第四章:外出の条件

第15話 おつかい、三人

 数え間違えていなければ、リトに剣を教わり始めて、もう二週間ほどだ。


 あの頃の自分は、まだ「走る」だけでよかった。


 この館に来た初日から、走り込みは続いている。

 何周したかは数えていない。数えたところで、夜は終わらないし、朝も来ない。


 けれど、体は勝手に覚えている。

 息が上がる地点。足裏が熱を持つ順番。腕が重くなるタイミング。


 走るのは、嫌いじゃない。

 止まらない限り、余計なことを考えずに済むからだ。


 剣が増えたのは、途中からだった。


 走り込みの終わりに、素振りがくっついた。

 打ち下ろしを十回で一組。呼吸が乱れたまま、腕だけを動かす。


 剣を教わり始めた初日に、リトが一度だけ「お手本」を見せた。

 その一撃で石畳が砕けて、深い窪みができた。


 でも、あれは残った。残ってしまった。


 最近は、走り込みの終わりがいつもそこだ。

 あの窪みの手前へ立って、刃を落とす。


 止まると、息が詰まる。

 胸の奥が一瞬だけ軽くなって、その次に、重さが戻ってくる。


 だから、止まらないようにする。

 止まらないために、剣を振る。


 ――変な順番だ。


 篝は自分の息の音を聞きながら、廊下を曲がり、中庭へ出た。


 冷えた空気が肌に触れた。

 夜の匂い。石の匂い。湿った木の匂い。


 小さく、鳥の声がした。

 見上げても姿は見えない。ただ音だけが落ちてくる。


 腰のあたりで剣が小さく揺れる。

 最初は重すぎて、走るどころじゃなかった。今は、それが当たり前になっているのが怖い。


 走り込みを終えたころには、足の裏がじんじんしていた。

 呼吸はまだ荒い。心臓が胸の内側を叩いている。


 篝は腰の剣へ手を伸ばし、柄を握った。


 抜くときの音が、夜の中でやけに大きく聞こえる。

 刃は鈍い灰色で、光をあまり返さない。


 剣を上げる。

 落とす。


 十回で一区切り――そう言われた言葉を、頭の隅に押し込む。


 最初の十回は、まだ止められる。

 刃先が窪みの縁へ寄りすぎないところで、なんとか止める。

 止めた瞬間、手首の奥がきしんだ気がした。肘の内側に、熱い痛みが走る。


 二組目、三組目と重ねるうちに、腕の内側が熱を持ちはじめた。


 いくつか重ねたあたりから、止めるはずのところで、腕だけが一拍遅れる。

 刃先が浅く石をかすめて、小さな傷が増える。


(……また、増える)


 分かっている。

 けれど、止めきれない瞬間がある。


 息を吸い直して、もう一度剣を上げる。

 落とす。


 十回を、何組か。


 腕が言うことを聞かなくなる手前まで。

 握力が先にほどけそうになって、指が熱い。


 最後の一振りを振り下ろしたとき、刃先がほんの少しだけ石を引っかいた。

 乾いた音がして、篝は反射的に肩をすくめる。


「……しっかり止めろ」


 低い声が、背中から刺さった。


 篝は息をのんで、すぐに剣を下げた。

 振り向くと、リトが少し離れたところに立っている。


 近すぎない。

 刃の届かない距離。けれど、目は全部見えている距離。


「……すみません」


 篝が言うと、リトは短く息を吐いた。


「謝るな。今の一振り、止まりが遅い」


 声は低い。言葉だけが落ちてくる。


 少しだけ間があって、リトの視線が窪みの縁へ落ちた。


「回数、少ない」


 胸の奥が、きゅっと固くなる。


(……どこまでやれば、「少ない」って言われないんだろう)


 篝が剣を鞘へ戻したとき、足音がもうひとつ増えた。

 ランタンの光が、石畳に丸い穴を開ける。


 ミカだった。


「周防さん。お水と、布をお持ちしました」


 差し出された布は、少し冷えている。

 受け取って額を押さえると、汗が布に吸われていくのが分かった。


 ミカの視線が、いちど石畳へ落ちた。

 小さく息を吐く。


「……また、増えましたね」


 それだけ言って、布を押し当てる手元へ戻る。


「……ありがとうございます」


 篝が言うと、ミカは小さく会釈した。


「お体は、大丈夫そうですか」


 大丈夫、と言い切るのは嘘になる。

 でも、倒れるほどでもない。


「……ちょっと、腕が。あと、息が」


 篝がそう言うと、ミカは言葉を挟まず、もう一度だけうなずいた。


「では、お食事の準備をいたします。先にお部屋へ戻って、剣は置いてきてください」


 腰が軽くなると思った途端、胸がきゅっと縮んだ。可笑しくて、篝は喉の奥で短く笑う。

 ――もう、剣を持っているのが当たり前みたいだ。


 けれど言われるまま、篝は剣を腰から外して抱えて部屋へ戻り、ベッド脇の壁に立て掛けた。


 柄から手を離した瞬間、重さが床に落ちる気配がした。

 それを見ないふりをして、篝は食堂へ向かった。


 食堂の片隅に、小さい丸卓がある。


 ミカは自分の分を置かず、三つ並べた。

 ひとつは篝の前。ひとつは黒い布の人影――魔女の前。もうひとつは、リトの手の届く位置。


 長い食堂の端で、湯気だけが静かに立っていた。


 篝が席に座ると、草の匂いがした。鼻につかない、落ち着く匂い。


 窓の外の星が、やけにくっきりしている。

 見た瞬間、喉の奥がひゅっと縮んだ。


「外って、どうなってるんですか」


 自分でも、変な聞き方だと思う。

 でも、街があるのか、人がいるのか、それだけでも――


 ミカはすぐに答えなかった。

 篝はカップを押さえる指に、力を入れた。


「……まだ、難しいかと」


 ミカの声が、普段より硬い。

 篝は、言葉の行き先がつかめなかった。


(難しいって……何が?)


