第34話 聖域の崩壊

 第34話 聖域の崩壊


 一夜明けて、東京の空は突き抜けるような青さに包まれていた。

 だが、地上は嵐の真っ只中にあった。


 湾岸の教団施設『聖なる箱舟(アーク)』への警察突入。

 数千億円規模の資金洗浄と、大規模なテロ未遂の発覚。

 そして、アステリズム・プロダクションの実権を握る合田総一郎と、教祖・金嘉月の逮捕。


 これだけでも前代未聞の大ニュースだが、世間を本当に震撼させているのは、その先にある「黒幕」の名前だった。


 ◇◆◇


 警視庁本部、取調室。

 俺はパイプ椅子に座り、天井のシミを眺めていた。

 手錠はかけられていない。目の前のテーブルには、カツ丼ではなく、コンビニのサンドイッチと缶コーヒーが置かれている。

 ガチャリ、と扉が開き、捜査一課長の堂門が入ってきた。


「……食わんのか」

「食欲がないもんでね。……それより、外はどうなってる?」


 俺が聞くと、堂門は無言で壁のテレビモニターの電源を入れた。

 ニュース番組が映し出される。


『……繰り返します。東京地検特捜部は先ほど、政治資金規正法違反、および殺人予備容疑で、赤心党の門前清一衆議院議員の事務所へ家宅捜索に入りました』


 画面には、議員会館の門前事務所に、段ボールを持った検察官たちが列をなして入っていく映像が流れている。

 無数のフラッシュ。怒号のような記者の質問。


「特捜が動いたか。……仕事が早いな」

「お前たちが押収したデータが決定打だ」


 堂門がコーヒーを啜りながら言った。


「小野寺くんが確保した裏帳簿には、教団から門前への金の流れが完璧に記録されていた。……数十億の裏金だ。これだけの証拠があれば、特捜も総理官邸の顔色を窺う必要はない」


 さらに、ニュースキャスターが続ける。


『また、ネット上で拡散されている「天野香菜さんの未公開音声」について、科学捜査研究所による声紋鑑定の結果、録音された男の声は門前議員本人のものである可能性が極めて高いと……』


 画面のワイプには、コメンテーターたちが神妙な顔で頷いている。

 昨日まで俺たちを「テロリスト」と呼んでいた連中が、今日は一転して「巨悪を暴いた義士」のような扱いをしている。

 メディアとは、風向き次第でどちらにでもなびく風見鶏だ。


「……俺たちの容疑はどうなる?」

「誘拐、立てこもり、銃刀法違反……。本来なら懲役ものだ」


 堂門は厳しい顔をしたが、すぐにふっと表情を緩めた。


「だが、今回は『緊急避難』が適用されるだろう。東風代表が『彼らは私を護衛していただけだ』と強力に証言しているし、世論も味方だ。……お前は不起訴、小野寺くんも執行猶予付きで済む公算が高い」

「そうか。……ありがとな、課長」


 俺は深く頭を下げた。

 この堅物が、上層部と掛け合って俺たちを守ってくれたことは想像に難くない。


 ◇◆◇


 その頃、永田町。

 赤心党本部の一室では、門前清一が電話の受話器を握りしめ、怒鳴り散らしていた。


「どういうことだ! なぜ警察庁長官に繋がらん!」

『申し訳ありません、先生。長官は会議中で……』

「嘘をつくな! 私が誰だと思っている! 次期総理だぞ! すぐに捜査を止めさせろ!」


 ガチャン!

