第4話

宿屋で迎えた朝。ヨハンがまだ寝静まっているのをいいことに、わたくしは一人、そっと部屋を抜け出した。ひんやりと澄んだ朝の空気が心地よい。


(少しだけ、町の外を散歩してみようかしら)


王都にいた頃は、侍女や護衛もなしに一人で出歩くことなど、決して許されなかった。こんな些細なことさえ、今のわたくしにとっては胸躍る冒険なのだ。


町の門を抜け、森へと続く小道を歩く。鳥のさえずりが耳に優しく、朝露に濡れた草の匂いが鼻をくすぐる。どこまでも歩いていけそうな気分だったが、ふと、道の脇の茂みから、か細い鳴き声が聞こえてきた。


「……くぅん」


そっと茂みをかき分けると、そこにいたのは一匹の小さな子犬だった。泥と枯れ葉にまみれた茶色い毛の子犬は、片足を痛めているのか、引きずるようにして動いている。


「まあ、どうしたの?」


わたくしが手を伸ばすと、子犬は怯えたように身を縮こませた。足には、茨か何かで引っかいたような、痛々しい傷がある。


「大丈夫よ、怖くないわ。ちょっと見せてごらんなさい」


できるだけ優しい声で話しかけながら、ゆっくりと距離を縮める。幸い、子犬はそれ以上逃げようとはしなかった。わたくしは懐から清潔なハンカチを取り出し、近くの小川で湿らせる。まずは傷口の泥を拭ってあげなければ。


わたくしが子犬の処置に集中していた、その時だった。


「……また貴様か」


昨日聞いた、低く、冷たい声。はっとして顔を上げると、そこにはあの黒髪の騎士が、腕を組んで立っていた。


「あら、昨日の」


「こんな朝早くから、今度は何を企んでいる?」


まるでわたくしが、何か悪巧みでもしているかのような言い草だ。少しむっとしたが、今は子犬の方が大事。


「見てわからないの?怪我をしている子を、助けてあげているのよ」


「……助ける、だと?」


騎士は訝しげに眉を寄せたが、わたくしの足元で震える子犬に気づくと、少しだけ表情を和らげた。いや、和らげたように見えたのは、ほんの一瞬だったかもしれない。彼はすぐに厳しい顔に戻ると、大股でこちらに近づいてきた。


「どけ。俺がやる」


「えっ?」


「素人が下手に触ると、傷が悪化するだけだ」


彼はそう言うと、有無を言わさずわたくしの隣に屈み込んだ。そして、驚くほど優しい手つきで、子犬の足を持ち上げる。


「……!」


わたくしは息を呑んだ。あれほど冷たい印象だった彼の指先が、子犬の体を労わるように、そっと傷の具合を確かめている。その眼差しは真剣そのものだ。


彼は騎士服の内ポケットから、小さな革袋を取り出した。中には傷薬の軟膏と、清潔な包帯が入っている。


「少し、押さえていてくれ」


「え、ええ……」


言われるがままに、わたくしは子犬の体を優しく抱きしめる。騎士は手際よく傷口を消毒し、丁寧に薬を塗り込むと、慣れた手つきで包帯を巻いていった。その一連の動作に、一切の無駄がない。


(この人、もしかして……本当は、優しいのかしら)


昨日の剣幕からは、想像もつかない姿だった。堅物で、無愛想で、怒りっぽい。けれど、目の前で小さな命を救おうとしている彼は、とても誠実な人に見えた。


「……よし、こんなものだろう」


処置を終えた騎士が顔を上げる。わたくしがじっと見ていたことに気づいたのか、彼は少し気まずそうに咳払いをした。


「ありがとう。助かったわ」


「……別に。騎士として、当然のことをしたまでだ」


ぶっきらぼうな物言いは変わらない。けれど、もう昨日ほどの冷たさは感じなかった。


「あなた、お名前は?」


「……なぜ、貴様のような者に名乗る必要がある」


「失礼ね。わたくしはリーファよ」


「リーファ……」


彼がわたくしの名前を小さく呟いた、その時。


「お嬢様ーーーーっ!!」


森の入り口の方から、血相を変えたヨハンが走ってくるのが見えた。


「こんな所にいらっしゃいましたか!どれほど心配したと……!」


ヨハンはわたくしの無事を確認すると、その隣にいる騎士の姿を認め、はっと息を呑んだ。そして、主を守る騎士として、完璧な礼を取る。


「これは、失礼いたしました。我が主が、ご迷惑をおかけしませんでしたか?」


黒髪の騎士の鋼色の瞳が、驚いたようにわずかに見開かれた。「お嬢様」「我が主」というヨハンの言葉で、わたくしがただの平民ではないと察したのだろう。


彼は立ち上がると、居心地が悪そうにしながらも、真っ直ぐにわたくしを見据えた。


「……アレン・シュヴァルツだ」


「アレン……」


「隣国ヴァルツ帝国の騎士団に所属している」


思いがけず明かされた彼の身分に、今度はわたくしが驚く番だった。隣国の、それも騎士団の人間が、なぜこんな場所に?


「リーファ、と、言ったか」


「ええ」


「……その子犬、どうするつもりだ」


アレンの視線の先で、子犬が安心したようにわたくしの腕にすり寄ってきた。


「もちろん、連れて帰るわ。このままにはしておけないもの」


わたくしがそう答えると、アレンはほんの少しだけ、口元を緩めたように見えた。


「……そうか」


彼はそれだけ言うと、わたくしたちに背を向け、森の奥へと歩き去っていった。


「不思議な人ね、アレン……」


残されたわたくしは、腕の中の温かい命の重みを感じながら、堅物な騎士の後ろ姿を、いつまでも見送っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る