第2話 屋上の女 シャダ

 高層ビルの屋上に建てられた高鉄棒が、ぎっし、ぎっし、と鳴っている。鉄棒が激しく軋むのは、シャダという名の女が、懸垂をしているからだった。シャダは三十代半ばで、トレーニングをする時はいつも全裸だった。その小麦色に日焼けした肌の上を、いく筋もの汗が伝い落ちていく。屋上には世話係として棒人間型のロボットが三体いたが、その視線を気にする風もなく、シャダは黙々と身体を動かし続けている。

 シャダが運動している間、棒人間型のロボット達は彫像のように黙然と立っていた。

 その頭部は薬のカプセルに似た形状で、目の位置に二本、口の位置に一本、横向きの細隙スリットが刻まれている。胸部は五角形で、厚みと丸みのあるホームベースのようだった。その二つを主構造として、全身に十六個の球体関節が配され、それをリンクと呼ばれる十四本の金属棒がつなぐことで、ロボットは棒人間の形を成している。

 ロボットの胸部には、座標軸と原点が設定されている。それに対する関節の位置関係を、頭部が演算・指示することで、一体のロボットとしての動作を制御していた。直径八センチの球体関節には、駆動装置と演算装置が組み込まれ、それぞれが必要な運動量と出力を計算している。それに対して、直径四センチ弱の金属棒リンクは、固形バッテリーの機能しかなかった。関節と金属棒リンクは共用部品だったが、その先端に接続される手と足のユニットは、その一つ一つが独立した制御を行なっている。

 風が吹き抜ける屋上で、シャダの命令を待つ棒人間型のロボットは、バッテリーを節約する待機モードだった。それでも三体のロボットは、周囲の様子を映像で記録しながら、しだいに荒くなっていくシャダの呼吸音を、ただじっと聞いていた。

 懸垂が百回を超えたところで、シャダはすっと腕を伸ばし、鉄棒にだらんとぶら下がった。そこから大きく脚を振り、勢いよく蹴上がりをする。鉄棒の上で両腕を軽く突っ張り、背筋をすっと伸ばすと、シャダは青空をゆったりと見渡した。

 一羽の鳶が、くいっ、くいっと肩を入れるようにして、向かい風の中で静止している。その姿にシャダは目を細め、頬を撫で去る風に、ふわりと口元を綻ばせた。

「気持ち良い……」

呟きを風に流し、シャダは口元を緩めた。

 その表情が、ふっと曇った。眉間に皺を寄せ、激しく舌打ちをする。それからぶんっと前回りをして、シャダは鉄棒から飛び降りた。大股に屋上を横切り、転落防止フェンスの撤去された屋上の縁−−手すり壁に片足をかけ、ビルの端から上半身を大きく乗り出す。

 獲物を見つけたのか、鳶が地上へ向けて急降下していった。それを追うように、シャダは鋭い視線を地上へと落とした。高層ビルの低層階は、大きく育った街路樹に沈んでいる。かってはかなりの交通量があった道路は、緑に覆われまったく見えなかった。それでもシャダの感覚は、樹々の下を移動する不快な存在を、はっきりと捉えていた。

「せっかくの気分が、すっかり台無しだわ」

あからさまな嫌悪を滲ませ、シャダは地上へ向かって言葉を吐き捨てた。


 艶やかな黒髪をポニーテールにした女が、木漏れ日の中を歩いている。

 好奇心が旺盛なこの女には、彼女を識別する音声記号は与えられていなかった。自分の名前だと認識するものが、もし彼女にあるとしたら、それはだった。これまで彼女は、自分以外の人間には会ったことがなく、お互いに名前を呼び合う、そんな場面を経験したこともなかった。

 女はまだ二十歳になったばかりで、ジーンズに長袖シャツという軽装で、鮮やかな色のデイパックを背負っている。下草や蔦が繁茂する歩道での藪漕ぎを避け、女は車道の真ん中を歩いていた。アスファルトはどこも土と草に埋め尽くされているが、それでも歩道よりはずっと歩き易かった。

 トレッキングシューズを履いていても、柔らかな腐葉土の感触が足裏に心地良い。歩きながらふと視線を上げると、頭上は巨大な街路樹の枝葉に遮られ、青空はほとんど見えなかった。視線を落とした女は、見通しの悪い車道を歩きながら、きょろきょろと辺りを見回した。

