第3話 再会からの気持ちの燃え上がり

悪夢を見る。


視界一面に真っ白な風景。自分がどこかに横たわっている。体が重い。視点を移そうにも、目の震えや意識の薄れによってそれは妨げられた。ここに来ると、いつも自分が何者なのかわからなくなる。場所も時間もわからない。ただ五感だけは正常で、近くでは規則的な電子音が聞こえる。周囲の空気は消毒液の匂いに満ちていて、息を吸う度にアルコールが肺の奥まで染み渡る感覚がした。嫌な匂いではないのに、ずっとは嗅いでいたくない。


「また来るから」


傍らで誰かがそう呟く声がした。優しくて、少し泣きそうな声。頭から伝わる温度に微かな懐かしさを覚えた。


が、急にその温もりは遠ざかる。


いつもここで意識が落ちる。不満はない。だってまたこの夢を見ることになるから。


もうずっと、幸せな心地のする悪夢に囚われ続けている。


――ピピピ。


「……っ!」


夢の中での体の重さは携帯のアラーム音とともに剥ぎ取られ、見慣れた景色が視界に広がった。目の前の机の上には置きっぱなしの教科書。真っ白でもない、消毒液の匂いもない、やや不快だった電子音だって聞こえない。代わりに響くのは時計の秒針が刻む音だけ。


また、絶望的な現実に帰ってきた。


「はぁ、寝ても起きても変わらないな」


桜さんに振られて半年が経つ。


時間が経てば気持ちは薄れていくだろうと思ったのに、一向に消えそうにない。むしろ悪化している気がする。考えすぎなのか、それ以外が原因なのかはわからないが、最近はどうもこの悪夢と酷い頭痛に悩まされていた。悪夢、と言っても、怖いとか悲しいといった感情があるわけではない。あの場所はどうも落ち着かないし、体が思うように動かなければ、自分のことすらわからなくなる。起きたらしっかりと自分を認識できるが、どうも夢の中の俺は学ばないらしい。だが不思議なことに、なるべく見たくないと思っているのに、ああなることを望んでいた気もするのだ。


まだぼんやりとした頭で、二回目に鳴りかけたアラームを停止させようと指先で携帯の画面をなぞっていたら、通知が一つ落ちてくる。


『凛誕生日おめでとー。今日は奢ってやんよ』


高校入ってから、入学式の日に席が隣で、桜さん以外には無愛想だった俺にもしつこく話しかけてきたやつ、悠人からからそんなメールが届く。気づけばいつの間にか放課後一緒に帰ったり、休みの日にゲームしたりする仲になっていた、唯一の友達といってもいいかもしれない。

続けてメッセージが届く。


『どうせ暇だろ?』


なんて失礼なやつなんだろう。事実ではあるが。


「……そうか、誕生日か俺」


別のことに頭のリソースを割いているせいか、すっかり忘れていた。別に誕生日なんかケーキを食べなくても、物をもらわなくても構わない。家でも毎年そんな特別なことをしているわけではなかったし。何をもらったって、どうせ欲しいものは既に手に入らない。あまり気は乗らなかったが、せっかくの友達からの誘いに乗らないわけにはいかず、出かける準備にとりかかった。


「お前食いすぎだろ!」

「タダ飯だからな」

「凛普段食う方じゃないだろうが! こういう時だけ……財布が空だ〜……」


昼に集まって、カラオケで喉が枯れるくらい散々歌い散らかした後、近くのファミレスでやけ食いした。乗り気ではないと言いつつも、皿が空く度にこいつの顔が段々と青白くなっていく様が面白くて、つい俺の胃袋も本気を出してしまった。絞れるだけ絞りとって満足気味の俺の横で、悠人は桁数の多いレシートを見て顔を覆っている。


「お前の性格がよくわかる一日だったよ……」

「ひどい言い様だな。誕生日なんだから許せ」


そんなやり取りをしながら駅に向かっていると、前方から見覚えのあるシルエットが近づいてくる。街灯が暗くてよく見えなかったが、背が高くて、見覚えがある顔立ちの女性。


見間違うわけがない。大学入ってからより一層あの魅力は強くなった。


心臓が一際強く跳ねる。足が勝手に止まった。半年ぶりに見てもやっぱり変わらない。強いて言うなら少し髪が長くなったぐらいだった。


「……凛くん?」


向こうも気づいた瞬間に立ち止まって、俺と悠人の顔を見合わせた。どうしてもすぐに喉から声が出なくて、口を開けたまま桜さんを見て固まってしまった。隣にいた悠人が、訝しげな表情で俺と桜さんを交互に見る。俺が無言で立ち尽くしているのを見て、悠人は状況を察したのか、いつもの調子で真っ先に口を開いた。


「どうも! 凛の大大大親友の悠人と言います!」

「こいつはクラスメイトです」

「またそうやって凛は冷たい!」

「あら、そうだったのね。凛くんにもそういうお友達ができてよかった」


桜さんは一瞬、悠人の勢いに戸惑ったようだが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべて返事をしてくれた。


