第2話 倉庫の灯りと、赤字の伝票
東京湾岸エリアにある巨大な物流倉庫。
その一角にあるテナントスペースは、深夜二十三時を回っても、真昼のような活気に包まれていた。
「トラック、三番バースに着きました!積み込み急いで!」
「こっちの検品まだ終わってない!高学年向けの小説、もっとないの!?」
「ダンボール足りません!奥から出して!」
怒号にも似た指示が飛び交う中、NPO法人スタッフの長谷川里美(はせがわさとみ・29歳)は、積み上げられた茶色い壁
――全国から送られてきたダンボールの山――を見上げ、眩暈(めまい)に似た感覚を覚えていた。
広い倉庫内は底冷えがする。
コンクリートの床から冷気が這い上がってくるが、里美の額にはじわりと汗が滲んでいた。
ダウンジャケットを脱ぎ捨て、フリースの袖を捲り上げながら、彼女は次の箱にカッターナイフを突き立てた。
ガムテープを裂く乾いた音。
箱を開けると、そこには色とりどりの「善意」が詰まっていた。
絵本、図鑑、児童文学。
すべて新品だ。
一冊ずつ手に取り、裏表紙のバーコードをハンディターミナルでスキャンする。
『ピッ』という電子音が、深夜の倉庫にこだまする。
「……ありがたい。本当に、ありがたいんだけど……」
里美は独り言のように呟き、腰をトントンと叩いた。
連日の立ち仕事で、体は悲鳴を上げている。
今年は、過去最高ペースで本が集まっていた。
SNSで活動が拡散され、参加書店が増えたおかげだ。
しかし、それは同時に、運営チームが「兵站(へいたん)の崩壊」という名の崖っぷちに立たされていることを意味していた。
ブックサンタの仕組みは、一見シンプルに見える。
参加者が本を買い、それを子どもに届ける。
だが、その間には「物流」という巨大な川が流れている。
全国千八百店舗以上の書店から本を回収し、この倉庫へ集約し、一冊ずつ検品し、年齢やジャンル別に仕分け、梱包し、そして全国の家庭や施設へ発送する。
本代は書店に入るが、この膨大なプロセスにかかる運送費、倉庫代、資材費は、すべてNPO側の持ち出しだ。
「里美さん、ちょっといいかな」声をかけてきたのは、運営代表の男だった。
疲労で目の下に隈を作っているが、その目はまだ死んでいない。
彼は一枚の書類を里美に見せた。
「……今月の輸送費の見積もりが出た」里美は数字を見て、息を呑んだ。
「……嘘でしょ。去年の倍近いじゃないですか」
「燃料サーチャージの高騰と、物量の増加だ。
嬉しい悲鳴だけど、このままだと本を届けるための『足』がなくなる」
数字の羅列が、冷たい現実として重くのしかかる。
本が集まれば集まるほど、運営資金がショートしていくという皮肉な構造。
私たちは、善意の重みで押し潰されそうになっているのではないか。
そんな恐怖が頭をよぎる。
「クラウドファンディングの伸びはどう?」
「悪くはないけど、本の集まるスピードには追いついてないわ。……代表、私たち、全部届けられるの?」
弱気な言葉が口をついて出た。
代表は、作業の手を止めずに笑ってみせた。
「届けるよ。待ってる子が、過去最多なんだ。引き返す道はない」
その言葉に背中を叩かれた気がして、里美は再び作業に戻った。
目の前のベルトコンベアには、ボランティアスタッフたちが黙々と本を並べている。
会社帰りのサラリーマン、学生、主婦。
誰もが無償で、この深夜の重労働に参加してくれている。
里美の担当は「仕分け」の最終チェックだ。
この作業が、最も神経を使う。
ただ送ればいいわけではない。
三歳児に分厚い小説を送っても読めないし、中学生に幼児向けの絵本を送れば、かえって彼らを傷つけることになるかもしれない。
一冊一冊のあらすじを確認し、対象年齢を見極め、適切な「届け先」へと振り分ける。
それは、本と子どものお見合いのようなものだ。
「あ、これ……」
一人のボランティアの女性が、ある本を手に取って手を止めた。
「これ、どこの棚に入れればいいでしょうか?絵本じゃないし、少し難しそうで」
差し出されたのは、美しい青色のハードカバーだった。
金色の箔押しタイトルが倉庫の照明を反射して輝いている。
本格的なファンタジー小説だ。
里美はその本を受け取った。
ずしりと重い。
新品特有の、パリッとした手触り。
ページをパラパラとめくる。
文字は小さく、漢字も多い。
世界観は壮大で、哲学的な問いかけすら含まれている物語。
「……高学年、いや、中高生向けね。SF・ファンタジーの棚にお願い」
「了解です!中高生向け、在庫が少なかったから助かります!」
ボランティアの女性が嬉しそうに走り去っていく。
里美は、その青い本が指定のダンボールに収められるのを目で追った。
本体価格、二千円超え。
決して安くない。
これを買った人は、どんな人だったのだろう。
帯の隙間に、書店のレシートが挟まっていたのが見えた。
購入日は数日前、都内の書店。
誰かが、自分の財布を痛めて、顔も知らない若者のためにこの本を選び、託してくれたのだ。
その時、里美の脳裏に、去年のクリスマス後に届いた一通の手紙の記憶が蘇った。
――『家には本がなくて、学校でも話についていけませんでした。
でも、もらった本を読んで、僕も物語を書いてみたいと思いました。
サンタさん、ありがとう』――
疲労で霞んでいた視界が、ふっとクリアになった気がした。
私たちが運んでいるのは、ただの「紙の束」ではない。
これは「可能性」であり、「肯定」だ。
社会の片隅で、誰にも気にかけてもらえないと感じている子どもたちへ、
「君のことを想っている大人が、ここにいるぞ」と伝えるためのメッセージなのだ。
赤字の伝票も、腰の痛みも、消えるわけではない。
けれど、この「重み」には、耐えるだけの価値がある。
「よし、ペース上げるわよ!」里美は倉庫全体に響くような大声を出した。
自分自身を鼓舞するように。
「次のトラックが来るまであと三十分!このエリア、全部片付ける!」
「はいっ!」
ボランティアたちの返事が返ってくる。
疲れているはずなのに、不思議と皆、いい顔をしていた。
深夜一時。
満載になったトラックのリアゲートが、「ガシャン!」と重厚な音を立てて閉まった。
テールランプが赤く光り、闇夜へと走り去っていく。
あのトラックの荷台には、数千人の子どもたちの笑顔の種が詰まっている。
その中には、あの青いファンタジー小説も載っているはずだ。
「お疲れ様でしたー!」
作業終了の声とともに、張り詰めていた空気が緩む。
里美はパイプ椅子にどさりと座り込み、ペットボトルのぬるくなったお茶を煽った。
喉を通る水分が、乾いた体に染み渡る。
「……里美さん、大丈夫ですか?顔色、悪いですよ」
心配そうに覗き込む後輩に、里美は力なく、しかし心からの笑みを向けた。
「大丈夫。……明日も、忙しくなるわよ」
倉庫のシャッターの隙間から、冷たい夜風が吹き込んできた。
けれど、今の里美には、それが心地よかった。
ここにあるのは、世界で一番温かい物流だ。
彼女はもう一度、積み上げられたダンボールの山を見上げた。
それはもう、威圧的な壁ではなく、希望の塔に見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます