第3話 残虐な『眼』を記憶に焼き付ける
ボアディアのスープは、酷くケモノ臭い味だった。
表面は脂でギラ付き、野菜は泥の味しかしない。
それでもイーヴは、温かい食べ物が口に入る感覚を、忘れたくなかった。
息を止めながら、熱いスープを口に含む。
「スルハンなんざ、ただの変人だ」
グランは酒を飲みながら何度も同じ事を呟いた。
誰に言うでもない、酒のみの独り言とはこういう物だと、イーヴは思う。
七輪の鍋は別の大きな物に変えられ、そこにはなみなみと湯が沸いている。
グランは酒に足を取られながらも、その大鍋を抱えて部屋の隅にあるタライに移す。
水瓶からひしゃくで再び鍋に水を張ると、またそれをタライに移す。
のっそりとイーヴに近付くと、こう言った。
「風呂入れ」
「え? 風呂?」
イーヴは初めて自分の姿を見下ろした。
赤黒く変色した、かつて白かったパジャマからは、酷い死臭が漂っている。
ここはバラック。
もちろんバスルームなどという物はない。
グランはタライに背を向けて、ごろんと寝転がった。
「安心しろ。俺はガキには興味ねぇから。ゆっくり温まれ」
そう言って、ぐぉぉおおおーーーと盛大ないびきをかき始める。
イーヴはタライの傍で、血まみれの服を脱いだ。
眼帯をつけたまま、つるんっとむき出しになった華奢な体を見つめた。
お風呂ならつい数時間前に入っていた。
スルハン家の清潔で広々としたバスルームで――。
執事のレーヴンが準備してくれた湯気の立ちこめる浴室で、しゃぼん玉の泡を指でつついて遊んでいた。
泡のように白い髪からしたたる雫が、おでこから転がり鼻先で玉を作った。
今日は聖夜。
イーヴがスルハンに保護されてから、ちょうど一年。
姉たちは身長が5~6センチも伸びたが、イーヴだけは全く大きくならなかった。
それがなぜなのか、気にかけた事などない。
十分過ぎる環境は、幸せで満ち溢れていたのだから。
お風呂から上がれば、レーヴンが作ったごちそうと、姉たちと一緒に作った焼き菓子が待っている。
それはイーヴにとって、この世で一番楽しみにしていた瞬間。
優しくて、温かくて、甘やか時だ。
イーヴは両手で大きな泡をすくい、ぱんっと弾けさせた。
その弾ける音に重なるように——
ドンッ!!!
屋敷全体が震えるのを感じた。
聞いたことのない破壊音。
皿が割れる音。
短い悲鳴。
怒声。
イーヴの顔から、笑顔が消えた。
廊下を、重いブーツの足音が荒らす。
ひとつ、ふたつではない。
いくつもいくつも、土足の音が重なる。
ほんの数分前。
リビングでは、聖夜のご馳走が円卓に並んでいた。
燕尾服に身を包んだレーヴンが、スープを皿に注いで、四人の姉たちはみな一様に、揃いの白いルームウェアを身に纏い、席に着いていたはずだ。
燭台の芯に火を灯すのは、スルハンの役目。
その時——。
窓ガラスが、爆ぜたのだ。
一目散に濡れた体に真新しいルームウェアを纏って、階段を駆け上がる。
音のする方へと、裸足のまま急いだ。
ダイニングの扉の前に辿り着いた、その時だった。
パスン!!
まずレーヴンが倒れた。
額に開いた小さな穴から血が溢れ、大理石を濡らしていく。
雪煙と共に黒ずくめの武装隊が、割れた窓を越えて流れ込んできた。
胸元には金色の
「国家命令だ。スルハンとその娘たちを処分する」
「な……何の真似だ……!」
スルハンが声を荒げた瞬間、銃口が火を吹いた。
肩を撃ち抜かれ、上体が大きく揺れる。
「お父様!!」
アーシャが震える手で魔力を起動しようとした。
だが――。
パスン!
消音装置が付けられた銃はやけに静かに、一番上の姉の命を奪った。
胸を撃ち抜かれたアーシャの白いルームウェアが、赤く咲き乱れる。
次女ミラが叫び、三女のリラが泣き、四女のノアが震えながら熊のぬいぐるいを抱きしめる。
パスン、パスン、パスンパスン……。
不気味なほど静かな銃声は、夕食の香りを血の匂いへと変えていった。
少しだけ開いていたリビングの扉の隙間から、隠れるようにしてイーヴはそれを見ていた。
姉たちと揃いの白いパジャマに、濡れた白い髪。
裸足。
もう誰も動かない。
声も出さない。
「……お、おと……さま……」
声が漏れた瞬間——
「後一人いるぞ!!」
銃口が幼い額へ向けられた。
パスンッ!!
イーヴの右目を弾丸がかすめた。
ほぼ同時。
ぱき、と音がした。
イーヴの足元に金色の光が走り、床が割れ、ありえない方向へ黄金の階段が伸びたのだ。
イーヴは一段目に足をかけ、跳ねるように飛び降りた。
階段はすぐに砕け散り、光の粒となって消える。
「消えた……?」
「どこに行った!?」
武装隊が狼狽し銃口を振り回す。
落ちていく刹那、イーヴは振り返った。
銃を構える武装隊員の眼。
冷たく、歪み、獲物を見下ろす眼。
半透明のゴーグル越しに、獲物を探すかのような残酷極まりないその眼を――。
金色の光が視界を覆い、世界が反転する瞬間まで、イーヴの小さな瞳はその眼を見逃さなかった。
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