「お久しぶりです、桜さん」


目を見て桜さんの名前を呼ぶ。こんなことなら、やっぱりカラオケなんて行かなければよかったかもしれない。振り絞った声は遠に掠れていて、自分でも情けないと思った。


「久しぶり。元気にしてた? 君結構突っ走るところがあるから怪我でもしてないか心配」

「もうそんなことしてないですよ! 俺ももう高校生だし」

「あぁ、そういえばもうそれくらいか。成長って早いわね」


桜さんはまるで親戚のお姉さんみたいにそう言って、優しく目を細めた。その視線はかつての「恋人」に向けるものとはかけ離れていて、ますますただの「子ども」だったのだと痛感する。


「そろそろ行くね。邪魔するのも悪いし」

「あ、ですよね。桜さん忙しいですし」


自分でもわかるくらいの引き攣った笑みを返すと、桜さんは、悠人くんは凛くんとずっと仲良くしてあげてね、と告げて、俺らの後ろへと消えていく……かと思いきや何かに気づいたのか、不意に立ち止まって、「凛くん!」と声を掛けられる。


「誕生日、おめでとう」

「……!」

「それだけ。じゃあね」


今度こそ立ち止まることなく、まっすぐと背を向けて歩き出す桜さん。視界からいなくなるまでその後ろ姿を見つめれば、悠人が感嘆の声を漏らした。


「わざわざそれ言うために凛に声かけたの優しいな」

「あぁ……」

「何があったか知らねえけど、あんまこれ以上今日の主役が惨めな顔するなよ」


俺と桜さんの微妙な距離感を感じ取ってはいるだろうが、悠人はそれ以上踏み入れてはこず、俺の背中を軽く叩く。


「じゃあな、俺も帰るわ」


反対方向に歩き出した悠人を見送った後も、家に帰る気はせず、その場に蹲り、腕で顔を覆う。道行く人が奇異な目を俺に向けるが、そんなことを気にする余裕なんてなかった。視界が霞んで前を向くことができなくて、ただそこでじっと耐え忍ぶしかない痛みが過ぎるのを待つ。


たった一言だ。誕生日。俺すら忘れかけていた日にち。それを、半年経った今でも桜さんは俺の誕生日を覚えていた。時間が経てば未練なんかなくなるって、そう考えていた。だけど諦めようと努力してきたこの半年間は、桜さんのその一言で振り出しに戻る。心が締め付けられた。まだ桜さんは俺のこと考えてくれてるかも、なんて救いようのない期待をしてしまって、もうどうしようもなく今が苦しい。やっぱり今すぐにでも桜さんを追いかけたい。もう一度付き合おう。俺努力するから。そうやって、どんな形になってもいいから自分の欲望のまましがみついたら取り戻せるのかなって。今更足掻いたってどうにかなるわけじゃないってことくらいわかってるのに。


苦しい。

苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。

まだ好きだ。きっとずっと、これからも。

だけど、桜さんの未来に俺がいることなんてない。


「キャハハ、あんた飲み過ぎ!」

「俺まだいける気がするんだってー」


近くのコンビニで屯していた派手な男女集団。俺と同じ年くらいの奴らが皆髪を染めていて、周囲の迷惑なんか考えず好き勝手盛り上がっていた。普段なら絡まれたら面倒だし、スルーするのが鉄則だと思っていた。ああいう奴らは他人に攻撃的で人の気持ちを考えられないから、関わらないのがいいんだって。


けどなんでかな。屈託なく笑う彼らが、今日は一段と眩しく見えた。


……たのしそうだなぁ、あの人たち。


桜さんから捨てられた俺のことも、あの人達は受け入れてくれるかもしれない。


気づけば、ふらつきながらもあの輪の方向へ足が進んでいて、一番近くにいた金髪の男へ手を伸ばした。


桜さんのことを、忘れたい。


「……あの」

「待って!!!」


伸ばしかけた手とは反対の手を何者かから掴まれる。


その声を俺は知っていた。振り向けば、相手は必死な顔で俺を見ていた。


「そっちに行ったらだめ」


切羽詰まった声で俺を諌めた桜さん、だと思ったのだが、顔も少し違うような気がするし、そもそも先程と服も違う。額から汗が一筋留まることなく頬を伝っていて、かなり焦った様子が見受けられる。ここまで全力で走ってきたのだろう。


「誰、ですか?」

「やっぱり五年経ったらわからない?」

「五年? どこかでお会いしましたっけ」


桜さんに似た人は息を整えて、頬の汗を服の裾で乱暴に拭った。一呼吸して落ち着かせ、俺の目をまっすぐに見たかと思えば、唐突にありえないことを口にする。



「君が好きだった桜よ。五年越しにタイムトラベルしてきた、ね」

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砂時計の残留 夕凪れの @yunagi_rei

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