第13話 騎士と落ちない刃
振る子。やめる子。
いつかは、ながれぼし。
「始める」
リトの低い声が、中庭の空気をきゅっと締める。
「横に来い」
短くそう告げられ、篝はすぐそばまで歩み寄った。
「武器を持て」
篝は右手の木の剣と、左腕の小さな木の盾を握り直す。
革の上着が、胸のあたりをきゅっと抱きしめてくる。
「足。もう少し、広く」
篝は言われた通り、そろそろと足を開いた。
「右足。半歩前」
今度は、前にある石畳の目地を目安に、右足を少しだけずらす。
片足ずつ動かすたびに、石の固さが靴の裏からじわっと伝わってきた。
「腰。落とす」
言われて膝を曲げる。
太ももに、じわっと重さが乗った。
(……走るときの、途中の姿勢にちょっと似てる)
そう思った瞬間、隣のリトが一度だけ「うん」と小さくうなずいた。
「ここ、お前の的」
リトが、篝の真正面の石畳の一枚を指先で示す。
さっきまでは、ただの床としてしか見ていなかった場所だ。
リトは、篝の真正面の少し離れた位置まで移動し、自分の正面の石畳を軽く足でつつく。
「こっち、俺」
ふたりの前に、少し間をあけて並んだ二枚の石。
「見る」
低い声が、そう告げる。
リトが肩から銀色の板のついた柄を外し、ゆっくりと持ち上げた。
その動きに、篝は意識を奪われる。
肩。頭の横。
それから、真上へ。
動き自体は静かなのに、中庭の空気の重さが変わる。
胸の奥で、心臓がひとつ分だけ強く打った。
刃が、リトの頭の上まで上がる。
――その瞬間、空気が縦に裂けた。
残像だけが網膜に焼き付く。光の筋が、夜空の星を一瞬だけ引き伸ばしたみたいに見えた。
腹の底まで響く、鉛のような重い衝撃が、ずしん、と石畳に落ちる。
直後、石が割れる甲高い音が、夜の空気をはじいた。
ぱきん、ぱきぱき、とひびが走る。
割れた石片が、周りにぱらぱらと飛び散った。
灰色の小鳥たちが、一斉に羽を広げて飛び上がる。
それでも、少し離れたところに降り立つと、またすぐに地面をついばんでいた。
「……リトさん」
中庭の端から、ミカの声がした。
いつもより、ほんの少しだけ低い。
盆をテーブルの上に置きながら、割れた石畳とリトを見比べている。
笑っているわけでも、怒鳴っているわけでもない。
ただ、「どうして壊したんですか」と顔に書いてあるみたいな目つきだった。
リトは、その視線を一瞬だけ受け止める。
「的。いる」
短くそう答えると、砕けた石の上から刃を引き上げた。
石の真ん中には、丸くえぐれたような窪みができている。
篝は、喉の奥がひゅっと鳴るのを感じた。
視界の端に、中庭の隅の低い木の枠が映る。
真ん中には、何かが横向きに収まっていたような、細い溝だけが残っていた。
そこから抜け落ちた銀色の板が、今はリトの手の中にある。
(……あそこに、刺さってたやつ)
教科書のページの端に貼りついていた処刑台の写真が、頭の中でちらっと浮かぶ。
高い木の枠と、その上から斜めに下がるような銀色の刃――
「次。お前」
リトの視線が、真っ直ぐこちらに向かう。
ごくりと唾を飲み込む。
「両手で持て」
篝は木の剣を、両手で握り直す。
右手の指先が、少し震えた。
「腕。伸ばしすぎない」
リトは砕けた石の窪みのあたりを見下ろしながら、刃を肩の横に構えた。
ふたりとも向かい合い、足を開き、膝を落としている。
篝の前には、自分の的になる無傷の石。
リトの前には、さっき砕かれた石の窪み。
「一度。下ろす。ゆっくり」
合図と同時に、篝は木の剣を頭の上まで持ち上げた。
肩と腕の筋肉が、ぶるっと震える。
胸の前の革の上着が、呼吸のたびにきゅう、と食い込んだ。
(勢い任せじゃなくて……途中で止める)
自分にそう言い聞かせて、振り下ろす。
