【作中小説】齲蝕 第二話(前半、謎編)

【第二話】


「太郎にぃ。なことあった」


 戦艦『伊予』の歯科治療室で、藤澤芳樹海軍歯科少尉はいつものようにやる気なく机に伏せていた。

 太郎にぃと呼ばれた野々山太郎看護二等兵曹は、作業の手を止めることなく適当に流している。


「芳樹坊ちゃん、またですか?」

「こないだ島艦長にもらった羊羹あったろ?」

「ああ、ありましたね」

「食べたら無くなった」


 野々山の手からぽろりと探針たんしんが流しに落ちた。


「当たり前じゃ無いですか!!」

「もっと食いたい……最近、甘味もなかなか手に入れにくい。艦長、百竿くらい羊羹くれないかな」


 その時、治療室の扉がコンコンと音を立てた。  

 藤澤は慌ててよだれを拭い、軍衣の襟を正す。藤澤の身だしなみが整ったのを見計らって、野々山が扉を開けた。


「島だが、時間はあるか?」  


 ノックの主は、夜の艦砲射撃を得意とする島豊作艦長であった。噂をすれば影、なぜかその腕には『とらや』の紙袋が提げられている。

 藤澤の視線は、磁石のようにその紙袋へと吸い寄せられた。


「知り合いの娘さんの歯のことで、相談があるのだが」  


 羊羹(らしきもの)を凝視して動かない藤澤の背中を、野々山がすかさず軽くつねる。


「あッ! はっ……何なりとご相談ください!」

「なんでも最近、歯がさめのようにギザギザになってしまったそうでね」

「ギザギザ、ですか……」  


 藤澤は復唱しながらも、意識の九割は紙袋に注がれている。


「良ければ明後日、横須賀に停泊した際に診察してやってくれんか?」  


 島が、ずっしりと重そうな紙袋をこれ見よがしに軽く振った。


「もちろんですとも!」

「助かる。これは礼だ、受け取ってくれ。……では、明後日に」


 島は紙袋を机に置くと、爽やかな笑みを残して去っていった。

 島が去るやいなや、藤澤は飢えた獣のような速さで紙袋を手に取る。


「とらや! とらやの羊羹! このズッシリした重み、さては『夜の梅』が五竿入りか……!?」


 期待に胸を躍らせて袋の中を覗き込む。  

 しかし、そこにあったのは黒光りする甘美な塊ではなく、分厚く、そして忌々しいほどに真新しい『最新歯科治療』の洋書であった。



 二日後、近づいてくる逸見へみ岸壁を見つめながら、藤澤は魂の抜けたような顔をしていた。


「太郎にぃ、俺のやる気はマイナスだよ。マイナス」  


 野々山にだけ聞こえるような小声で、藤澤がぼやく。


「頑張ってください。帰りに甘味かんみでも買いましょう」

「気休めはよせ。最近は、あんまり売ってないじゃないか」  


 そんなやり取りをしているうちに、ふねが錨を下ろした。


「今日はよろしく頼むよ」  


 そこへ、洒落たスーツ姿の島が現れた。藤澤と助手役の野々山に声をかけ、颯爽と通船つうせんに乗り込む。


 タクシーで乗りつけた先は、横須賀随一の格式を誇るホテル。その特別室に、依頼人である母娘が待っていた。  

 母親のまとう空気から、野々山は彼女が「やんごとなき」身分……おそらくは華族の婦人であることを瞬時に察した。同時に、彼女が艦長に向ける熱を帯びた視線から、二人がただならぬ関係であることも。


 そんな大人たちの思惑が交錯するなか、藤澤だけは、テーブルに並んだ豪奢な茶菓子を穴が開くほど見つめていた。


「こちらが娘の菜々子です。夫亡き後、女手一つで育てたために、少々お転婆ですの」

「まあ、お母様ったらひどいですわ」


 お転婆と言われた娘の菜々子はわざと澄ました顔でそっぽを向いた。女学校に通うくらいの年頃か。目が大きく快活そうな美人であった。


「では早速、診察に入りましょう。さあ、口を大きく開けて」  


 藤澤は心中、一秒でも早くこの案件を片付け、目の前の茶菓子に飛びつくことしか考えていなかった。が、表向きは海軍歯科士官らしい泰然自若とした態度を崩さない。

 菜々子が素直に口を開けると、藤澤は手慣れた動作でライトを当てた。しかし、その光は一瞬。前歯をなぞるように一瞥しただけで、すぐにスイッチを切った。


「ああ、これは『酸蝕症さんしょくしょう』ですね。レモンなどの強い酸を含んだ果実、あるいは胃液の逆流によって歯のエナメル質が溶ける症状です。……何か心当たりは?」

「ありませんわ」

「本当に?」


 藤澤の問いに菜々子は小首を傾げて考え込んだ。


「強いて言えば、女学校のお友達が、昼食のあとにいつも果物を分けてくださるんです。でも、それはちっとも酸っぱくなくて、とっても甘いんですのよ」


 菜々子のその言葉を聞いた瞬間、藤澤はぴくりと眉を寄せ、鋭く目を細めた。


「甘い……?」


 茶菓子への執念はどこへやら。歯科医としての疑念が、一瞬にして藤澤の思考を支配した。  

 酸蝕症は、文字通り「酸」が歯を溶かす病だ。本人が「甘い」と断言する食べ物で、ここまで前歯がギザギザになるほど溶けるなど、通常では考えにくい。


「菜々子さん。その果物は、具体的にどういったものです? ……たとえば、シロップ漬けの缶詰のようなものだったりしますか?」


 菜々子は、不思議そうに微笑んで答えた。


「いいえ。見た目はレモンにそっくりな、果実そのものですわ」


★★★★★★★

なんと第二話です。天空の糸の宣伝のために書きました。

 謎編ですが、知っているか否かで決まるので、分からない場合はサラッと流して下さい。


真面目な戦時ミステリーはコチラをどうぞ。

ミステリー週間1位獲得

「天空の糸」

(短編4000字)


空に散った同僚が残した写真の謎を追う話です。


https://kakuyomu.jp/works/822139840762421898/episodes/822139840762640761

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