 門前は受話器を叩きつけた。

 誰も出ない。

 昨日まで媚びへつらっていた官僚たちも、党の幹部たちも、誰も電話に出ようとしない。

 潮が引くように、権力が彼の手から滑り落ちていく。


「……クソッ、どいつもこいつも!」


 門前は震える手でウイスキーのボトルを掴み、グラスに注ごうとしたが、手が滑ってボトルを床に落とした。

 琥珀色の液体が、高級絨毯にシミを作っていく。


「合田め……あいつが失敗するからだ。……あの女、天野香菜め……死んでまで私を祟るのか……!」


 彼は錯乱していた。

 自分が犯した罪の重さよりも、自分の地位が失われる恐怖の方が勝っていた。

 ドアが乱暴に開かれた。

 秘書ではない。

 紺色のスーツを着た、鋭い目つきの男たち――特捜部の検事たちだ。


「門前清一さんですね。……ご同行願います」


 先頭の検事が、逮捕状を突きつけた。


「ふ、ふざけるな! 私には不逮捕特権がある! 国会の会期中だぞ!」

「参議院で、逮捕許諾請求が可決されました。……全会一致でね」


 検事は冷たく告げた。

 全会一致。つまり、身内であるはずの赤心党さえも、彼を見捨てたのだ。トカゲの尻尾切りとして。


「嘘だ……嘘だぁぁぁッ!!」


 門前は喚きながら後ずさったが、検事たちに取り押さえられた。

 両脇を抱えられ、部屋から引きずり出される。


 廊下には、無数のカメラが待ち構えていた。

 「先生! 殺人教唆は事実ですか!?」

 「香菜さんに謝罪の言葉はないんですか!」

 「裏金は何に使ったんですか!」


 フラッシュの嵐。

 門前は顔を隠そうとしたが、その醜い形相は、ハイビジョンカメラによって全国に生中継された。

 「聖域」の主が、ただの薄汚れた犯罪者へと堕ちた瞬間だった。


 ◇◆◇


 数日後。

 俺と小野寺は、警視庁の正面玄関から釈放された。

 外には報道陣が詰めかけていたが、裏口からこっそりと抜け出した。ヒーローインタビューを受ける気にはなれなかったからだ。


 俺たちは、近くの公園のベンチに座った。

 秋の風が心地よい。

 小野寺は、コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、空を見上げていた。


「……終わりましたね」

「ああ。……合田も門前も、もう出てこれない。教団も解散命令が出るだろう」


 俺は煙草に火をつけた。

 煙が、青空に吸い込まれていく。


「香菜の無念、少しは晴らせたかな」


 小野寺が呟いた。

 彼の目には、もう以前のような怯えはない。

 だが、深い悲しみの色は消えていない。復讐を果たしても、失われた命は戻らないからだ。


「……晴らせたさ。お前のおかげだ」

「いえ。……赤城さんがいなけりゃ、僕は今頃東京湾の底でした」


 小野寺は苦笑し、スマートフォンを取り出した。

 画面には、天野香菜のアーカイブ動画が表示されている。

 コメント欄には、彼女を追悼する言葉と共に、小野寺への感謝の言葉も溢れていた。

 『ハッカーのお兄ちゃん、ありがとう』

 『香菜ちゃんを守ってくれてありがとう』


「……これからのことだが」


 俺は話題を変えた。


「東風代表から連絡があった。……正式に、俺たちを雇いたいそうだ」

「雇う?」

「ああ。今回の件で、東風の人気は爆発した。次の選挙での政権交代は確実だ。……だが、彼が総理になれば、今度は世界中の敵と戦わなきゃならん」


 カルト教団は潰れたが、その背後にいた某国は健在だ。

 それに、腐敗しているのは門前だけじゃない。既得権益にしがみつく古狸たちは、まだ山ほどいる。

 東風蓮士が目指す「革命」は、これからが本番なのだ。


「『日本を再生させるための、影の部隊が必要だ』と言っていた。……情報戦のプロであるお前と、荒事専門の俺。最強のコンビだとな」


 小野寺は少し考え込み、そしてPCの入ったリュックを抱きしめた。


「……やります」


 彼の声には力がこもっていた。


「香菜が生きたかったこの国を、少しでもマシな場所にしたい。……あんな悲劇を二度と生まないような、優しい国に」

「そうこなくちゃな」


 俺はニヤリと笑い、煙草をもみ消した。


「それに、俺たちにはまだ『宿題』が残ってるしな」

「宿題?」

「あの硝子の暗殺者……108号だ」


 堂門の話では、逮捕された彼女は、医療刑務所に収容された後、公安の監視下で「治療」を受けることになったという。

 彼女の洗脳を解き、人間としての心を取り戻させること。

 それが、彼女を壊した「大人」としての、俺たちの責任かもしれない。


「行きましょう、赤城さん」


 小野寺が立ち上がった。

 風が吹き、落ち葉が舞い上がる。

 それは、一つの季節の終わりと、新しい季節の始まりを告げているようだった。


 (第3章「聖域の捕食者」 完)

 (次章、第4章「革命の夜明け」へ続く)


 ---


 【エピローグ:檻の中の悪魔】


 東京拘置所、独房。

 剃髪され、灰色の囚人服を着せられた合田総一郎は、冷たいコンクリートの壁に向かって座っていた。

 全てを失った。

 金も、地位も、未来も。


「……ふふ、ふふふ」


 だが、彼は笑っていた。

 絶望のあまり狂ったのか。

 いや、その目はまだ死んでいなかった。


「終わった? ……いいや、まだだ」


 彼は壁のシミを指でなぞりながら、独り言を呟いた。


「私の役目は終わったが……『種』は蒔いた。……この国の若者たちの心には、すでに絶望と不信という種が蒔かれている」


 アステリズムが作り出した「虚構の熱狂」。

 政治不信。分断。

 それらは、合田がいなくなっても消えることはない。


「次は誰が水をやるのかな? ……楽しみだ」


 合田は鉄格子越しの小さな窓を見上げた。

 その空の向こうに、新たな「捕食者」の気配を感じ取っているかのように。


(続く)

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