことなのよ」
「ふん。吾に説教を垂れるとは、随分と偉くなったものだな」
「偉くなんてないわ。ただ――」
土埃の漂う空気をひとつ吸い込み、視線を悪守へと戻す。
「変わらないものの強さ、それを知っているだけよ」
悪守はそれを受け流したかに思われた。
しかし、頭部をゆっくりと紅葉に近づけ、
「変わらぬものに美学を見出すとは、小娘の分際にして少々風流であるな」と述べる。
「何、阿呆なことを言っているの?」
紅葉は口を紡ぐことなく、説教臭く垂れた。
「変化を完全に否定している訳では無いの。
――唯、古典的な事を全て忘れようだなんて薄情で出来ないだけよ」
「――そうか。少々腹を割ることができると思ったが」
悪守は声を落とす。
「別に調伏しに来たわけでは無いし、かと言って利点のない会話をするだけ時間の無駄だ」
声音には怒気も温度もなく、ただ初冬の風のような乾いた平静だけがあった。
紅葉は決して無関心ではない。
ただ、情というものがいずれ己を蝕むと知っているがゆえに、その芽を、悪守へ渡すことだけは避けたかったのである。
まして、悪守とはいえ、人畜以外の畜生に情緒を揺さぶられるなど滑稽千万なのだ。
「――人畜無害の妖なら可愛いものだけど、悪守だしね」
紅葉は口角を僅かに釣り上げた。
その口跡を聞いた刹那、悪守の表情が変わる。
もちろん蚯蚓なので顔という顔はない。
所謂のっぺらなのだが、それが深々と伝わってくる。
「小娘、吾を悪守と呼ぶか?」
それに対し、紅葉は驚いたように口を開いた。
「その反応を見るに、言われたのは初めてのようね」
悪守はしばし紅葉を見据えたのち、声を低く潜ませるように吐き出す。
「小娘が意気がると思うに、やはりか」
紅葉は僅かに口角を揺らし、軽く声を落とす。
「素直に受け入れるなんて意外ね」
4
少女と化物は面と向かい対峙を続けている。
しかし、先の刺々しいモノとは明らかに異なる雰囲気を醸し出していた。
というよりも、徐々に丸くなっているという方が正しいのだろう。
「――有為転変、それは熟感じておった。
人や畜生をひっくるめ、久しい来訪者がお主だった」
悪守はそれを悟っていたのだ。
だからこそなのか、若干であるが、悪守の口調が緩んだように感じられた。
「――良かったわね。静かに逝去する前に、私に会えたのだもの」
妖は人々の記憶から完全に忘れさられること。
これが人間の死という概念に相当する。
悪守というのは、本来活気を失った寺院に住み着くものだ。
しかし、稀に例外というのもある。
人を喰うなりして、坊主に鎮められ、界の中に閉じ込められる。
それが何時しか土地神と崇められ、何時しか寂れ、悪守となる。
これが、この悪守のあらましである。
「――そうかも知れぬな」
悪守は再び言の葉に笑みを混ぜる。
だが、それは今迄のものとは意味が違う。
それは、少女への嘲笑に対し、愉悦が勝ったことを意味していた。
「⋯⋯蚕と一緒ね。人の手が入ると、『元の世界』には戻れない――故に、一人では生きていけない」
それを淡々と述べる紅葉自身も、いつの間にか顔が緩んでいた。
まるで夏の氷屋の如く、緩まずにはいられなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます