第5話 学園のアイドル・天道ヒカリに壁ドンされました
「さあ、着きましたよ。ここなら誰にも邪魔されません」
天道ヒカリに手を引かれて連れてこられたのは、校舎の最上階にある生徒会室だった。
彼女は生徒会の副会長も務めているらしい。さすがは才色兼備のトップアイドルだ。
重厚な扉を開け、中に入ると、そこはまるでホテルのラウンジのような空間だった。
ふかふかのソファ、アンティーク調のテーブル、そして窓からは学園全体を見下ろせる絶景。
彼女は慣れた手つきで鍵をかけ、さらに壁のパネルを操作した。
『遮音結界、展開』
機械的な音声と共に、部屋全体が薄い魔力の膜で覆われる。
「……えっと、天道さん? 鍵をかけて、さらに結界まで張って、一体何を?」
俺、黒峰カイは、少し引き気味に尋ねた。
まさか、ここで俺を消すつもりじゃあるまいな。昨日の配信で目立ちすぎたから、既存のトップ層からすれば俺は邪魔な存在かもしれないし。
俺の警戒をよそに、ヒカリは上機嫌で紅茶を淹れ始めた。
「警戒しないでください。ただの『秘密のお話』ですから。立ち聞きされると困るんです」
彼女は湯気の立つティーカップを俺の前に置き、向かいのソファに優雅に腰を下ろした。
甘い香りが漂う。最高級の紅茶だ。
「改めまして、天道ヒカリです。昨日の配信、本当に素晴らしかったです」
「……どうも。まあ、事故みたいなもんだけど」
「事故であの動きはできませんよ」
ヒカリの瞳が、スッと細められた。
先ほどまでの愛想の良いアイドルスマイルが消え、探索者としての鋭い眼光が俺を射抜く。
「動画、何度も見返しました。ヘルハウンドを一掃したあの指パッチン。あれは無詠唱の『空間切断』ですよね? それも、五十匹それぞれの座標をコンマ一秒で指定して、首だけを正確に狙った」
「……」
俺は紅茶を飲む手を止めた。
バレていたか。
「それに、イフリートへの『凍結(フリーズ)』。あれもただの氷魔法じゃありません。熱エネルギーのベクトル操作を行って、相手の熱を自身の冷却エネルギーに変換してぶつけた。だからあんな一瞬で絶対零度まで下がったんですよね?」
彼女は楽しそうに、まるで大好きなゲームの攻略法を語る子供のように言葉を続ける。
「極めつけは、あなたの立ち回りです。無駄な動作が一つもない。最小限の動きで回避し、最短ルートで急所を突く。あれは、何千回、何万回と修羅場を潜り抜けてきた者だけが到達できる『境地』です」
ヒカリは身を乗り出した。
「黒峰君。あなたは『サポーター』なんかじゃない。最強の『オールラウンダー』です」
俺はため息をついて、カップを置いた。
誤魔化すのは無理そうだ。彼女の観察眼は、俺が思っていた以上に鋭い。
「……よく見てるな。そこまで分析されたのは初めてだよ」
「私、探索者オタクなんです。強い人の動画を見るのが大好きで」
彼女は照れくさそうに笑った後、表情を引き締めた。
「単刀直入に言います。私と組みませんか? 黒峰君」
その言葉に、俺の心臓が少しだけ跳ねた。
国内トップクラスの配信者からの勧誘。普通の探索者なら、涙を流して喜ぶオファーだ。
だが、俺の脳裏によぎったのは、昨日のキラたちの顔だった。
『役立たず』『寄生虫』。
信じていた仲間に裏切られた記憶は、そう簡単に消えるものではない。
「……悪いけど、パスだ」
俺は首を横に振った。
「え?」
「パーティはもうこりごりなんだ。人間関係は面倒だし、期待に応えようと頑張っても、都合よく利用されるだけだ。俺はこれから、気楽なソロ活動で生きていくよ」
それは、俺の本心だった。
もう誰かの顔色を窺って、自分の力をセーブするのは嫌だ。
俺の拒絶に、ヒカリはきょとんとした顔をした。
おそらく、人生で一度も断られたことがないのだろう。
だが、次の瞬間、彼女の瞳に燃えるような光が宿った。
「……そうですか。人間不信、というわけですね」
「まあ、そんなところだ。だから、君の誘いには乗れない。今日はこれで失礼するよ」
俺は席を立った。
このままここにいても、気まずいだけだ。
俺が扉に向かって歩き出した、その時。
ヒカリが動いた。
素早い。魔法による身体強化を使っているのか、一瞬で俺の前に回り込む。
「ちょ、天道さ……」
俺が立ち止まると、彼女はさらに一歩踏み込んできた。
俺は反射的に後ずさる。
一歩、また一歩。
背中に硬い感触が当たった。壁だ。
逃げ場を失った俺の目の前で、ヒカリが右手を振り上げた。
ドンッ!!
