第2話
姫が社殿に戻ると、一人の男が待っていた。髪一筋の乱れも無く
「兄上、どうなさったのです」
姫は、男が持っている氷のように透き通った棒を見てはっ、と息をのむ。それは先ほどまで神棚に上げてあった神宝であった。
「お返しください」
兄は目尻を下げてにやりと笑う。姫は母違いのこの兄が苦手であった。姫には年の離れた長兄がいるため彼は王にはなれないが、この男はその如才なさと整った容姿で父王からの覚えがめでたい。だが、それを良いことに陰で幾人もの娘を泣かせていることを姫は知っていた。
そして、この兄が時おり自分を背筋が寒くなるような視線で見てくることも。
「あの男、詠唱はできそうか」
「ええ。あの方なら神事を全うできましょう」
兄は、形の良い眉をひそめて口を尖らせた。
「あいつがもし生きて帰ってくれば、お前はあの醜い男の妻にならねばならないのだぞ、いいのか」
「それが運命ならあまんじて受けましょう」
兄は妹の肩にそっと長い指を沿わす。だが、姫に手荒く払いのけられて肩をすくめた。
「なあ、私が神事を代わってやろうか」
「は?」
「あんな男より、地位も高く見目の良い私のほうがお前にはお似合いだ」
「生きて帰ってきたものはいないのですよ。それに音を狂わせて穴の機嫌を損ねれば、この集落、いえ、この国は滅亡するかもしれません。いい加減な気持ちで挑んではならないのです」
血相を変えた姫は兄に詰め寄る。
「でも、古の神は言ったではないか。『いずれ神宝の力でこの捻れた穴のめぐりを導き、気を解き放つ者が現われるだろう。その時この神事は終わる』とな。二十年に一度、美女を餌に男を一人穴に突き落として、何度神事を繰り返してきたことか。実は穴の捻れはすでに解けているのかもしれないぞ」
姫の目が鋭く尖るのを見て、兄は慌てて口をつぐんだ。
「そのような戯言をおっしゃるためにここに来られたのですか」
「実は私にも詠唱を教えて欲しいのだ。まずは教えるだけでもいいから、な」
第二皇子の言葉をむげにもできない。姫は神宝の持ち方を正すと、前に振りながら自分よりもっと低い声で詠唱するように告げた。
「ほ――ぢ、ほぢ。ほ――ぢ、ほぢ」
普段より低い姫の声が、木組みの社殿に反響する。
「ほおぢ、ほぢっ。ほおぢ、ほぢっ」
気を抜いた声を出した兄は姫に睨まれて薄笑いを浮かべた。
「兄上、神罰がくだりますよ」
真顔になった皇子は、姫も驚くほど見事に詠唱をしてみせた。姫の時には輝かなかった神宝がまばゆく光り、がたがたと社殿を振動させた。
「おお、姫」
いつになく上機嫌で姫を出迎えた男の手には一つの奇妙な壺が握られていた。
「なんですか、それは?」
「先日、見たいと言っていただろう。これが俺の頭の中に浮かんでいる、裏も表も無い堂々巡りの壺だ。この壺は底にできた穴の中を通って行くといつか外に出ているんだ」
彼女は目の前の壺をしげしげと見つめた。
「穴から入ったら、もとの道を引き返すしか出られる道は無いように思いますが」
「ああ、残念ながら焼き物でその本当の姿を表現するのは、この世ではこれが精一杯なんだ。正確に言うと穴から繋がるこの管は壺の壁を貫いていない。でも我々には見ることのできない相の違う世界ではこの管は壁に穴を開けずに外に現われるのだ」
熱っぽく語る男の言葉は、姫の理解を超えている。だが、彼女にとってはこの世を超越した世界を覗いているこの男がうらやましくて――なんだか輝いて見えた。
「神の作った穴は捻れのせいで気が滞っている。だから神宝で穴を広げてやって時々気を通さなければならないのだ。で、考えたのだがそれを解決するには穴をこの壺のようにつなぎ替えて気を開放してやればいいのだ」
男はきょとんとしている姫に興奮した口調で話しかけた。
「姫、ここに柔らかい筒があると想像してみてくれ。筒を曲げてそのまま両端を合わせれば、筒は完全に内側と外側に分かれて、筒の内にある気は外に出ることができず、気は解き放てない」
「ええ、なんとなくわかります」
「だからあの壺のようにつなぎ替えるのだ。この穴の入り口の捻りと出口の捻りの向きが合うように両端をつなぐ、ただし壁とは交差せずに。そうすれば内も外もなくなり穴の中に閉じ込められた気が解き放たれる。実際は相を違えなければならないし、簡単ではないだろうが」
「私にはあなたの言われることがよくわかりません」姫はため息をつく。「こんなことなら、神様が穴を直して行ってくださればよかったのに」
「ああ。全く困った奴だよ」
男の言葉に、姫は思わず声を上げて笑った。いつの頃からであろうか、姫は男の体臭が気にならなくなっていた。男は自分の言葉に姫が大笑いするのが意外だったのだろうか、目を丸くしていたが、一瞬おいて口元をほころばした。
「姫は笑わない人かと思っていた」
「まさか、私だって笑います。一緒に笑ってくれる人がいないだけで」
「姫には沢山お付きの者がいるだろう」
「みな口うるさい私が嫌いなのです。本当は私だって好かれたい。でも、その気持ちが強ければ強いほど、弱い自分を知られたくなくて言葉が厳しくなる。私はこの穴みたいに捻れた厄介者なのです」
「何事もまっすぐなだけでは面白くない。その捻れが姫の魅力でもあるのではないかな」
はっ、と姫は顔を上げる。だが男はじっと虚空を見つめていた。
「神事は十日後か。それで姫とはお別れだな」
姫は唇を噛みしめる。この男は真面目に神事を行うだろう。この地を救い、そして穴の贄となるのだ。
「嫌だ……」
姫は男の胸に飛び込んだ。その衝動は姫自身すら予想外のものであった。
男はびっくりしたように立ちすくむ。
「お願い、お前は遠くに逃げて」
しがみついた姫の頬から涙がこぼれる。
「お前の話は日々のしがらみに苛立っていた私に夢を見せてくれた。私の心を解き放ってくれた。お前と死に別れたくない。わ、私はお前が好きに――」
「残念だったな、姫。あなたは私の妻となるのだ」
声と共に姫の腕は背後から長い指で掴まれた。引き剥がされるように姫は男から放され、腰から地面にたたき付けられる。顔を上げた姫が見たのは多数の兵士を連れた義兄だった。
「何をする」
男が叫んで姫に駆け寄る。しかし、男は飛びかかった兵士たちに羽交い締めにされてずるずると後ろに引きずられていった。
「お前はもう用なしだ。王の許しを得て今日から私が穴穿の皇子の役割を請け負うことになった。そして、成功した暁には姫は私のものになるのだ」
お気に入りの皇子に王が危険な役割をさせるはずがない。きっと兄は形ばかりの神事を行って穴から上がってくると父親を丸め込んだのだろう。
「神事を成功させれば周りもお前を我が物とすることに反対しないだろう。お前を娶れば我が兄弟の中でもっとも王族の血が濃い子供を作れる。口実のできた父君は長兄に代わって私を次の王に任じるにちがいない」
兄は意地悪い笑みを浮かべて兵に命じた。
「この男を棍棒で叩き、追放してしまえ」
もがく男を兵士が連れて行く。男の手から落ちた土器が兄の足元に転がった。兄は一瞥してそれを蹴り上げる。壺は石に当たって真っ二つに割れた。
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