2. 満ちないミチル
『もうすぐ三年生になるのに、まだ平仮名もまともに読めないの』
『不安で、毎日イライラする……』
ドア越しに母親の声を聞きながら、ミチルはベッドの中でぼんやりと天井を見ていた。電気は消していたが、暗闇に目が慣れて天井の模様がよく見える。ベージュのタータンチェックの濃い部分だけが際立って、なんだか牢屋みたいだなぁとミチルは思った。ずっと見つめていると格子は徐々に歪み始め、輪郭をなくしていく。父親が何か返答しているようだが、その声はドア越しだとよく聴こえない。
『そうね、もう少し……あなたを信じて様子をみてみるわ』
ミチルはゆっくりと目を閉じた。
ママはいつもパパを信じる。ミチルのことなのに、ミチルじゃなくていつもパパを信じて待つ。
――
目を覚まし、真っ白な天井が目に入る。ママもパパもいない、わたしだけのワンルーム。安堵と共に、ぼんやりとした憂鬱感が胸を押す。わたしはいつまで、あの頃の夢を見るんだろう。
ベッドから出て、狭いキッチンで顔を洗う。顔を拭き、飲んでも意味のない薬を飲む。肩越しまで伸びた髪を耳の上で左右二つに括る。鏡は見ない。見ても意味がないから。そういえば今日は大学で神経学の講義があったはず。クローゼットを開き、そこに並ぶ同じ白いシャツ、無地の黒スカートを手に取る。
今日は見つかるだろうか、わたしのことが分かる「何か」。
***
キャンパスの入り口には、駅の改札のようなセキュリティゲートが並んでいる。
ミチルは歩調を合わせて、リュックを背負った大柄な男子学生の真後ろにピタリとついた。スマホを見ながら学生証をかざす彼の影に溶け込むようにして、するりとゲート内に体を滑り込ませた。警報は鳴らない。
わたしは今日も、透明な人間としてこの場所に入ることを許された。
大講義室に入ると、すり鉢状に並ぶ無数の座席が目に入る。視界がぐにゃりと波打ち始め、静かに目を閉じる。1、2、3。頭の中で最初に見た映像を再構築する。これで世界が元に戻る。何も問題ない。
授業開始のベルが鳴る。
誰の視界にも入らない、教室出入口から一番近い席に腰を下ろした。
「――これにより、患者は一度に複数の物を見ることができず、状況全体を把握できないんですね。物体そのものの認識はできても、全体を捉える能力が損なわれている」
(似てる……。でも違う)
「うわっ!すごい綺麗な鏡文字」
隣からの声に反射的にノートを閉じる。警戒に満ちた視線を向けると、金髪ボブの女子が申し訳なさそうに肩をすくめた。
「あ、ごめんね」
「……勝手に見ないで」
まだ聞きたい講義があったけど、仕方ない。手早く荷物をまとめて講義室から出る準備をする。
「あっ、待って。あたしカナデって言うんだ。心理学部の二年生なんだけど、えーと、あなたここの学生……だよね?」
「うん、なんで?」
カナデの言葉が終わらないうちに被せるように返事をする。カナデは少したじろぎ、何かを言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。
「……さっきの講義、全部聞けた? 私寝坊して途中から入っちゃって。良ければノート見せて欲しいの」
「無理。わたしのノートの書き方、普通の人と違うから」
白けたように視線を外すミチルにカナデは続ける。
「違ってたらごめんだけど、あなたディスレクシアじゃない? 私もそうだから、もしかしてって思って……まぁ私は全然書けないんだけど」
ハハ、と自嘲気味に笑いながら視線を落としたカナデが、反応を伺うようにチラリとミチルに視線を戻す。
「!」
ギクリ、とカナデの身体がこわばったのが分かった。抑えきれない歓喜で、身体が震える。頬が勝手に歪んでいく。ミチルはカナデの両手を嬉しそうに握った。
「わたしが何か、知ってるんだ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます