第二幕:制御不能な「正義」と孤立
4. 承認欲求の沼と若手の崇拝
翌日。逃上 悟の標的は、市民相談窓口にいる若手の部下、翼(つばさ)だった。翼は、悟とは対照的にやる気に満ち、市民の小さな問題にも真摯に向き合う好青年だ。悟にとって、翼のエネルギーは「俺が失った可能性」の象徴であり、鬱陶しいものだった。
「翼くん、君が担当したあの案件、なぜあんな非効率なやり方を選んだんだ。
君たちの世代は、どうも常識を知らないせいで、俺の仕事が増える!」
悟は、自分の無力さ(部下を指導できないこと)を棚に上げ、若者の
「常識のなさ」に責任を転嫁した。彼の心の奥底にあるのは、「誰かに認めてもらいたい、俺の失われた情熱を拝んでほしい」という醜い承認欲求だ。デスクの下で、三度目の電子音が「ズゥン」と鳴り響いた。
【ペナルティ発動:部下・翼へ】
悟の心の奥底(投影): 悟の自己肯定感の欠如と、異常な承認欲求。翼は突然、市民の目の前で、手に持っていたクリップボードを放り投げた。そして、ガタガタと震えながら、悟に向かって跪いた。
「係長!あ、あなたの深慮遠謀…宇宙の摂理です!私は…!あなたの指示が、いかにこの世の真理であるか、今、悟りました!」
翼は心からの尊敬の涙を流し、土下座の姿勢のまま、額を床に打ち付けて拝み始めた。市民相談窓口は騒然となり、スマホを取り出して土下座する翼を撮影し始める者や、「税金泥棒が神様ごっこか!」と叫ぶ者で溢れた。
悟は承認欲求を究極の形で満たされたはずだが、全く心地よくなかった。
「ちょ、翼くん!やめろ、市民が見ているだろう!その、宇宙の真理ってやつは、後で聞くから!」「後では遅いのです、係長!」
翼は涙声で叫んだ。
「あなたの言葉を聞くたびに、私の魂は震え、膝は地に吸い寄せられます!そして、私の心臓は、あなたのために脈打つ神聖な鐘となるのです!ああ、あなたは独りよがりの神だ!我々は、あなたに奉仕し、あなたの無力を補うために存在するのです!」
悟は、自分が欲しかったはずの「崇拝」を突きつけられ、パニックになった。この崇拝は、自分が本当に欲しかった「尊敬」ではなく、自分自身の最も醜い部分を拡大した滑稽な鏡像でしかなかった。悟は吐き気を催し、市民の視線から逃れるように席を立った。
5. 町全体のブーメラン
悟は、病的な崇拝に耐えきれず、市民の視線から逃げるように職場から飛び出した。彼の心は叫んでいた。(すべてが崩壊している。妻は泣き叫び、上司は金色の紙吹雪にまみれ、部下は土下座。これはもう、特定の人間が悪いのではない。この市の、そして社会全体の構造が悪いのだ!)悟が無知による偏見と独りよがりの正義を「社会」全体に叩きつけた瞬間、町全体で、彼の心の歪みが具現化するペナルティが同時多発的に発生し始めた。
【ペナルティ発動:場所・モノへ(法則2)】
悟の責任転嫁(不作為への不満):「この市役所の行政が悪いせいで、すべてが滞っている!」
市役所ビル:突如として基礎が呻きを上げ、逃上悟が執務中に見せる無気力で責任を放棄したかのような、巨大で醜悪な猫背の姿勢へと捻じ曲がった。
建物は一部が傾き出入口がゆがみ、行政機能が停止した。
「景気が悪いせいで、俺の給料が上がらない!」
市内の自動販売機:全台が「売り切れ」表示になり、コインを入れると「景気」と達筆で書かれた、何の役にも立たない小さな紙切れだけを排出するようになった。ツケマワシ市は、一気に機能不全に陥った。
猫背の市役所、紙切れしか出さない自販機、金色に輝く完璧田課長、地面に額を擦りつける若手。すべてが、逃上 悟の無力さと傲慢さを滑稽に映し出していた。しかし、悟はなおも自己欺瞞を貫いた。
「見ろ!俺が言った通りだ!このシステムは、俺の正義の光で、腐敗した社会の真実を浮き彫りにしたのだ!俺の言っていることが正しい証拠だ!」
彼は、自分がこの混乱の根源であることに気づかないまま、それが正義であると確信した。
6. 愛着と依存の崩壊
夜遅く、悟は混乱した町から逃げるように自宅に戻った。家の中は静寂に包まれていた。真純はリビングのソファに座ってテレビを見ていた。悟は、一日の疲労と、自分が引き起こした混乱から逃避したい一心で、妻にいつものように依存しようとした。
「真純……。頼む、頼むから、いつものように俺にマイルドなコーヒーを淹れてくれ。この混乱のせいで俺は疲れ切った……頼む、少しでいい、俺を癒やしてくれ。お前のような無責任な人間がいるせいで、俺の心が、もう本当に、粉々に壊れてしまう!」
これは、悟が真純に浴びせた、最も痛烈で自己依存的な責任転嫁だった。彼の心の奥底にあるのは、「頼れるのはお前しかいないのに、なぜ俺を支えてくれないんだ」という、究極の愛着と依存の感情だ。
【ペナルティ発動:妻・真純へ(最終段階)】
悟の心の奥底(投影): 悟の極度の依存心と、独りになることへの恐怖。
真純は、テレビのリモコンをゆっくりと、非常にゆっくりと床に置いた。彼女の顔から表情が消えた。その目は虚ろで、悟を一切認識していないかのようだった。「……ま、真純?」悟が声をかけると、彼女は立ち上がった。その動きは、まるで油の切れた古いからくり人形のように、ギクシャクと音を立て、視線は天井の一点を見据えたままだった。彼女の口元は微かに開き、微量の唾液が糸を引いた。悟の命令にも、感情的な訴えにも、何の反応も返さない。彼女はまるで「自分が壊れても構わないから、代わりに自分を支えてほしい」という悟の願望が具現化した、アパシー(無感動)の塊だった。
悟は初めて、全身が凍りつくような恐怖を覚えた。自分の無力さ(妻に依存すること)を投影した結果、彼は、自分を支えてくれる唯一の存在を、自らの手で破壊してしまったのだ。誰も彼を泣き叫んで理解してくれる者はいない。誰も金色に輝いて彼を評価してくれる者もいない。
彼の世界は、静寂と無反応に包まれた。悟は、「独りよがりの勝手さ」の極致に至り、究極の無力さを突きつけられた状態で、第三幕のクライマックスを迎えることとなった。
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