「――え、」


 聞き返しかけたところで、


「おつかい、三人。いく」


 黒い布が揺れた。


 ミカの視線が、篝とリトを順にかすめた。


「ミカ、草。いる。外、ある」


 ミカのまつげが一度だけ伏せられる。

 それから、篝を見る。


「周防さん……一緒に行きたいですか」


 篝は一拍、息を止めた。

 分からない。外がどういう場所なのかも、「難しい」の中身も。

 でも、ここで首を振ったら、話が閉じる気がした。


「……はい。たぶん……行きたい、です」


 ミカは、ほんの少しだけ目を細める。叱るでも、許すでもない顔で。


「分かりました。もし行くなら……条件があります」


 条件、という言葉だけで背筋が伸びた。

 怖いのに、嬉しい。


「私のそばを離れないこと。勝手に走り出さないこと。……それと」


 ミカの視線が、篝の腰のあたり――何もない帯の位置へ落ちた。

 そこに“いつもあるはずのもの”がないのを確かめるみたいに。


 それから、篝の顔へ戻る。


「剣です。今日は置いていきます」


 篝は一瞬、瞬きを忘れた。喉の奥だけが、先に詰まる。


「……え」


 思わず声が漏れた。

 剣はもう、“必要なもの”として体のほうに馴染みかけている。

 それが当たり前になっていくのが、怖い。


 部屋に置いたはずの重さが、まだ腰のあたりに残っている。


 ミカは視線を逸らさない。


「外は危ないので、周防さんは武器を持たず、私のそばへ」


 その言葉だけが、耳に残った。


(……結局、まだ“持つ資格がない”ってことだ)


 篝はうなずいた。

 うなずくしかなかった。


 魔女が、ぱち、と小さく手を打った。


「じゃあ、行ける」


 ミカは丸卓の端に小さな紙片を置いた。

 篝には読めない文字の列。


「こちらを買ってきます。……周防さんには、荷物持ちをお願いしてもいいですか」


「……はい」


 返事をした途端、背中に熱が走った。


 そのとき、魔女が篝の手のひらを見た。


「あげる。お小遣い」


 さらっと言って、白い硬貨を一枚、篝の掌に落とす。


 硬い。冷たい。

 小さいのに、掌の一点が沈む。


 ミカが小さく息をのむ気配がして、すぐに整う。

 わざわざ言わない。ただ、低く言った。


「……白金貨です。なくさないように、しまってくださいね」


 篝はあわててうなずき、ポケットの奥へ押し込んだ。

 冷たさだけが、まだ指に残る。


 リトが短く言う。


「俺は、武具庫から借りる」


 それだけ。

 淡々としていて、質問の余地がない。


 黒い布の人影は、卓の向こうで動かなかった。


     ◇


 廊下の奥で、リトが一枚の扉の前で足を止めた。

 普段の扉より厚く見える。金具が多い。触れたくない冷たさが、見た目だけで分かる。


「周防さんは、ここで」


 言われる前から、篝の足は止まっていた。

 扉の向こうは暗く、目を凝らしても奥が飲み込むだけだ。見えないのに、奥の気配だけが静かに押し返してくる。


 金属が、かちり、と鳴った。

 扉が開いた瞬間、空気が変わる。


 ひやり、とした冷気が足首から這い上がってきた。

 息を吐いても白くならないのに、冷たい。


 リトが中へ入る。

 足音が少しだけ遠ざかって――すぐ、吸われた。


 時間が長く感じた。

 扉の隙間から流れてくる冷気だけが、ずっと同じ速度で触れてくる。


 やがて、布が擦れる音。

 金属が、かすかに鳴った。


 リトが戻ってくる。

 腕に抱えているのは、包帯でぐるぐるに巻かれた異形の斧だった。刃は見えない。なのに、刃だと分かる。


 ミカが一歩だけ近づいて、包帯の端を指先で押さえた。

 押さえ方が、確認の所作だった。結び目を、目ではなく指で確かめているみたいに。


「外では……ほどかないでくださいね」


「分かってる」


 リトは短く返し、斧を抱える位置を少しだけ変える。


 扉が押され、重い音がひとつした。

 冷気が、ほんの少しだけ引く。


     ◇


 玄関ホールは天井が高い。

 壁のランプがいくつか灯っていて、影が長く伸びる。


 黒い大理石の床は、磨かれすぎていて、踏むと足裏が少しだけ吸い付く。


 正面に、大きな外扉。

 扉の向こうが外だと分かるだけで、胸が少しだけ速くなる。


 壁の片隅に、背の高い鏡がある。

 ちらりと映った自分の輪郭が、ほんの一瞬だけ遅れてついてきた気がして、篝は視線を戻した。確かめるほどでもない。


 ミカが先に立ち、振り返った。


「周防さん。準備はいいですか」


 篝はポケットの奥をもう一度押さえ、こくりと頷いた。


 ミカはそれを見届ける。

 次に、リトの斧へ視線を移し、包帯の端を一度だけ確かめるように見た。


 それから、篝の襟元を指先で軽く整えた。

 触れられると体がびくっとなる。ミカは気づかないふりをするみたいに、すぐ手を引いた。


「では……行きます」


 ミカの手元で、金属が、かちり、と鳴る。


 取っ手が回り、扉が、ほんの少しだけ開いた。


 隙間から外の空気が流れ込んでくる。

 冷たくて、湿っていて、土の匂いがする。


 その向こうに、黒い門の輪郭だけが、まっすぐに見えた。


 篝は、息を止めた。

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