第3話

 これで良かったのかもしれない。神事に臨む姫は平穏な気持ちで穴の周囲を見回す。

 竹垣が取り払われむき出しになった穴の前には白装束に身を包み、神宝の棒を握りしめた兄が神妙な面持ちで立っていた。なんとしても生還するつもりなのだろう、本来なら命綱などつけないのだが、兄は滑稽なほど幾重にも身体に綱を回し、それをたびたび引っ張って緩みがないかどうかを確認していた。


 穴穿の任を請け負った者は神宝を片手に穴に飛び込み、詠唱しながら神宝を振り穴の捻れを緩めることになっている。毎回、神事を行った者は帰ってこないが、不思議と神宝だけは数日後に神棚に戻っているのであった。


「いいか、私が叫んだら縄を引っ張れ」


 兄は縄を持つ兵士達に何度も声をかけた。ご丁寧にも縄の端は木にも縛り付けられている。いつも自信たっぷりな兄だが、今日ばかりはかすかに頬が引きつっていた。

 祈りを終えた姫に兄は吐き気を催すような笑顔を向けた。この男の妻になるのか、姫は目を伏せる。だがあの男が山を越えて去って行ったと聞いていた姫の心は安堵に包まれていた。


「それでは始めよ」


 籐で作られた椅子に腰掛けた王が杖を穴に向ける。

 姫は高らかに詠唱を始めた。


「ほ――ぢ、ほぢ。ほ――ぢ、ほぢ」


 兄も声を合わせながら、光る神宝を握って暗い穴に足から降りていく。


 ヴオコッ。


 黒い穴の表面が大きく盛り上がって揺れた。

 兄と声を合わせるように詠唱を続けていた姫だが、しばらくして穴から響く声が変わっていることに気がついた。

 賢い兄が音の高さを間違えるはずが無い。

 わざと、だ。

 きちんと唱えると穴に吸い込まれるかもしれないから。

 あれほど真面目にやるように頼んだのに――。


 その時、穴から声が響いてきた。


「神事は終わりだ。私を引き上げろ」


 兵達は返事をして、ぐいぐいと縄を引っ張る。程なく穴の中から満面の笑みを浮かべた兄が両手を広げて現われた。


「姫、今夜は祝言――」


 しかし姫は顔面蒼白となり、唇を震わすのみ。

 彼女が兄の後ろに見ていたのは、波立ちながら地面に広がっていく黒い穴だった。

 立ち会っている人々の足の裏に尋常ならざる振動が伝わった次の瞬間、轟音と共に大地が大きく揺れた。


 穴から火花を散らしながら大きな渦が吹き上がった。巻き込まれた木の葉が激しく空を舞う。同時に黒い穴は地面から解き放たれ、まるで里芋の葉の上に落ちた水滴のように、滑るように大地を移動していった。

 兵士たちが放り出した刀はねじ切られて宙を飛び、竪穴住居は巻き込まれて散り散りになる。拡大した穴は元の場所を起点として、大地を掘り木々を根こそぎ空に放り上げながら円を描くように破壊の範囲を広げていった。


 しかし幸いにも動く速度はさほど早くなかった。人々は動けない者を抱え、我先に火災の起った集落から逃げ出していく。

 兄も逃げようとしたが、縄で木にくくりつけられていたため穴の起こす風に巻き込まれ木とともに空に消えていった。積み重ねた悪行のせいか、彼を助ける者は誰もいなかった。


 そして、姫も逃げ遅れていた。というか、彼女はその場から動かずに兄が落していった神宝を手に必死で詠唱していた。彼女は自分が穴に飛び込んですむものなら、喜んでその身を捨てただろう。だが、姫は自分の声では多分神宝が力を持たないことをわかっていた。それに、この状態ではいつものように神宝がまた社殿に帰ってくるとは限らない。衝動的な行動をして神宝を失うことだけは避けなければならなかった。


 穴の動きはますます激しさを増していたが、いきなり悲鳴のような音とともにまるで穴が裏返ったように先端が尖った黒い柱が吐き出された。それは天に向かってぐんぐん昇っていったかと思うと、急に横倒しになりミミズのように伸び縮みしながら苦しげに大地をのたうち回った。


 そして、急に高く跳ね上がったその先端が、姫に向かって落下してきた。

 もう最後だ。姫は目をつぶる。


 その時。


「ほ――ぢ、ほぢ」


 太い声とともに、背後から神宝を持つ姫の右手首をゴツゴツした手が握った。

 間一髪、神宝からほとばしった光の動きに呼応して、尖った先端が向きを変える。そして、地響きを立てて地面に落ちていった。


「思った通りだ、詠唱と神宝で先端を操ることができる」


 彼女の背後から聞き慣れた声が響いてきた。


「お、お前……なぜ戻ってきた」


 振り向いた姫に、黒と青の瞳が笑いかけた。


「この世のことわりに興味があったから――いや、正直に言おう。またお前に会いたかった」  


 男は太い腕で姫を抱きしめた。


「お前のためなら命も惜しくない。お前のためにこの地に平穏を取り戻す」


 厚い胸板に押し当てられた耳に、力強い鼓動が響いた。


「兄君が中途半端に神事を行ったためかえって穴の捻れが酷くなり、とうとう捻じ切れてしまったのだろう。それで、行き場を失った気が暴れ出したに違いない」


 男の言葉を充分に理解することはできなかったが、姫は彼の言葉を聞いているだけで心が落ち着いていくのを感じた。

 ボコリ、という音と共に突出していた黒い柱が急に大地に吸い込まれた。


「よし、今のうちだ。また吹き上がらないうちに穴を治めないと」

「わ、私もあなたとともに行きます」


 男は大きく首を振った。


「この世が破壊される前に、例の壺のように内にも外にも気を停滞せずに循環させられるようにしなければ。神宝を使って穴の先を導けるのは頭の中で形を描ける俺しかいない。そして外から俺を起点に導けるのは姫の詠唱しかない。お互いに責務を果たそう」


 止めてもこの男は行くだろう。姫の双眸から止めどなく涙がこぼれる。


「お願い、帰って来ると約束――」

「相の違う場所を越えるときに捻りに巻き込まれるかもしれない。いいか、俺を待たずにもっと見目が良く優しい男と幸せになれ」


 男は姫をもう一度抱きしめる。そして立ちすくむ姫から神宝を取り、頭から穴に飛び込んだ。

 穴の奥から男の声が聞こえてくる。


「ほ――ぢ、ほぢ」


 姫は涙を振り払い、声を限りに叫ぶ。


「ほ――ぢ、ほぢ」


 黒い穴が神宝の光りでまばゆく輝いた。

 しかし、それもつかの間。すぐにまた穴は漆黒で満たされた。そして穴は元の位置に戻って動くのを止めた。

 男はやり遂げたのだ。

 だが、男は帰ってこなかった。


「美醜など関係はなかった。お前が語る言葉が、理を求めるお前の純粋な心が――いや、そんなものはどうでもよい。とにかくお前が、お前という人が好きだったのだ」


 皆が去ってしまった集落で独り、穴に向かって泣き崩れる姫の姿があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る