第3話 六畳一間の魔法

スーパーマーケットの自動ドアを出ると、冷たい北風が頬を平手打ちするように吹きつけた。


午後七時半。


パートタイムの仕事を終えた小野寺由美(おのでらゆみ・36歳)は、自転車のハンドルにかけた買い物袋の重みに、ふらりとよろめいた。




袋の中身は、半額シールが貼られたローストチキンと、小さなショートケーキが二つ。


それから、明日の朝食用の食パンと牛乳。



街はクリスマス・イブの華やぎに満ちていた。


すれ違う車のテールランプが赤い川のように伸び、どこかの店先から流れるクリスマスソングの歌声が風に乗って聞こえてくる。




けれど、由美の自転車が向かう先は、そんな喧騒から取り残されたような、川沿いの古い木造アパートだった。



(陽介、お腹空かせて待ってるよね……)



ペダルを漕ぐ足に力を込める。


息子の陽介は小学五年生になった。



最近、急に背が伸びて、ズボンの裾が短くなっているのが気になっていた。



新しい服を買ってやりたい。


でも、今月は暖房費がかさんだ。


給食費の引き落としもあった。


通帳の残高を頭の中で計算し、由美は小さく溜息をついた。



シングルマザーになって五年。



養育費は最初の一年で途絶えた。


必死で働いてきたが、物価の上昇は容赦なく生活を削り取っていく。


「普通」の生活を送らせてやりたいと願うことさえ、今の彼女には贅沢な望みのように思えた。




アパートの駐輪場に自転車を止め、錆びついた鉄階段を上る。


二〇三号室のドアを開けると、狭い玄関に陽介の運動靴がきれいに揃えてあった。



「ただいま」


「あ、おかえり。お母さん」



六畳一間の居間には、こたつが一つ。


陽介はその上で宿題を広げていた。


暖房はつけていない。


ちゃんちゃんこを着込み、白い息を吐きながら鉛筆を動かしている息子の姿を見て、由美の胸が締め付けられた。



「ごめんね、寒かったでしょ。すぐエアコンつけるから」



「ううん、大丈夫だよ。こたつ入ってれば平気だし」



陽介は、聞き分けの良すぎる子供だった。


あれが欲しい、これが食べたいとねだられた記憶がほとんどない。


母親が切り詰めていることを肌で感じ取り、子供らしい欲望を自ら封印してしまっているのだ。


それが、由美には何よりも辛かった。




ちゃぶ台の上の教科書を片付け、買ってきたチキンとケーキを並べる。


ささやかなクリスマス・ディナー。


「わあ、チキンだ。うまそう」



陽介がわざとらしく明るい声を上げた。その気遣いが痛い。


テレビをつけると、特番のバラエティ番組が流れた。


画面の中の芸能人たちが、豪華なプレゼント交換をしている。



「……あのね、陽介」


由美は箸を置き、意を決して切り出した。


「今年のクリスマスなんだけどね……サンタさん、ちょっと道に迷ってるみたいで……」



下手な嘘だった。


陽介はもう五年生だ。



サンタの正体なんてとっくに勘付いているかもしれない。



それでも、「金がないからプレゼントは無し」と告げる残酷さから逃げたくて、由美は言葉を濁した。



陽介はチキンを頬張ったまま、穏やかに笑った。



「いいよ、別に。僕もう子供じゃないし。ケーキあるだけで十分だよ」




その言葉を聞いた瞬間、由美の目頭が熱くなった。


我慢させている。


諦めさせている。



この子の未来まで、この六畳間に閉じ込めてしまっているのではないか。



そんな絶望感が喉元までせり上がったときだった。



ピンポーン。



不意に、インターホンが鳴った。


由美はびくりと肩を震わせた。



こんな時間に誰だろう。


集金か、勧誘か。



「……はい」


警戒しながらインターホンの受話器を取る。



「夜分にすみません!ブックサンタです!お届け物に上がりました!」



若い男性の、快活な声だった。


ブックサンタ?


記憶の糸を手繰り寄せる。



そういえば数ヶ月前、区役所の窓口で「困窮家庭向けの支援プログラム」のチラシをもらい、ダメ元で登録だけしておいたのだ。



すっかり忘れていた。



ドアを開けると、赤いサンタ帽をかぶり、緑色のジャンパーを着たボランティアの男性が立っていた。


息を切らしている。



このアパートにはエレベーターがないから、階段を駆け上がってくれたのだろう。




「メリークリスマス!陽介くんだね?サンタさんから、預かりものだよ」



男性は、陽介の目線に合わせて腰をかがめ、綺麗にラッピングされた四角い包みを差し出した。



「え、僕に?」



陽介が由美の顔を振り返る。


由美は呆然としながら、小さく頷いた。



「……ありがとう、ございます」



お礼を言うのが精一杯だった。



ボランティアの男性は「良いクリスマスを!」と爽やかに言い残し、次の配送先へと風のように去っていった。




部屋に戻ると、静寂が戻った。



しかし、その空気は先ほどとは決定的に違っていた。



ちゃぶ台の上に置かれた、赤い包装紙の包み。


それが放つ圧倒的な「非日常」の輝きに、二人はしばらく見入っていた。



「開けていい?」


「うん、もちろん」




陽介の手が震えている。



テープを丁寧に剥がし、包装紙を開く。



カサカサという音が、部屋に響く。



中から現れたのは、深い青色のハードカバーだった。



金色の文字でタイトルが刻まれている。



厚みのある、本格的なファンタジー小説だ。


「すげえ……」



陽介の声が上擦った。



「これ、新品だよ。お母さん、新品の本だ」



陽介は本が好きだ。


けれど、彼が読むのはいつも学校の図書室か、市立図書館で借りてくる本だった。



たくさんの人の手垢がついた、背表紙の割れた本。



ページにはシミがあり、独特の古い紙の匂いがする。



それはそれで味があるが、「自分のもの」ではなかった。



陽介がおそるおそる表紙をめくる。


ミシッ、と新しい本特有の、硬い音がした。


真っ白なページ。


インクの鮮烈な香り。



そこには、まだ誰も踏み入れたことのない世界が広がっていた。




本の間から、一枚のステッカーと、しおりが落ちた。


そこには『ブックサンタより』とだけ書かれていた。


誰かはわからない。


どこかの誰かが、書店でこの本を選び、代金を払い、「この本を必要としている子へ」と託してくれたのだ。




「……僕だけの、本」




陽介は、宝物でも扱うように表紙を撫でた。


その瞳に、部屋の蛍光灯の光が映り込み、キラキラと輝いているのを見て、由美はこらえきれずに涙を溢れさせた。


自分では与えてやれなかった輝きを、見知らぬ誰かがくれた。




陽介は、もう由美のことが見えていないようだった。


吸い込まれるようにページを読み始めている。


背中を丸め、文字を追うその姿は、もうこの狭い六畳一間にはいなかった。


彼は今、ドラゴンの背に乗り、雲を突き抜け、広い世界へと旅立っているのだ。




貧しさが消えたわけではない。明日の生活が楽になるわけでもない。


けれど、この一冊の本が、部屋の空気を変えた。


閉塞感に満ちていた空間に、風穴が開いたようだった。



壁の向こうには、広い世界がある。



そして、そこには自分たちのことを想ってくれる「誰か」がいる。



その事実は、チキンやケーキよりもずっと深く、冷え切った二人の心を温めた。




「……よかったね、陽介」



由美の鼻声に、陽介は本から顔を上げず、深く頷いた。


ページをめくる音が、静かな夜に心地よく響く。



それは、少年の未来が、音を立てて広がり始めた合図のようだった。

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