その翡翠き彷徨い【第79話 その名を讃えよ】

七海ポルカ

第1話







 草を踏み分ける音。






 誰かはすぐに分かった。


 今は視力の失われているメリクにとって顔も分からない人間だったが、この人物は他の人間とは明らかに判別しやすい気配を纏っていた。


 不思議なことにこの人物が近づいて来ると、メリクは闇色一色の瞼の裏に、近づいて来る方向から光を感じるのだ。


 実際何かが照っているわけではない。

 だが確かに、そう感じる。


 リュティスもそういう所があった。

 だが彼の場合、それはひたすらその器に宿る強大な魔力がそう感じさせているのだろう。



 ――この人物は。


 

 魔力がそんなに驚くほど、満ち溢れているというわけではないのだ。


 ……それでも不思議なほどに、周囲に精霊を纏っている。


 そのアンバランスな印象が、他に感じたことがない人間だったため、メリクはすぐにその気配を覚えてしまった。



「よう、吟遊詩人。また会ったな」


 

 メリクは声の方を向き、会釈をした。


「セスさん」


「この前もお前をここで見かけたな。ここの景色が好きなのか」


 そんな風に言われても、メリクは今、自分の前がどんな景色なのかも分からない。


 ただ、遠くに水の気配がする。

 風がそちらに吹き降ろして行く。

 なだらかな草原の丘。

 遠くに湖がある。

 そんなところなのだろう。


「ええ」


「確かにいい景色だな」


 側に座る音がした。


「俺はこの天宮てんきゅうでは魔術研究をしてる」

「研究……ですか」

「うん。新しい魔術を作ったり、魔石を練成したり、使える魔具を作ったり。

 俺は魔術のことなら全般に才能を発揮してしまう天才だからな」


「はぁ……」


 とりあえず、頷いておく。


 メリクはリュティス・ドラグノヴァ以外の魔術師を、すごいと思ったことが一度もないため、ラムセスの言葉はとりあえず聞き逃しておいた。


「この前お前と会った時は、新しい魔術が出来た日だったんだ」


 目を瞬かせてからメリクは「ああ」と頷いて笑った。


「だからあんなに嬉しそうになさってたんですね」


「うん、そうなんだ。今回のは難産だったぞ~。何年研究室に閉じこもってたと思う」

「さぁ……」

「当ててみろよ」

 何故見も知らずのリュティスの研究期間を当てなければならないのかとは疑問に思ったが、嫌だと拒否するほどの強い思いがメリクの中には浮かんでこない。


「うーん……、三年くらいですか」


「そんな期間は閉じこもっていた時間に入らないだろ」

「いえ、十分な期間だとは思いますが……」

「聞いて驚け。この前ちゃんと数えたら十八年間ほぼ部屋に籠ってた」


「十八年?」


 さすがにメリクは聞き返す。


「俺は食わんでいい精神体みたいだから、ほぼ生活が研究室内で事足りた。

 たまに研究の材料を探して外をうろついたことはあったが、俺の研究室は地下階に繋がっててさぁ。

 まぁ繋がってたというより半分無理に繋げたんだけどな。

 とにかくそこからあそこにある湖の、更に向こうの山間にまで出れるようになってるんだ。そこいけば大抵のものは揃うし、外に出る必要性がなかったから」


「眠気は訪れないんですか?」


「俺の眠気は気まぐれなんだ。ほとんど寝ないで済むんだが、たまに数日間ぶっ続けで眠ることもあるらしい。

 部屋で研究材料として飼ってる蝙蝠が餌を貰えず、空腹で餓死しかけてたことがあったから、たまに一週間以上寝てるみたいだけどな」


「そうなんですか」

「吟遊詩人も寝ないのか」


「そうですね。あんまり……ウリエルによって【天界セフィラ】に連れられて来てからは眠気は覚えていないですね」


「あれっ。なんだ、お前もウリエルに連れて来られた人間なのか?」


「? はい。では、セスさんもそうなのですか?」


「ああ。けど、十八年間くらい会ってないけどな。まぁ【天界セフィラ】にいる限り、実体化をウリエルの魔力に依存しなければならないということはないからな。

 地上に降りると行動範囲に制約がつくのが嫌いなんだ。

 生前、エデンの各地に色んな研究内容を置いて来たから、行きたいとは思うことはあるんだけどな」


「そうなのですか」


「ああ。ま、今すぐ地上に行かなきゃならん用事も特にないから別にいいんだけどな。

 でも、久しぶりに外に出て、随分外の空気が心地良くてな。

 近頃はよく研究の合間にこうして外を出歩いたりしてるんだ。

 ――なぁ、今日は楽器は持ってないのか?」


「あ……はい。部屋に置いて来てしまいました」

「そうなのか。お前の楽器の音を聞くのは好きなのに」


「はは……それは嬉しいお言葉ですが、立派な演奏を期待しておられるなら、他を当たられた方がいいですよ。俺はもう、生前覚えていた曲もほとんど忘れてしまって、曲は弾けないんです」


「いや。別に曲はいらないんだ。

 お前の奏でる音が心地いいだけだから」


 メリクはラムセスの方を見た。


 ラムセスは明るく笑ってみせたのだが、その顔はメリクには見ることは出来なかった。

 




「だからたまには俺の前で弾いてくれよな」





 ラムセスが立ち上がる気配がした。


「今日はもう少し歩きたい気分だ。

 なぁ、あそこの湖まで行ってみないか?」


「え?」

「いいだろ。お前も暇そうだし」

「はい……、あの、構いませんけど……」


「よーし! じゃあ早速出発だ! あ! 俺は一人で色々喋ってるけど全てに相槌は打たないでいいからな。俺もたまに相手の話を聞いてなくて、ただ自分で自分に話してるだけのことがあるから」


「はあ……」


 じゃあなんで自分を誘ったのだろうかとは思ったが、メリクはとりあえず、嫌だここにいたいという強い欲求もなかったため、ついていくことになった。

 困ったことに、この男の周囲には強い精霊の気配が常にあるので、ついて行くことに苦労はなかった。

 たださすがにあまりの坂道や小さな小石には蹴躓く可能性はあったので、メリクは歩き出しながら、声をかけていた。


「あの……すみませんが、少しだけゆっくりめに歩いてもらってもいいですか?」


「ん? 別にいいよ。じゃあそうしよう」


「すみません」

「いや。言ってくれてよかった。そうじゃないと俺は歩くのすごく早いって言われるから」

 ラムセスは陽気に返して来る。


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