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フェリナが向かっているのは、リュミナスの中心部──巨大な次元の裂け目だ。
街そのものが、その裂け目をぐるりと囲むように、底の深いボウル状の地形に沿って築かれている。
この都市を「迷宮都市」と呼ばせている元凶、《迷宮バベルグラフ》が、ボウルのど真ん中で、ゆっくりと異界の口を開いていた。
フェリナの住む安宿から迷宮口までは、歩いて半刻ほどの距離である。
次元の裂け目は、自然が勝手に生んだ傷ではない。
かつて魔導帝国が「願望機械」と呼ばれる特殊な装置を造り、この地の霊脈を乱した結果、霊脈と帝都ごと異界へ呑まれたなのだ――と、学者たちは説明している。
真偽はさておき、街の人間にとって重要なのはただひとつ。
そこから湧き出る富と、同じだけ流れ出る死だけだった。
霊脈から零れ落ちる魔力の結晶──魔石。
古代帝国の遺物。
迷宮でしか採れない金属や植物、そして怪物の素材。
それらを持ち帰る冒険者がいて、買い取るギルドがあり、加工する職人がいて、そこへ税を課す王国がある。
次元の裂け目から押し寄せる富が、迷宮都市リュミナスを、かろうじて今日も生かしていた。
フェリナにとって迷宮は、冒険ではなく生活そのものだった。
弟の薬代も、日々をつなぐ金も、次元の裂け目から湧き上がる品を拾いに行かなければ、手に入らない。
石段の途中、露店のパン屋が彼女に気づいて手を振った。
「お、フェリナ。今日も《おひとりさま》か」
痩せた男は、棚の隅に押しやられていた焼き過ぎのパンを拾い上げ、
「ほらよ」
と軽い笑いを添えて、男はパンをひょいと宙へ放った。
フェリナはそれを片手で難なく受け取る。
表面はすっかり乾ききっており、指先で押しても微動だにしない。ほとんど鈍器だ。
「昨日の売れ残りだ。食えはする。固いけどな」
「歯が欠けたら、治療費請求するから」
「やめてくれ。こっちだって迷宮なんか潜らずに済むよう、毎日畑と窯で精いっぱいだ」
男は冗談めかしながらも、目の端にはささくれ立った疲れが残っていた。
リュミナスで《迷宮と無関係に生きる》ことは、かなり難しい。
フェリナはパンを小さくちぎり、その場でかじる。
口の中に広がる素朴な塩気と、小麦の粉っぽさ。
空腹の胃には、それでも十分だった。
「今日こそ四階層の水晶狙いか?」
「一応、その予定」
パン屋の男は、ふっと眉をひそめる。
「『一応』って顔じゃねえな。フェリナ、おまえだってひとり生きるだけなら今よりもずっと――」
「私は好きで弟のために稼いでるから。それに、噂になってる臨時収入もあるかもしれない」
フェリナはぴしゃりと声をさえぎった。紫がかった灰色の瞳が、わずかに光を帯びる。
その言い方に、男の表情がきゅっと強張った。
「二階層のキノコの話なら、あんまり真に受けるなよ。儲かるって噂は、たいていろくでもねえ」
「わたしを誰だと思ってるの? 死線ならこれまでなんどもくぐってきた」
軽く手を振ると、フェリナは踵を返し、石段をトントンと下りていった。 揺れる肩掛け袋と、黒いローブの裾が、朝の風にほんの少しだけ揺れた。
弟が寝ているあの部屋。
細い肩が布団の中でかすかに動く光景が、ふと脳裏に浮かぶ。
「お金さえあれば、すべて変わるはず……」
彼女は誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
フェリナが石段を下りきるころ、パン屋の男は階段の上からその背をしばらく見つめていた。
右手には、自分の間食にと取っておいた焼き過ぎのパンが一つ、温もりもないまま握られている。
「おーい、忘れもんだ!」
思い立ったように声を張り上げ、男はパンをひょいと宙へ放った。
フェリナは半身を返し、伸ばした片手でそれを受け止める。
「売り物じゃねえが、腹はふさがる。帰ってきたら、また土産話でも聞かせてくれよ」
男の声音には、からかいと本気が半分ずつ混じっていた。
フェリナは手元のパンを軽く持ち上げ、小さく応じる。
「期待しないで待ってて。どんな話になるかは、帰ってからのお楽しみ」
朝風に黒いローブの裾が揺れ、彼女の白い足首がちらりと光を拾った。
そのままフェリナは、一度も振り返らずに迷宮への道を進んでいった。
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