第2話 沈黙する部屋と、濁った想いの滞留
落下の感覚は、唐突に終わった。
終わったにもかかわらず、私はまだ落ち続けているような気がしていた。
足裏に地面らしきものがあるのに、沈む。沈みながら、揺れている。
光も影も曖昧なその空間で、ただひとつだけはっきりしていた。
——呼ばれている。
言葉ではない。
もっと湿った、音にもならない引力のようなもの。
胸骨の裏で、膨らみ続けていた『熱』が再び蠢き、私の身体をどこかへ連れていこうとしていた。
気づけば、見慣れた扉の前に立っていた。
想の部屋。
そのはずなのに、視界にはどこか『他人の部屋』の匂いがあった。
ノブは触れていないのに、ゆっくりと開いた。
軋みの音はしない。
その静けさが逆に、不吉なほど濃密。
中に踏み込んだ瞬間、空気の密度が変わった。
窓はわずかに開いているのに、風が通らない。
外気が遮断されているような、昼夜の境界が曖昧な匂いだけが漂う。
……生活感が消えている。
机の上にあるはずの本の山も、いつも散らかしていたカップ麺の容器も、着替えを投げ出していたソファの乱れもなかった。
色を吸い取られたように整頓され、
まるで誰かが『ここに人が住んでいる痕跡』を意図的に消し去ったみたいだった。
生があるのか、ないのか。
その境界線が曖昧になっていく。
ベッドの端に、想が座っていた。
俯いた横顔は、骨の輪郭が不自然に浮き、
肩は上下に震えている。
けれど、その震えが『寒さ』なのか『絶望』なのか、言葉を当てはめることがどうしてもできなかった。
「……どうして、なんで……」
掠れた声が室内に沈んだ。
その声は、生きている人間の温度に近い。
冷酷な人間の気配はない。
だから私は、なおさら『殺された瞬間』の映像を反芻してしまう。
私の胸元に広がった黒い染み。
想の手に握られていた器具。
落下する感覚と、彼の叫び。
そのどれもが、部屋の静けさの中で、より鮮明に蘇る。
想は机の上の何かを手に取った。
薄い布のようなもの。
縁が少し擦り切れ、淡い香りが残っている。
それは、ハンカチだった。
とても見覚えがある。
でも、思い出せない。
どうして私は、その布を『懐かしい』と思ったのか。
記憶の層に触れようとすると、不意に頭の奥が軋んだ。
想はそのハンカチを指の腹でゆっくり撫でていた。
まるで壊れ物に触れるような、慎重で、不自然なほど遅い動き。
撫でるたびに、彼の肩が震えた。
「……帰ってきてよ」
その言葉を聞いた瞬間、空気が波打った。
私の胸の奥で、燻り続けていた『熱』が膨らみ、
痛みに変わる。
恨みではない。
怒りでもない。
ただ、『彼の存在そのもの』に触れるたび、
胸骨の内側で尖った残像が動き、
呼吸を奪う。
彼は私を殺した。
そのはずなのに、どうしてこんなにも哀しそうなのか。
その疑問が、余計に私を苦しめた。
彼の腕に、細い刻み目がいくつもあった。
深くはない。
しかし、意図的に付けたような規則性があった。
その痕跡が、彼の心の『どこか』が壊れていった証のように見えた。
想がハンカチを胸に押し当てると、布が涙でゆっくりと濡れていく。
「お願いだよ……」
言葉が、途切れる。
その度に、部屋の温度がわずかに下がる。
私の視界もまた、揺れていた。
近づこうとすると、空気が抵抗した。
壁でもない、風でもない。
ただ『拒絶』に近い圧が広がり、
まるで「まだ来るな」と言われているようだった。
私はそれでも、想へと手を伸ばした。
その指先が彼の頬に触れ——なかった。
指は輪郭の直前で溶け、
霧の粒のように散った。
想は気付かない。
ただ、泣き続ける。
その泣き方は、冷酷な人間のそれではなかった。
失った命を取り戻そうと足掻く者の、それに近い。
なのに、私の胸の奥の『熱』は、
ますます膨らみ、鋭さを増していく。
敵意ではない。
でも、見るたびに痛む。
想の姿が、私を『追い詰める』何かに変わっていく。
部屋の片隅で、忘れ去られた時計が止まっていた。
針は、私が死んだ瞬間と同じ位置で止まっているように見えた。
そのとき、ゆっくりと記憶の底から浮かび上がるものがあった。
——この部屋で、私はいつも……。
思い出しそうになった瞬間、痛みが走った。
脳の奥、黒い染みの縁が脈打つような激しい痛み。
記憶が拒絶反応を起こしている。
私が『殺された』と信じていたのは、
ただの誤認だったのではないか。
その疑念が、初めて胸に落ちた瞬間、
視界の端で想が私の名前を呼んだ。
呼ばれたはずなのに、返事は喉をすり抜けた。
声は出ない。
触れられない。
それでも私は、想の部屋に縛りつけられたままだった。
生者と死者の境界で、
『誤解したままの感情』だけが、膨らみ続けていく。
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