「第二夜」― 間《あわい》の水

 朝が来たはずなのに、世界は薄暗いままだった。

 光が差す気配だけが空気の表面に漂い、

 地面は夜の名残を手放しきれずにいる。


 鳥の声は曇り、風鈴は沈黙し、

 耳の奥に昨日の静けさが残っていた。


 澪と別れたときの、あの揺らぎ。

 夢のようだった……と、言い切れない。

 むしろ昨日のほうが、まだ形があった気がする。


 気がつくと、足は神社の坂を登り始めていた。

 理由は分からない。ただ――

 そこへ向かわなければ何かが欠けたままになると、

 体のどこかが知っていた。


 白羽神社の鳥居。

昨日と同じ位置に、同じ影が落ちている。

けれど時間の針だけがふっと跳ね、

昨日と今日がゆっくり重なるように感じた。


 ――ああ、また来てしまったのか。


 そんな言葉が胸の底で小さく溶けたころ、

 境内の奥に白い気配が揺れた。


「来たんだね」


 澪の声は、小川の上を渡る風みたいだった。

 澄んでいるのに、どこか遠い。


 昨日よりも、少し近くに感じる。

けれど同時に、少し遠ざかっているようでもある。


「また……迷ったのかもしれないな」

「うん。……そういう日も、あるよね」


 微笑む澪は、昨日と同じ浴衣を着ていた。

 真っ白ではなく、うっすらと藍が差した布地。

 光が触れるたび、色が水のように揺れる。


「こっち」


 澪が指先で示す。

境内の裏手、岩壁に沿った細い道。

踏むたびに草の露が割れ、冷たい香りが立ちのぼる。


 その先に、池があった。


 黒に近い藍。

 風もないのに水面だけがわずかに震えている。

覗き込むと、自分の影が揺れ、澪の髪の黒さが水に溶けていく。


「昔ね、この池の水を“あわいの水”って呼んでたんだって」

 澪がしゃがみ込む。


「昔から、この村の人は水に記憶を預けてきたって。

 ほら、声にすると消えちゃうことも、

 水に映ると残ることがあるから」


 指先が水面に触れると、

 波紋が静かに広がり、また元の静止に戻った。


「夢でも現実でもないところ。

 どっちにも届きそうで、どっちにも行けない場所」


 言葉は淡々としていた。

 まるで、自分自身に言い聞かせるように。


「あなたは……どうしてここへ?」


 その問いには、期待より不安が混じっていた。

 失うことに慣れた人間だけが持つ、

 そっと触れてしまう怖さ。


「分からない。ただ、来なきゃいけない気がしたんだ」

「そっか……」


 澪は薄く笑う。

 安心の形をしていながら、どこかで自分を守るための殻でもあった。


「ねえ、昨日のこと……覚えてる?」


 澪は水面から目を離さずに言う。


「確か、君に会って……それから手帳を……」


 言葉にすると、どこか曖昧になる。

 確かなはずの記憶が、水に触れた文字みたいに滲む。


「よかった」


 その声には、ほんの少し震えがあった。

 “昨日”という概念が、

 彼女にとってどれだけ脆いものなのか分かる気がした。


「私ね、忘れられるのが怖いの」


 伏せた睫毛が揺れる。

 その言葉は、風よりも細かった。


 忘れられたくない。

 けれど、しがみつくこともできない。

 そんな想いが滲んでいた。


「忘れるのが、怖いのかもな……」

 気づけば、そう言っていた。


「えっ……?」


 澪は顔を上げた。

 その瞳は深い藍で、底に光が眠っていた。


「ここに来た理由……きっと、それを忘れたくなかったからだ」


「大切……だったんだ」

 指先の痛みが蘇る。


「……でもね、それってきっと、とても難しいことなんだよ」


 水面が小さく揺れる。

 自分たちの影が、重なったり、離れたりする。


「だから、今はこれで十分」


 澪は懐から手帳を取り出し、

 そっと膝の上に置いた。


 風は吹いていないのに、

 頁がひとりでにめくれる。


「ここで、よく書くんだ。

 忘れないように――大切なものほど、すぐ遠くなるから」


 澪は細い指で一行だけ書きつける。

 あるいは、思っただけなのかもしれない。

 文字はすぐに滲んで、水に溶けるように消えた。


「……明日もまた、ここで会えるかな?」


 それは願いというより、

 自分に問いかけるような、芯のない響きだった。


「ああ」


 そう答えた瞬間――池が微かに波立った。

 本当に風が吹いたわけではない。

 ただ、世界が息を継ぎ足したような感覚だけが残った。


 澪の姿が闇の向こうに溶けていく。

 その時、風もないのに、白い紙片が一枚だけ舞い降りた。


 ――八月十二日。

  水の向こうで、誰かが私を見ていた。

 声は届かないのに、心だけが触れた気がした。


 指先が震える。


 その紙を見ていると、

 どちらが“今”なのか分からなくなる。


 池を振り返ると、澪の姿はもうなかった。


 ただ、藍色の水面だけが静かに呼吸していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る