耳元で大きな音が響いた。
彼女の白く華奢な手が、俺の顔の横の壁に叩きつけられている。
いわゆる、『壁ドン』だ。
しかも、美少女から男への、逆壁ドン。
「えっ……?」
至近距離。
ヒカリの顔が目の前にある。
整いすぎた目鼻立ち、透き通るような肌、そして甘い香水の香り。
彼女の吐息がかかるほどの距離で、俺は完全に動きを封じられていた。
「逃がしませんよ」
ヒカリが低い声で囁く。
その瞳は、獲物を狙う肉食獣のように妖しく輝いていた。
「黒峰君、勘違いしないでください。私は『スターダスト』のような無能な連中とは違います。あなたの力を利用して捨てようなんて、微塵も思っていません」
「だ、だったら……」
「私は、あなたが欲しいんです」
彼女は俺の胸元に人差し指を這わせた。
「私は知っています。本当の強者が抱える孤独を。周りが弱すぎて話が合わない退屈さを。あなたは昨日、深淵ダンジョンで初めて『本気』を出して、楽しそうにしていましたよね?」
図星だった。
あそこで暴れているとき、俺は確かに解放感を感じていた。
「私となら、もっと楽しい景色が見られます。世界中の誰も攻略できていない『ラストダンジョン』の最奥……そこへ行けるのは、私と、あなただけです」
彼女の言葉には、不思議な説得力があった。
ただの人気取りのアイドルではない。本気で頂点を目指す、求道者の魂を感じる。
「私の背中を預けられるのは、あなたしかいません。そして、あなたの背中を守れるのも、私だけです」
ヒカリは俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私のモノになりませんか? 黒峰カイ君」
その言葉は、勧誘というよりも、情熱的な告白のように聞こえた。
俺の心臓が、早鐘を打つ。
これは反則だ。こんな至近距離で、こんな殺し文句を言われて、動揺しない男がいるだろうか。
「……っ」
俺は視線を逸らそうとしたが、彼女の両腕が俺を閉じ込めている。
「まだ信用できませんか?」
「……急には、無理だ。俺だって、傷が癒えたわけじゃない」
「わかりました。なら、妥協案です」
ヒカリは少しだけ顔を離し、いたずらっぽく笑った。
「まずは『お試し』でどうですか? パーティ結成ではなく、コラボ配信。ビジネスパートナーとしての一度きりの関係。それなら、リスクはないでしょう?」
「コラボ……?」
「はい。週末に、私が予約している高難易度ダンジョンがあります。そこで一緒に配信しましょう。もし私が足手まといだったり、あなたを利用しようとする素振りを見せたら、その場で契約破棄して帰ってくれて構いません」
彼女は俺の退路を巧みに塞いでくる。
一度きりなら。
ビジネスライクな関係なら。
それなら、断る理由もない。
それに、正直に言えば……少し興味があった。
彼女の実力に。そして、自分を理解してくれるかもしれないという可能性に。
「……わかった。一度だけだぞ」
俺が観念して答えると、ヒカリはパッと花が咲いたような笑顔になった。
壁に手をついたままの体勢で、彼女は俺に顔を近づける。
「交渉成立ですね! 嬉しいです、カイ君!」
「ち、近いって!」
「あ、すみません。つい嬉しくて」
ヒカリはテヘッと舌を出して離れたが、その耳は少し赤くなっていた。
まさか、計算じゃなくて天然でやっていたのか?
だとしたら恐ろしい女だ。
「それじゃあ、週末の予定空けておいてくださいね! 詳細はRINEで送りますから!」
彼女はスマホを取り出し、俺のQRコードを強引に読み取った。
キラたちのせいで999+になっていた通知の中に、新たに『天道ヒカリ』という名前が追加される。
「さて、お昼休みも終わりますし、戻りましょうか」
「……ああ」
ヒカリは結界を解き、扉の鍵を開けた。
日常への出口が開く。
だが、入ってきた時とは明らかに俺の中の何かが変わっていた。
廊下に出ると、生徒たちの視線がまた一斉に集まる。
先ほどよりも距離が近い俺たちを見て、さらなる悲鳴と噂話が飛び交うのがわかった。
「あ、そうだカイ君」
別れ際、ヒカリが振り返った。
「私、諦め悪いですから。その『一度だけ』で、絶対に私に夢中にさせてみせますからね?」
そう言って彼女は、スカートを翻して自分の教室へと去っていった。
残された俺は、壁ドンの熱が残る頬を押さえながら、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……夢中になるのは、どっちだよ」
俺は小さく毒づきながら、自分の教室へと足を向けた。
学園のアイドルとのコラボ配信。
これが、さらなる波乱の幕開けになることは明白だった。
そして、俺はまだ知らなかった。
この様子を、陰から悔しげに見つめる三つの影があったことを。
「くそっ……天道のやつ、カイを取り込みやがって……!」
「あんなの絶対、カイが騙されてるだけよ!」
「俺たちを差し置いて、人気者同士で組みやがって……許せねぇ!」
『スターダスト』の三人は、嫉妬と焦りで歪んだ顔をしていた。
彼らはまだ諦めていなかった。
俺を取り戻すため、あるいは俺を引きずり下ろすため、彼らもまた、週末に向けて動き出そうとしていた。
俺の知らぬところで、舞台は整いつつあった。
週末のダンジョン配信。
そこで起きる出来事が、俺とヒカリ、そして元パーティの運命を決定的に分けることになる。
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