「六日目」― 結び目の夜
朝の温度が半歩だけ下がった。
同じ夏なのに、光の縁が薄く欠けている。
村の角を曲がるたび、白粉の匂いが濃くなり、家々の前の水盆は、表面が鏡のように張りつめていた。
落ちた葉が浮かんでいるのに、輪はひとつも広がらない。
中央の広場には白布がさらに張られ、昨日よりも低い位置で風を待っている。
待っているのに、どの端も揺れなかった。
風鈴はぶら下がったまま、舌が行き場を失っている。
音のない楽器。
人々は口を閉じ、言葉を胸の内側だけに置いた。
老女たちは頬に白粉を広げ、額に薄く白い線を引く。
声を出すと風が止む――
そう信じられていることを、誰も口にはしない。
口にしないという形で、信じている。
若い男たちは白い木杭を等間隔に打ち、灯籠の芯に油を含ませる。
女たちは細い布片を裂いて垂らし、指先で結び目をならす。
結び目は蝶に似ているのに、飛ぶための形ではない。
針売りの老人は木箱の前で、錆の色をただ拭き上げている。
今日は何も口にしなかった。
目が合うと、過不足のない一礼だけを寄越す。
「白糸に巻かれすぎんことじゃ」
三日前の長老の忠告が、別の温度で脈を打つ。
澄羽は、白の端と村の影の境目に立っていた。
装いはこれまでと変わらないのに、影の落ち方だけが変わっている。
光の届く範囲が彼女の足首で止まり、そこから先が水底のように静かだった。
「今日の風は、やさしいふりが上手だね」
笑うように言い、笑わないまま目を細める。
指には昨日の帯の跡がまだ白く残り、
手首の内側で、小さく脈が触れた。
「手、見てて」
そう言って、澄羽は自分の手首をこちらへ差し出す。
触れはしない距離。
結び目の跡に指を添え、ほどけないようにという仕草だけをしてみせる。
反対の手で白布の端を持ち上げ、腕に沿わせて長さを測る。
白の端をたぐり寄せるたび、糸の目がかすかに光る。
数える声は出さない。
唇の内側で、息だけで数が進む。
風が吹けば分からなくなるから――
吹かないことを前提にした数え方。
広場の隅で、低い鼻歌のようなものが始まった。
歌なのに、言葉がない。
子守唄の骨だけを残したような旋律。
白粉の匂いと混ざると、遠い祈りに似る。
誰が歌っているのかは分からない。
歌っていない顔のまま、音だけが生まれている。
「明日、風が止むの」
澄羽は布から目を離さずに言った。
「止まると、糸が静かになる。
静かになったら、つづきを織らなくていいの。
……ううん、織らなくてはいけない“終わり”だけを、織るの」
言葉の端に痛みはない。
痛みの場所を、とうに知っている人の声音。
こちらは返事の形を探し、見つからないまま、影の中に立ち尽くす。
代わりに、今日の約束だけが口を抜けた。
「明日も――」
「来て」
重ならない二つの語が、同じ意味を持った。
澄羽はうなずく。
声のあるやさしさではなく、声のない確かさで。
そして、少しだけ笑った。
「大丈夫。あなたは、きっと来てくれるから」
その一言が、約束ではなく祈りのように胸に沈む。
風のない空気の中で、それだけが確かに動いていた。
午後、村はさらに白くなる。
灯籠に火は入らないのに、白だけが明るい。
畦の水は動かず、川辺の葦は同じ方向を向いたまま戻らない。
風鈴は、とうとう完全に黙った。
黙ったまま、鳴らなかった音の跡だけが耳に残る。
◆
宵がくる。
宿の廊下には、昼の白粉の匂いが薄く残っている。
湯呑みに湯気は立つが、上がる煙の形が崩れない。
襖の隙間を風が通らず、紙の端が一度も鳴らない。
耳の奥を探しても、昨夜まであった針の音が見つからなかった。
灯りを落とす。
瞼の裏は白くならない。
糸の気配も、布の呼吸も、呼んでも来ない。
――夢が来ない夜は初めてだった。
夢が来ないということが、現実に風が溜まっていることを知らせる。
その代わり、遠くのほうから、人の息が揃う音がかすかに届く。
祈りのかたちをした沈黙。
言葉を使わない共同の声。
どの家でも灯が一つずつ消え、残った灯だけが、
まるで合図をやりとりするように遅れて瞬く。
しばらくして、足音が二歩、土間で止まった気配がする。
戸は叩かれない。
気配だけが戸口に留まり、やがて離れる。
誰なのか、考えないことにした。
考えた名は、呼んでしまうから。
今夜は、名前に触れてはいけない夜だ。
名前は糸と同じで、一度引けば、どちらかの先で結び目ができる。
結び目ができると、ほどかなければならない。
ほどくという行為が、明日のことになってしまう。
目を閉じ直す。
無音が厚みを増す。
この厚みの真ん中に、明日の朝が折りたたまれているのだと思う。
風が止むときの重さは、こんなふうに前の夜からやって来る。
やがて、はるか遠くで、ひとつだけ風鈴が鳴りかけて──鳴らなかった。
舌が音を拾い損ね、空気の中に短い揺れだけが残る。
その揺れが胸の内側に届いたところで、眠りが来た。
夢は、来なかった。
夜は、終わらなかった。
ただ、終わろうとしているという事実だけが、はっきりしていった。
窓の外の闇は薄くも濃くもならず、
朝に向けて、世界がひとつ息をためている。
風は、まだ動かない。
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