第4話 その瞳に映る物は……

 タライの湯あみを済ませたイーヴは、濡れた体のまま黒いローブを羽織った。

 グランがくれた、繁華街で拾って来た物だ。

 生地は分厚く丈夫。

 どこかのお金持ちが子供の成長に合わせて捨てた物だろうか。

 身長が100㎝にも満たないイーヴには、いささか大きい気もするが、裸でいるわけにもいかない。

 血まみれになったパジャマは、タライの残り湯で洗ってみたが、くっきりとシミになっていて、元の純白には戻らなかった。


 フードを深く被ると、視界が暗く狭くなる。

 部屋の真ん中でランタンの炎が、ゆらゆらと頼りなく揺れていた。


 隅っこには、外に敷かれていたそれよりは随分マシな、ぺしゃんこの段ボールがある。

 その上に、ごろんと身を投げ出した。

 昨日までのふかふかのベッドの感触を一気に忘れてしまうほど、ぺしゃんこの段ボールは、イーヴの体にフィットした。


 七輪の火が小さく、ぱちっと鳴る。

 隙間だらけの部屋を、ゴーゴーと冷たい風が吹きすさぶ。

 その向こうでは、グランの地を這うようないびき。

 とても寝付ける気がしない。

 温まっていた体はすぐに冷たくなっていった。

 イーヴはぎゅっと目を閉じた。

 眠ればそんな事どうでもよくなる事を体が覚えているから。

 寒さに震える夜は、そのうち終わると知っているから。


 瞼の裏は不思議と明るい。

 そこに、今一番逢いたい人達の顔が浮かんでくる。


 スルハンの声が脳内でリフレインする。


『おはよう』

『おやすみ』

『おかえり』

『ただいま』


 スルハンが作った家族の掟は厳しくて温かかった。


『嘘を吐かない』

『盗まない』

『家族以外の大人を信用しない』

『食事はゆっくりよく噛んで』

『夜は一人で泣かない』


 しゅっとしたスマートな体躯に似合わない大きく太い腕。

 白髪交じりだが、いつも整髪料でかっちりと固めていたグレーの髪。

 獣の皮で作った外套コートはひどく堅く冷たいのに、包まれた瞬間、ふわりと暖かくなるのだから不思議だった。

 眉は鋭く整い、とび色の瞳は氷を閉じ込めたように冷たい。

 どれほど怖い顔をしていても、娘たちを見る目は、いつも優しく緩んでいた。


 アーシャ――。

 整いすぎた横顔は大人びていて、橙色の瞳はいつも冷たい光を宿していた。

 銀髪は青みを帯び、まるで雪明かりを纏っているようだった。

 スラムの出自など、言わなければ誰が気付くだろうか。

 新しく買った服に合わせて、小さく丸っこい爪先に、マニキュアを塗ってくれたっけ。


 ミラ――。

 艶やかな赤髪をいつも高く束ね、黒い瞳を丸くしては、小言ばかり言っていた。

 口うるさく、お節介で世話焼き。

『ほらぁ、またこぼして! お肉はフォークを使うのよ。そのスプーンはスープ用!』

 テーブルでのマナーや、服の選び方を教えてくれたっけ。


 リラ――。

 淡い茶色の髪と、すぐにずれる丸眼鏡。

 紫の瞳は、いつも大切な誰かを探しているようだった。

 表情も言葉数も乏しかったけれど、彼女は本が大好きで、いつも、消え入りそうな声で絵本を読み聞かせてくれたっけ。


 ノア――。

 柔らかい金髪に、水色の瞳。

 年齢よりも幼く見える小柄な体で、気づけばいつもイーヴの隣にいた。

 生まれた時から一緒にいたんだと言っていた熊のぬいぐるみを見せてくれた。

 泥んこにまみれてボロボロだったそれを、アーシャが蘇らせてくれたんだそう。

 

 もう誰もいない――。


 ◆◆◆


 どれくらい経っただろう。

 瞼の重みで、いつの間にか眠っていた事を知る。

 僅かな静寂は闇と共に消え失せて、夜明けの喧騒が始まっていた。


 床板の軋みがこちらに近付いて、ぱちりと目を開けた。


「起きたか? チビ」

 昨夜とは打って変わって、すっきりとした顔のグランがそこにいた。

「イーヴよ」

「ああ、そうだったか。昨夜の事なんざすぐに忘れちまう」

 凛と澄んだ佇まいで、大きな猟銃を肩に担ぎ、白い息を吐いている。

 グランは意味ありげな視線を、イーヴの傍らに落とした。

 その視線の先には――。

「ブーツ?」

 革製のブーツが鎮座していた。

「ああ、それも以前繁華街で拾ったんだ。俺にはちいせぇ。お前にやる」


 イーヴは弾かれるように起き上がり、片足をその中に突っ込んでみた。

 カパカパと、靴の中で素足が泳ぐ。


「着いて来い!狩りに出る」 

 グランは銃をくいっと肩に乗せ直し、ニヤリと笑った。


「え?」


「働かざる者、食うべからずだ。手伝え」


 何故だか胸が高揚した。

 狩りなど、一度も体験した事がないから、どんな物なのか知るはずもないのに。


 昨夜のグランの言葉が蘇る。


『俺はな、どんな怪物でも、たった一発の銃弾で仕留める』


 どんな怪物でも……一発で、仕留める――。


 イーヴは、ぶかぶかのブーツにもう片方の足を突っ込み、グランについて外に出た。


 黒いローブの襟を詰め、フードを目深に被り直す。

「寒いか?」

 グランが訊いた。

 イーヴはぶるっと震えながら、首を横に振る。


「山を歩けば、すぐに暑くなるさ」


 吹雪は小康状態で、ラットフォール街には、ちらちらと優雅に雪が舞っている。

 昇りかけた太陽にきらっと反射しては、地面に落ちて灰色の泥に変わる。


「十年に一度の猛吹雪は、大した事なかったな」


 グランはそう言って空を見上げた。

 イーヴの左目はグランが担いだ猟銃の艶を受け、ギラリと細く光った。

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