第52話
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「だいぶ元気になってきたんじゃないか? もうすぐ歩けるかもな」
戸羽の声は、研究中の冷徹なそれではなかった。過剰なくらいに柔らかく、甘やかすような調子が混じっている。
「もう、ショウ君。一日やそこらでどうにかなるものでもないんでしょ?」
珠代はそう言って、軽く唇を尖らせる。その些細な仕草ひとつで、戸羽の表情は無残なほどに崩れた。
「まあ、そうなんだけどさ。ただ、こうして話してるとどうしても、な」
「未だ、上手く身体が動かないんだよ。こうやって抱きかかえて貰ってやっとだもん」
戸羽が珠代の肩と背を支え、慎重に体勢を整える。まるで壊れ物でも扱うかのような手つきだ。珠代もそれを擽ったそうに受け止め、はにかんでいる。
「大丈夫だ。すぐにまた元の生活に戻れる。だから、安心しろよ」
「医者でもないショウ君にそんなこと言われてもなあ。合理性がないよ」
珠代は不満そうに眉尻を吊り上げながらも、その声に棘がない。むしろ戸羽の反応を愉しむような、甘えに近い響きすら含んでいた。戸羽は苦笑を浮かべたまま肩をすくめるが、その頬は完全に緩みきっている。
求めていた風景が、確かにここにあった。
御影は思わず息を呑む。失われたはずの時間。灰になったはずの日常が、何事もなかったかのように再生されている。
だが同時に、これがどれほど歪な土台の上に築かれた砂上の楼閣であるかも、御影は痛いほど理解していた。
惹かれれば惹かれるほど、
「……戸羽。少しいいか?」
気づけば、御影は声を発していた。
一瞬、戸羽の表情に微かな影が落ちる。だが、それはすぐに取り繕うような笑顔に上書きされた。
「ああ? なんだよ」
御影は顎で促し、休憩室を出るよう合図する。戸羽は一度だけ珠代に視線を送り、慈しむように彼女の耳元に口を近づけた。密やかな、二人だけの儀式。何を囁いたのかは御影には聞こえない。戸羽は満足げに身を離すと、ようやく御影の後に続いた。
薄暗い廊下に出ると、ガラス越しに並ぶ無機質な機械たちが、興味深そうに自分たちを監視している気がした。数歩進んだところで、背後から戸羽の低い声が響く。
「おい、御影。少しは遠慮してくれよ。俺が忙しいのはわかってるだろ?」
苛立ちを隠そうともしない声音。珠代の前で見せていた柔和さは、見る影もなかった。
「悪いとは思っている。だが、確認せずにはいられないことがある」
御影は足を止め、振り返る。戸羽は腕を組み、露骨に不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。逢瀬を邪魔されたという敵意。それがそのまま表情に出ている。その自覚はあるが、それでも引くわけにはいかなかった。
「……珠代はどこまで覚えているんだ?」
言葉にした瞬間、御影の胸の奥がひりついた。
自分たちが生み出してしまったもの。踏み越えてしまった倫理の一線。そして、目の前の彼女がそれをどこまで理解しているのかという、致命的なまでの不透明さ。
戸羽は即答しなかった。一瞬だけ視線を逸らし、廊下の壁を見つめる。その沈黙が、何より雄弁に不確実性を物語っていた。
「……今は、直近の記憶までだろう。死ぬ前日か、それくらいの間だ、と思う」
「つまり、自分が一度死んだこと。自分が何であるかは……まだ思い出せていない、ということか?」
御影が低く問いかければ、戸羽はゆるやかに首を左右に振った。
「だろうな。思い出してはいないと思う。そして、今後も……思い出す事はないだろう」
想定通りだったのか、今度は確信に満ちた否定を被せてきた。
御影は眉をひそめる。その言葉が示す断絶の意味を、すぐには呑み込めない。
「どういう事だ? いずれは思い出すんじゃないのか?」
「かもしれん。だが、そうはならないと予測している。フラッシュバックを聞いた事があるだろう?」
「PTSD、か……」
御影の返答に、戸羽は曖昧に頷いた。
戸羽はそのまま壁に背を預け、視線を虚空へ向けたまま説明を続けようと口を開く。
それは御影に聞かせるというよりも、自分自身に言い聞かせ、自らの行いを正当化する儀式のような響きだった。
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