第7話 地上への帰還と、変わった日常
朝食を終えた後、私は浩さんに告げた。
「あの……そろそろ、地上に戻ろうと思います」
浩さんは囲炉裏の火を突つきながら、静かに頷いた。
「そうか。まあ、そろそろ戻らないとな」
彼の声には、寂しさも引き留める気配もなかった。ただ、淡々とした事実の確認。それが、逆に心地よかった。無理に引き留められたら、私はきっと困惑していただろう。
カメラの向こうでは、コメントが流れている。
【えー帰っちゃうの】
【もっと見たかった】
【でもそりゃそうだよな】
【大学とかあるもんな】
【また来てほしい】
私は三脚からカメラを外し、バックパックに詰め込んだ。滞在中に使わせてもらった布団は、きちんと畳んで押入れに仕舞った。客間も、来たときと同じ状態に戻す。
浩さんは台所で、何かを包んでいた。
「これ、持っていけ」
差し出されたのは、布に包まれた小さな包みだった。
「これ……?」
「昨日の魔牛の肉だ。冷凍保存できるように処理してある。家で焼いて食え」
「え、でも……いいんですか?」
「構わん。どうせ俺一人じゃ食いきれん」
浩さんはそう言って、さらにもう一つ、小さな瓶を差し出した。
「これは?」
「影の国の果実のジャム。パンに塗って食え。美味いぞ」
私は、胸が熱くなるのを感じた。
この三日間、私はこの人に、たくさんのものをもらった。美味しい食事、安全な寝床、そして――信じられないような体験。
「……ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
浩さんは少しだけ照れくさそうに頬を掻いた。
「礼には及ばん。またいつでも来い。扉は開けとく」
その言葉に、私は顔を上げた。
「……本当に、また来てもいいんですか?」
「ああ。お前は悪い客じゃなかった」
浩さんはそう言って、小さく笑った。
コメント欄が温かいメッセージで溢れていた。
【いい人だ……】
【おっさん優しすぎる】
【また絶対来てほしい】
【これ定期配信になるやつだ】
私はバックパックを背負い、縁側から靴を履いた。
庭の鯉が、ゆらゆらと泳いでいる。朝日が池の水面に反射して、きらきらと輝いていた。
「じゃあ……行ってきます」
「ああ。気をつけてな」
浩さんは縁側に座ったまま、手を軽く振った。
私は、邸宅を後にした。
---
深層の通路は、相変わらず薄暗かった。
でも、来たときほどの恐怖はなかった。この先に何があるのか、もう知っているから。この通路を抜ければ、地上に続く階段がある。そして、日常が待っている。
足音だけが、静かに響く。
カメラは回し続けている。視聴者数は、今も十万人を超えていた。
【おつかれさま】
【無事に帰ってね】
【また配信してね】
【浩さんにまた会いたい】
私は通路を進みながら、ふと立ち止まった。
振り返ると、邸宅はもう見えなかった。薄暗い石壁の通路だけが、静かに続いている。
――本当に、あれは現実だったんだろうか。
魔王と、婚約者の冒険者と、エルフの執事。異世界に繋がる障子と、魔力を帯びた食材。全てが、夢のようだった。
でも、手に持っている包みは確かに重い。布の中には、デーモンオックスの肉が入っている。これは、確かな現実の証だ。
私は深く息を吸って、再び歩き始めた。
---
階段を上り、中層を抜け、浅層を通過する。
途中、何度か小型のモンスターに遭遇した。でも、どれも弱い。浩さんが一瞬で倒した魔牛に比べたら、ただの小動物のようなものだった。
私は軽く避けながら、階段を上り続けた。
そして――
光が見えた。
ダンジョンの入口。外の光が、まぶしく差し込んでいる。
私は思わず駆け出した。
階段を駆け上がり、入口を抜ける。
外は、快晴だった。
青い空、白い雲、そして温かい日差し。当たり前の、でもとても愛おしい、地上の景色。
「……ただいま」
私は小さく呟いた。
コメント欄が祝福のメッセージで溢れた。
【おかえり!】
【無事でよかった】
【お疲れ様!】
【感動した】
【投げ銭10000円 本当にお疲れ様】
私は、その場にしゃがみ込んだ。
足が、少しだけ震えていた。緊張が、今になってほぐれていく。
三日間の冒険が、ようやく終わった。
---
ダンジョンの入口には、予想以上の人だかりができていた。
報道陣、冒険者ギルドの職員、そして――見知らぬ人々。
私が外に出た瞬間、フラッシュが一斉に焚かれた。
「あかりさん! 今のお気持ちを聞かせてください!」
「深層で何を見ましたか!?」
「魔王は本当にいたんですか!?」
