第5話
宿場町を出てさらに馬車に揺られること数日。ついに、わたくしたちは目的の地にたどり着いた。
「ここが……わたくしたちの領地……」
窓から見える景色は、王都とはまるで違う、穏やかで豊かな自然に満ち溢れていた。緩やかな丘陵地帯に広がる畑、きらきらと輝く湖、そして遠くには雄大な山脈がそびえ立っている。
「素晴らしいわ……!」
「はい。ヴァインベルク公爵家の領地の中でも、最も自然が美しい場所でございます」
ヨハンの言葉に、わたくしは深く頷いた。腕の中では、あの日助けた子犬がすやすやと寝息を立てている。
「この子の名前、決めたの。『モカ』よ。毛の色が、美味しそうな焼き菓子みたいでしょう?」
「……お嬢様らしいお名前で」
ヨハンが少しだけ笑った。
やがて馬車は、小高い丘の上に立つ、質素だがしっかりとした造りの館の前で止まった。ここが、これからわたくしの家となる場所だ。
馬車を降りると、年配の執事をはじめ、数人の使用人たちが緊張した面持ちでずらりと並び、わたくしたちを出迎えた。
「よ、ようこそお越しくださいました、リーファお嬢様。わたくし、この館の執事を務めます、ゼバスチャンと申します」
老執事は、深く深く頭を下げた。他のメイドたちも、それに倣って一斉にお辞儀をする。皆、突然現れた主人の娘にどう接していいのか、戸惑っているのが手に取るようにわかった。
(これはいけないわ。こんなに堅苦しいのは、わたくしの望む生活じゃない)
わたくしはにっこりと、できるだけ親しみやすい笑顔を作って言った。
「顔を上げてちょうだい、ゼバスチャン。皆も。そんなに畏まらないで」
使用人たちがおずおずと顔を上げる。
「わたくし、今日からここで暮らすことになったリーファよ。見ての通り、修道院に入る前の、いわば休暇のようなもの。だから、皆も『お嬢様』なんて呼ばずに、『リーファさん』でいいわ。敬語もいりません!」
わたくしの爆弾発言に、ゼバスチャンもメイドたちも、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。
「さあ、そういうわけだから、気楽にいきましょう!これからよろしくね!」
ぽかんとしている彼らをよそに、わたくしはくるりと向き直った。
「さて!ゼバスチャン、まずはお部屋へ……ではなくて、厨房へ案内してくれる?」
「……は?ちゅ、厨房でございますか?」
「ええ!ずっと作ってみたかったお菓子があるのよ!」
わたくしは目を輝かせながら、意気揚々と館の中へ足を踏み入れた。後ろから「お嬢様、お待ちください!」「リーファ様、まずは長旅のお疲れを……」とヨハンとゼバスチャンの慌てた声が聞こえてくるが、知ったことではない。
案内された厨房は、広く清潔で、使い込まれた調理器具が壁にずらりと並んでいた。大きな石窯もある。理想的な環境に、わたくしのテンションは最高潮に達した。
「素晴らしい厨房ね!」
厨房にいた料理人たちが、突然現れたわたくしを見て、凍りついている。特に、いかにも頑固そうな髭面の料理長は、手に持っていたお玉を落としそうなくらい目を丸くしていた。
「あ、貴女様は……」
「わたくしはリーファ。今日からここに住むの。あなた、料理長?」
「は、はい!モーリスと申します!」
わたくしは持ってきたトランクの中から、お気に入りのエプロンを取り出して身につけた。
「モーリス!さっそくなんだけど、バターと小麦粉と卵、それからお砂糖を貸してくれるかしら?あと、ナッツとドライフルーツもあると嬉しいわ!」
「へ……?は、はあ……」
モーリスは訳が分からないといった顔で、それでも部下に指示を出して材料を用意してくれた。
わたくしは腕まくりをすると、持参した『家庭でできる!絶品お菓子レシピ大全』を開いた。記念すべき第一回目に作るのは、素朴なカントリークッキーだ。
「まずはバターをクリーム状にして……っと」
慣れない手つきながらも、レシピ本通りに作業を進める。最初は遠巻きに見ていただけのモーリスや他の料理人たちも、わたくしがあまりに楽しそうに生地を混ぜているものだから、だんだん興味が湧いてきたらしい。
「……リーファ様、泡立て器は、そのように持つよりも、こうされた方が……」
「まあ、本当だわ!やりやすい!」
「ナッツは、もう少し細かく刻んだ方が、香りが立ちますぜ」
「なるほど!」
一人、また一人と、わたくしのお菓子作りを手伝ってくれる。いつの間にか、厨房は皆の活気と笑い声に包まれていた。ヨハンもゼバスチャンも、呆れ顔ながら、その様子を温かく見守ってくれている。
やがて、オーブンから甘くて香ばしい匂いが漂い始めた。
「焼けたわ!」
こんがりと美しい焼き色がついたクッキーが、天板いっぱいに並んでいる。
「皆、熱いうちに食べてみて!」
わたくしは焼きあがったクッキーを、その場にいる全員に配って回った。
「うまい!」
「美味しいです、リーファ様!」
皆が頬張りながら、嬉しそうに顔を綻ばせる。その笑顔を見た瞬間、わたくしの胸に、じわりと温かいものが込み上げてきた。
(これだわ……これこそが、わたくしのしたかった生活なのよ)
誰かのために料理を作り、「美味しい」と笑ってもらう。そんな当たり前の幸せを、わたくしはようやく手に入れたのだ。
北の領地での新しい生活は、甘いクッキーの香りと共に、最高の形で幕を開けたのだった。
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