第3話 記憶の裂け目に落ちる影の真相

 想の部屋に留まってどれほど時間が経ったのか、もはや測る術はなかった。

 時計の針は止まったまま。

 窓から差す光は濁り、昼も夜も曖昧に混じり合っていた。


 その曖昧さが、私の記憶にも染み出していった。


 ——私は、本当に刺されたのだろうか。


 胸元の黒い染みを見るたびに思い出していた『痛み』は、不思議なほど輪郭を失っていく。

 刺されたなら、あの瞬間の恐怖がもっと鮮明にあるはずだ。

 なのに何度思い返しても、私が感じていたのは『落ちていく感覚』だった。


 落下。風。金属音。

 そこには『刃』の記憶がない。


 矛盾。

 その欠片がひとつ浮かぶたび、視界の色が微かに揺れる。


 ある瞬間、胸の奥で、くぐもった水音のような響きがした。

 『澱んだ音』が、以前より深く、重く鳴った。


 ——思い出してはいけない。


 そんな声が頭の奥をかすめた。

 自分自身の声にも聞こえるし、どこか遠い他人の声にも感じられた。


 記憶の裂け目は、突然訪れた。


 床に落ちたハンカチを想が拾おうとした瞬間——

 空間がふっと白く弾けた。


 視界が反転し、別の場所の匂いが鼻を掠めた。


 消毒液の鋭い匂い。

 規則的に響く靴音。

 柔らかい布の擦れる音。


 そして——想の声。


「……まだいける。もう一回……!」


 その声は、恐怖ではなく、必死の願いに近かった。

 私はその声を聞いたことがある。

 でも、いつ?どこで?


 胸を刺すような痛みが走った。

 黒い染みが、脈打つように明滅した。

 私はあの日の『断片』を思い出しかけ、また弾かれた。


 視界が元の部屋に戻ると、想がハンカチを握りしめているのが見えた。

 その布には皺が深く刻まれていた。


 ……どうして、私はこれを見るたび懐かしく感じるの?


 ハンカチの手触り、匂い、重さ。

 何度も指でなぞった夜。

 眠れないまま、涙の跡で硬くした布。


 全部、思い出したくないほど私の生活に染みていたものだった。


 思い出すほど胸が痛む。

 痛みは鋭くなり、記憶を押し戻そうとする。


 まるで——

 私の記憶そのものが、真実を拒絶しているようだった。


 私は『殺されたままでいたい』のだ。


 その直感が、脊髄を走る電流のように走った。


 殺されたと思っていれば、

 死後の自分を定義できる。

 恨む相手を残しておけば、

 私は『彼の側に留まれる』。


 理由が消えれば、私は消えてしまうのだろうか。


 ふと見ると、想は机に突っ伏し、静かに震えていた。

 その肩の揺れ方は、以前として変わらない。

 

 食事をとった形跡もなく、睡眠という概念を忘れたように、ずっと同じ姿勢を続けている。


 彼が泣いている理由を、私は誤解し続けてきた。


 だが——

 ある瞬間、彼の横顔に『別の表情』が見えた。


 後悔でも罪悪感でもない。


 あきらかな『絶望』。


 底のない湖に沈む者だけが浮かべる、静かで深い絶望。


 その顔を見た瞬間、視界がまた揺れ、別の断片が鮮明に浮かんだ。


 ——夜。

 ——外気の冷たさ。

 ——高い場所から見下ろす街の光。

 ——瞳から溢れる涙。


 ……落ちたのは、私自身?


 その疑問が胸を抉った。

 黒い染みが滲んで広がり、全身が冷たくなる。


 違う、刺されたのだ。

 想が私を殺した——

 その確信を手放したくない。

 手放せば、私は『自分が死んだ理由』を失ってしまう。


 だが脳裏に流れ込む映像は容赦なく続いた。


 白い天井に向かって伸びる私の腕。

 救急搬送された私の身体を前に、震える手で器具を動かす想。

 金属音。

 布の擦れる音。

 胸に響く圧迫。

 想の声——


「戻ってこい……っ 頼む……!」


 刺された痛みではなかった。

 それは、落下による損傷を必死に押し返し、『生』を戻そうとする圧迫だった。


 視界が白と黒に激しく明滅した。


 ——これは、刺された痛みじゃない。


 事実が胸に落ちた瞬間、私は震えた。

 認めたくなかった。

 認めれば、想は『加害者』ではなくなってしまう。


 そして私は、現世に存在する理由を失ってしまう。


 『殺されたままでいたい私』と、

 『真実を告げようとする記憶』が激しく衝突し、脳の奥で何かが割れるような感覚がした。


 想は机の上の写真に手を伸ばしていた。


 そこには、疲れ切った表情の私が写っていた。

 体は痩せてなどいない。

 ただ、目だけが深く沈み、

 どこにも焦点が合っていなかった。


 夜勤続きの仕事のストレス。

 誰にも言えない職場での孤立。

 友人関係の崩壊。

 積み上がった小さな傷が、限界を越えたあの日。


 ——私は、追い詰められていたのだ。


 救急室の強烈な明かり。

 看護師たちの慌ただしい足音。

 想の白い衣服。

 夜明け前の屋上。

 風の冷たさ。

 足を踏み出した自分の意志。

 そして——落下。


 黒い染みは『刺された跡』ではなかった。


 落下による損傷、

 そして想が施した救命処置の痕が、

 誤って『刺されたように』見えていただけ。


 真実は指先に触れる距離に迫っていた。


 だが私は必死に拒んだ。


 ——受け入れれば、彼の元からも消えてしまう。


 殺されたという濁った感情が、

 私をこの世界に繋ぎとめる『唯一の理由』だったから。


 そのとき、想が声を震わせた。


「……もう一度、会いたいよ……」


 その声は、胸の奥を深く締めつけた。


 私は思った。


 ——私を殺したのは、あなたじゃない。


 そしてその答えは、もう明らかだった。


 私を殺したのは、

 私自身だった。


 そして想は、

 その結末に最後まで抗おうとしていただけだった。


 胸の奥が潰れ、視界が滲む。

 記憶は、ゆっくりと、残酷な形を整えはじめていた。

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