マイクが、次々と突きつけられる。
私は完全に混乱した。
「え、あの……」
そのとき、黒いスーツを着た男性が割って入った。
「すみません、取材は後日改めてお願いします。彼女は疲れています」
男性は冒険者ギルドの腕章をつけていた。職員らしい。
彼は私の腕を優しく掴み、人混みをかき分けて、待機していた車へと案内してくれた。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい……ありがとうございます」
車に乗り込むと、ようやく喧騒から逃れられた。
窓の外では、まだカメラのフラッシュが光っている。
「すごいことになってますね……」
私は呆然と呟いた。
ギルドの職員は、苦笑しながら頷いた。
「あなたの配信、世界中で話題になっています。今、同時視聴者数は十五万人を超えているそうですよ」
「十五万……」
想像もつかない数字だった。
三日前、私はただの小規模配信者だった。視聴者は二百人程度で、コメントもまばらで、それでも楽しく配信を続けていた。
それが今では、十五万人。
「あの……これから、どうなるんでしょうか」
私は不安そうに尋ねた。
職員は少し考えてから、丁寧に答えた。
「まず、ギルドでの事情聴取があります。あなたが見たこと、聞いたこと、全てを記録する必要があります。それから、政府からも調査が入るでしょう。影の国の存在は、国際的にも重大な問題ですから」
「事情聴取……」
「心配しないでください。あなたは何も悪いことをしていません。ただ、事実を確認したいだけです」
職員の声は優しかった。
私は少しだけ安心して、窓の外を眺めた。
見慣れた街の風景が流れていく。コンビニ、信号、歩道橋。全てが、当たり前で、でも今はとても新鮮に見えた。
---
ギルドの事務所で、私は三時間にわたって話を聞かれた。
深層への到達経緯、邸宅の発見、浩さんとの出会い、リリアとの会話、ハイネの登場、そしてデーモンオックスの狩り。
全てを、細かく、何度も繰り返し説明した。
調査官たちは真剣な表情で記録を取り、時折質問を挟んだ。
「浩さんの戦闘能力について、もう少し詳しく教えてください」
「デーモンオックスを一瞬で仕留めました。動きは速すぎて、スロー再生でも追えないくらいで……」
「影の国への入口は、障子を開けると現れる、と」
「はい。でも、私は実際に向こう側には行っていません。浩さんとリリアさんが行き来しているのを見ただけです」
質問は延々と続いた。
疲労が溜まっていく。でも、これは必要なことだと分かっていた。
そして、ようやく解放された頃には、外は夕暮れになっていた。
---
ギルドを出ると、外にはまだ報道陣が待ち構えていた。
でも、今度は警備員が配置されていて、私はスムーズに車に乗り込むことができた。
「自宅まで送ります」
運転手がそう言って、車を発進させた。
私はシートに深く沈み込んだ。
スマートフォンを取り出すと、通知が数え切れないほど溜まっていた。
Twitter、Instagram、LINE、メール。全てが、爆発的に増えていた。
フォロワー数は、五十万を超えていた。
「……嘘でしょ」
私は思わず呟いた。
三日前は五千人だったのに。
リプライを見ると、応援のメッセージ、取材依頼、企業からのオファー、そして――批判的なコメントもあった。
「やらせだろ」
「CGに決まってる」
「冒険者ギルドとグルだ」
そういう声も、確かにあった。
でも、それ以上に、温かいメッセージが多かった。
「無事でよかった」
「勇気をもらった」
「またリリア様に会いたい」
「浩さんの料理、もっと見たい」
私は、少しだけ微笑んだ。
---
自宅に着くと、両親が玄関で待っていた。
「あかり! 大丈夫だったの!?」
母が駆け寄ってきて、私を抱きしめた。
「うん、大丈夫。ちゃんと帰ってきたよ」
父も心配そうな顔で私を見ていた。
「ニュースで見たぞ。お前、とんでもないことになってるな」
「うん……ごめん、心配かけて」
「心配もするさ。でも、無事でよかった」
父はそう言って、私の頭をぽんぽんと撫でた。
久しぶりに感じる家族の温もり。それが、今はとてもありがたかった。
---
自分の部屋に戻ると、全てが懐かしく感じた。
ベッド、机、本棚、窓から見える夕焼け。三日間留守にしただけなのに、まるで何ヶ月も離れていたような気がした。
私はバックパックから、浩さんにもらった包みを取り出した。
布を開くと、デーモンオックスの肉が、美しい霜降りの状態で冷凍保存されていた。