木の剣の先が、自分の的になった石の手前の空中を通っていく。
止めようとした瞬間、腕が耐えきれず、先端がほんの少しぶれて揺れた。
それでも、どうにか「ここ」と示された位置の、少し手前で動きを押しとどめる。
腕の骨の奥まで、じん、と振動が伝わった。
篝が必死で動きを止めた、そのすぐあと。
正面で、銀色の刃がぱっと閃いた。
篝には、それが一瞬だけ流れ星みたいに見えた。
篝が「振り下ろした」と認識する前に、一連の動作はもう終わっていた。
風だけが、横からどん、と押してきて、頬の横を冷たい空気がかすめていく。
膝のうらが、ぞくりと冷たくなる。
リトの刃は、砕けた石畳の窪みの、ほんの少し上でぴたりと止まっていた。
石には当たっていない。窪みのぎりぎり手前で、空気だけが震えている。
「悪くない」
リトは、それだけ言った。
ミカは、割れた石畳に目を落として、ひとつため息をつく。
「周防さん、きつくなったら、すぐに言ってくださいね」
「……はい」
「では、少しのあいだ、リトさんに周防さんをお願いします。
終わったころに、お茶とパンをもう一度持ってきますから」
丁寧にそう告げて、控えめに頭を下げると、ミカは中庭を囲む建物の中へと戻っていった。
残されたのは、篝とリトと、小鳥たちと、砕けた石畳。
「続ける」
リトの声が落ちる。
「同じ。十回」
「じゅ、十回……」
思わず聞き返した声が、少し裏返った。
「少ない」
あっさり返されて、篝はそれ以上の文句を飲み込む。
もう一度、剣を頭の上まで持ち上げる。
さっきよりも早く、腕が重くなった気がした。
一度。
二度。
三度。
数を数える余裕があったのは、最初のうちだけだった。
剣を上げるたびに、肩がきしむ。
振り下ろすたびに、石畳の固さが足の裏から跳ね返ってきて、ふくらはぎがじわじわと焼けるように熱くなっていく。
何度目かの打ち下ろしで、少しだけ狙いを外した。
木の剣の先が、自分の的の石の縁に触れる。
カンッ、と乾いた音がした。
「っ……!」
篝の腕がびくっと跳ねる。
手のひらがじんじんして、指先から力が抜けそうになる。
篝の前では、リトの銀色の刃がぴたりと止まっていた。
砕けた石畳の窪みの、ぎりぎり手前で寸止めしている。
「手。離すな」
短い注意が飛ぶ。
「はい……」
指にもう一度力を込める。
柄の表面が、汗で少し滑りやすくなっていた。
上げて。
下ろして。
止める。
同じ動きを、何度も繰り返す。
腕の感覚が、だんだん自分のものじゃないみたいになってきた。
ふくらはぎも、いつのまにか焼けるように熱い。
汗が、額から顎へ伝って落ちる。
革の上着の中が、蒸し風呂みたいに暑くなってきた。
ふと、リトの肩が上下しているのが目に入る。
何度も振っているはずなのに、足元は一切ぶれていない。
息こそ少し荒くなっているものの、立ち方が崩れる気配はなかった。
(……人間、なんだよね、たぶん)
そんなことを考えてしまうくらいには、頭がぼうっとしていた。
「腕。限界?」
ふいに、リトの声が落ちる。
篝は、自分の両腕を見下ろした。
指先から肩まで、じんじんとしびれている。
木の剣はもう、ただ持っているだけでもつらかった。
「……結構、限界です」
「替える」
リトは短くそう言って、篝の腰のあたりを顎で示す。
「本物。持て」
篝は、革の上着の上から、あの変な剣の柄に手を伸ばした。
武具庫で一度だけ抜いて、妙に手に馴染んでしまって、慌てて鞘に戻した一本だ。
鞘から抜きながら、心のどこかで身構える。
刃が鞘から姿を現した瞬間、空気の温度が少し変わった気がした。
――それは、重いはずだった。
(……今、軽いって思った? おかしい)
さっきまで、腕全体を押しつぶしていた重さが、ほんの少しだけ引いていく。
