虚数解のレプリカ

神山

序章:喪失の原点 -Null Vector-

第0話


 冷たい雨が、焼香の香りを薄めていく。

 しとしと降り続く雨が黒い傘を叩く。その音に耳を澄ませながら、御影みかげ 継人けいとは、ようやく胸に溜めていた重い空気を吐き出した。


 本堂には僧の読経が低く響き、並んだ喪服の列が揺れている。

 香煙が雨に溶け、灰色の空へほどけていった。


 御影には葬儀の経験がほとんどなかった。喪服は成人式に買って以来、初めて袖を通した。防腐剤のかすかな臭いが、まだ鼻につく。


 珠代たまよのいない世界を、冷たい雨が静かに濡らしていた。

 肌に刺さるような冷たさが雨粒とともに体を伝う。傘の端を指先で傾けながら、胸の奥に押し込んでいた思いがじわりと広がった。


 珠代がいた頃の光景が脳裏ににじむ。研究室で笑い合った夜。夏祭りの花火の匂い。三人で過ごした何もしなかった休日。クリスマスの喧噪。

 珠代を中心に自然と輪になっていたあの日々。もう戻らない、あの笑いも、あの温度も、あの存在も。


 胸の中にぽっかりと穴が空いたような感覚だった。きっと二度と埋められない。

 失ってから初めて気付いたことがある。だが、決して御影は言葉にはしなかった。してしまえば最後、それが真実味を帯びる気がしたからだ。


 御影は小さく頭を振り、ポケットの中で煙草を探した。だが火をつける気にはなれず、指先が迷ったまま本堂へ戻ろうとした。そのとき、雨の向こうに立つ人影が目に入り、思わず息を呑んだ。


 戸羽とば匠馬しょうまだった。

 傘も差さず、喪服の肩を濡らしたまま、本堂――いや、棺を見つめている。


 何を思っているのか、御影にはわからない。

 虚ろな目は魂が抜け落ちたようで、吐く息が白くかすんでいる。全身から力が抜け、雨に心ごと溶かされていくようだった。


 声をかけようとして、御影は口を閉じた。

 恋人を失った友人に向ける言葉など、自分は持ち合わせていない。


 戸羽の痛みが、胸の奥で鋭く反響した。

 自分も珠代を失って胸が裂けそうなのに、目の前の茫然とした背中のほうがなお痛ましい。


 戸羽は微動だにしない。呼吸しているのかさえ定かでない。

 雨の中に立ち尽くすその姿は、実体を失いかけた幻のようだった。幽鬼のように立つ友を、御影はただ見つめるしかできなかった。


 ふと、このまま戸羽を彼女の元に送るほうが正しいのではないかという思いが過ぎる。

 そんな不穏な考えが、雨粒のように脳裏へ落ちた。死への誘惑だった。生と死の境界に半ば沈んだままなら、いっそ――。


 御影は強く首を振り、歩み寄った。傘の端をそっと傾けて戸羽の肩を雨からかばう。

 それでも戸羽は御影を見ない。ずぶ濡れのまま、ただ棺を、失われた珠代を見つめ続けている。


 傘の内側で触れた戸羽の肩の冷たさが、御影の胸に沈んだ。

 冬の雨が、二人の痛みと珠代のいない空気を静かに積もらせていった。


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