「……本当に、夢じゃなかったんだ」
私は小さく呟いた。
そして、机の上にカメラを置いた。
「みんな、ただいま。そして……今日は、ここまでにします」
コメント欄が流れる。
【おつかれさま!】
【ゆっくり休んで】
【次の配信楽しみにしてる】
【また浩さんに会いに行ってね】
【リリア様に会いたい】
私は、カメラに向かって深々と頭を下げた。
「三日間、見守ってくれて、本当にありがとうございました。また、必ず配信します。それでは」
配信を終了する。
部屋が、静かになった。
私はベッドに倒れ込んだ。
全身から、どっと疲れが溢れ出す。でも、それは心地よい疲労だった。
窓の外では、夕日が沈んでいく。オレンジ色の光が、部屋を優しく照らしている。
私は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、浩さんの顔、リリアの笑顔、ハイネの凛とした表情、そして――あの邸宅の縁側から見た、静かな庭の景色。
「……また、行こう」
私は小さく呟いた。
必ず、また。
---
その夜、スマートフォンが鳴り続けた。
取材依頼、企業からのオファー、テレビ出演の依頼。
私は全て保留にして、とりあえず大学の友人に連絡を入れた。
「あかり! 大丈夫!? ニュースで見たよ!」
「うん、大丈夫。ちょっと疲れたけど」
「疲れたって……あんた、魔王に会ったんでしょ!? 信じられない!」
友人の興奮した声が、スピーカーから溢れる。
私は少しだけ笑った。
「うん、会った。すごく可愛い魔王だったよ」
「可愛い魔王って何!? 詳しく聞かせて!」
私たちは、深夜まで電話で話し続けた。
久しぶりの、普通の会話。それが、とても心地よかった。
---
翌朝、私は大学に向かった。
キャンパスに着くと、周囲の視線が一斉に集まった。
「あ、あかりちゃんだ……」
「本物……?」
「すごい……」
ひそひそと囁かれる声。
私は少し気恥ずかしくなって、足早に教室へ向かった。
講義中も、教授が私のことを話題にした。
「君の配信、私も見たよ。素晴らしい記録だった。これは、ダンジョン研究において非常に重要な資料になる」
教室中から、拍手が起こった。
私は顔を真っ赤にして、小さく頭を下げた。
---
昼休み、食堂で友人たちと食事をしていると、見知らぬ学生が近づいてきた。
「あの、サインもらえますか?」
「え……サイン?」
「はい! あかりさんのファンなんです!」
私は戸惑いながらも、ノートにサインをした。
その後も、次々と学生が集まってきた。
「写真撮ってもいいですか?」
「次の配信、いつですか?」
「浩さんって本当にいるんですか?」
質問攻めにあいながら、私は少しずつ実感した。
――私の日常は、もう元には戻らない。
でも、それは悪いことではなかった。
むしろ、新しい何かが始まる予感がした。
---
その夜、私は再びカメラの前に座った。
「みんな、こんばんは。あかりです」
コメント欄が一瞬で流れ始める。
視聴者数は、すぐに五万人を超えた。
「今日は、地上での一日を報告します。そして――」
私は、浩さんにもらったデーモンオックスの肉を取り出した。
「この肉を、焼いてみようと思います」
コメント欄が爆発した。
【マジか!】
【飯テロ来る!】
【絶対美味いやつ】
【投げ銭5000円 焼いてる様子全部見せて】
私はフライパンに肉を載せた。
塩を軽く振り、中火で焼いていく。
ジュウウウ……
部屋中に、とてつもなく美味しそうな香りが広がる。
「うわ……これ、やばい……」
私は思わず呟いた。
肉を裏返し、完璧なミディアムレアに焼き上げる。
皿に盛り付けて、ナイフで切る。
断面から、肉汁が溢れ出した。
「……いただきます」
一口、口に運ぶ。
――その瞬間、私は深層の邸宅を思い出した。
浩さんの料理、リリアの笑顔、縁側から見た庭の景色。
「美味しい……」
涙が、少しだけ溢れた。
コメント欄が温かいメッセージで溢れる。
【泣かないで】
【また行けるよ】
【浩さんが待ってる】
【次の配信も楽しみにしてる】
私は涙を拭って、カメラに向かって笑った。
「次は、いつ行こうかな。また、浩さんに会いに」
その言葉に、視聴者たちが応援のコメントを送ってくれた。
私は、確信した。
これは、終わりじゃない。
始まりなんだ。
新しい冒険の、始まり。
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