代わりに、指の骨の一本一本を、細い糸でつままれているような感覚が、生ぬるくまとわりついた。
(重心が違うだけ。疲れてるから、変に感じるだけ)
自分にそう言い聞かせる。
剣を上げる。
さっきまでほど、つらくない。
落としたくなる。
腕を下ろしたい、ではなく、刃を落としたくなる。
「上げる。打つ。また上げる」
リトの声が、遠くから聞こえた。
「やめたくなったら、やめる」
自分に向けた言葉なのか、篝に向けたものなのか分からない。
それでも、篝はうなずいた。
「……はい」
もう一度、剣を振り上げる。
柄の内側から、何かがほんの少しだけ背中を押した。
「ここ」と言われた気がして、そのまま振り下ろす。
刃の重さが、さっきの木の剣とは違う線を通って落ちていく。
腕だけで支えていたものが、胸の前の革の上着ごと、一緒に動いているような感覚。
自分の足元から少し前にある石の手前で、刃がぴたりと止まった。
覚悟していたほどの衝撃はこない。
代わりに、使いすぎた筋肉の奥が、じんわりと熱を持ち始める。
木の剣のときより、振るのは楽で、止めるのもちゃんと止められた。
「続ける」
リトも、隣で銀色の刃を振る。
さっき壊した石畳の窪みの、ほんの少し上で、やはり寸止めを続けていた。
剣を上げて。
下ろして。
また上げて。
何度も何度も繰り返すうちに、「打ち下ろす」という単語だけが頭の中で浮かんでは沈んでいく。
腕の感覚が、ますます自分のものじゃないみたいになってきた。
息も荒くなり、肺の奥がじりじりと熱い。
「……いったん止める」
静かな断定が、夜の空気の中に落ちる。
リトが剣を振り下ろしたまま、動きを止めた。
篝も、遅れて剣を下ろそうとしたが、腕が言うことを聞かなかった。
膝から力が抜けて、その場に片膝をつく。
「っ、すみません……」
謝ろうとした声が、うまく口の形にならない。
肩で息をしながら、なんとか顔を上げる。
視界の中で、夜空の星が少し滲んで見えた。
「振る。走る。やめる」
リトが、順番に単語を並べる。
「どれ」
篝は、一瞬だけ、真剣に迷った。
ここから「走る」と言ったら、たぶん本当に走らされる。
「振る」と言ったら、剣をもう一度握らされる。
(……これ以上は、絶対、落とす)
頭のどこかで、そんな冷静な声がした。
「……今日は、やめます。これ以上振ったら、たぶん、剣落とします」
正直に言うと、リトは少しだけ首を傾ける。
「落とすと、死ぬ」
「ですよね……」
篝が苦笑いを混ぜると、リトは「なら、やめる」と短くまとめた。
銀色の刃のついた柄を、肩から外す。
砕けた石畳の横、低い木の枠のそばまで運ぶと、その脇に、いつもそうしているかのような手つきで立て掛けた。
そのとき、ポケットから小さな包みをひとつ取り出し、中身をつまんで地面にまく。
白い欠片が、篝の足元のほうへ、さっきより少しだけ近い位置に落ちた。
灰色の小鳥たちが、篝のすぐそばまで寄ってきて、ぱたぱたと羽を震わせながらパンくずをついばみ始める。
(……あ、パンなんだ)
篝は、片膝をついたまま、それをぼんやりと眺めた。
目の前には、砕けた石畳。
その上には、寸止めされた軌跡が何度も重なった、見えない線があるような気がする。
走ること。
振ること。
首を綺麗に落とすのが上手い人のそばで、立っていること。
そのどれもが、篝にはまだうまく意味を持たない。
(……でも、たぶん、明日もここで同じことをしてる)
そんな予感だけが、妙にしっくりきた。
夜空の星は、さっき見たときと同じように、やけにくっきりしていた。
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