「この辺りにも、誰もいないのかなぁ……」

すぐそばの高層ビルの屋上から、シャダが睨んでいるとは露知らず、女は溜息に近い呟きを漏らした。軽快な足取りとは裏腹に、その声音には人恋しさが滲んでいる。

「一度くらいは人間に会ってみたいよねぇ……」

それが、いったいどんな人間なのか。棒人間型のロボットしか知らない彼女には、人間の攻撃性や排他性、あるいは支配欲についての経験がまるで欠如していた。

「もし会えたら、どんな話をしようかなぁ……」

期待を込めた視線の隅で、人影がちらりと動いた。それに気付いて足を止め、そちらを注視していると、街路樹の陰でまた人影が動いた。

「あっ、待って」

大声で呼びかけながら、彼女は思わず駆け出していた。

「ぜったい女の子だったよね」

人影を追って呟きながら、健康な筋肉にぐいっと力を込め、彼女はぐんぐんと足を速めた。

「ねぇ、待ってよ。なんで逃げるの」

何度も呼びかける内に、彼女の視線は人影の背中に吸い寄せられ、しだいに周囲の状況が目に入らなくなっていった。その足元で掻き分けられ、踏み潰された下草が、ざわざわざわっと鳴っている。

「同じ髪型をしているんだもん、きっと気が合うよ」

息を切らす彼女の視線の先で、ポニーテールにした髪がふわりと揺れ、自動ドアが解放されたままのビルへと、人影が滑るような足取りで入っていく。またポニーテールがふわりと揺れ、人影の横顔がちらりと見えた。

「え…… 誰なの」

その疑問に吸い寄せられるかのように、人影を追って彼女もビルの中へと踏み入った。

 薄暗いフロアの奥で停止したエスカレーターを、人影がするすると登っていく。その背中へ向けて、

「待って、あなた誰なの」

彼女は大声で呼びかけた。それを無視して、人影はエスカレーターを登り続け、上階のフロアに達しかけていた。それを追って彼女が上階のフロアに出た時には、人影はもう暗い通路のずっと先にいた。

 通路の終端で鉄製の扉がゆっくりと開き、外界の光が通路に鋭く射し込んできた。その眩しさに目を細めながら、彼女は通路を駆け抜け、ビルの壁面に設けられた非常階段へと出た。一陣の風が吹き抜け、街路樹の梢がざわざわと揺れた。

「どっちへ……」

人影を求めて、地上へ続く階段と、屋上へ続く階段を彼女は交互に見比べた。

 地上へ続く非常階段は、壁面から流れ落ちるように繁茂する蔦に塞がれ、そこに人が通った形跡は見当たらなかった。

「上へ行ったんだわ」

足音は聞こえなかったが、状況から見て、そうとしか考えられなかった。彼女は視線を上へ向け、息も整えずに登り階段へと踏み出した。

 非常階段を三階分登ったところで、ポニーテールにした髪が揺れるのがちらりと見えた。さらに三階分登り、彼女はようやく人影を視界に捉えた。自分はぜいぜいと息を切らしているのに、人影は疲れも見せずに非常階段をどんどん登っていく。追っても追っても人影との距離は縮まらず、そのくせ離れもしなかった。

「なんで待ってくれないのよ」

愚痴を溢しながら、それでも彼女は足を止めようとはしなかった。彼女の視野は完全に狭窄し、その意識はどっぷりと幻影に嵌まり込んでいる。

 何層分の階段を登っただろうか。今ではもう、巨大な街路樹が遥か下に見えている。遠くで木々が大きく揺れ、激しい風が廃都を吹き抜けていく。風と葉擦れの音が狂ったように足下を通り過ぎ、ふいに辺りは静寂に包まれた。静けさに呼び止められたかのように、非常階段の踊り場で、人影がようやく足を止めた。

 人影が佇む踊り場では、階段の手摺が溶断され、そこだけぽっかりと口を開いていた。

「ねぇ、あなた何者なの。なぜ、私にそっくりなの」

人影に追いついた彼女は、ぜいぜいと肩で息をしながら尋ねた。その問いかけに応じて振り向いた人影が、ふわりと微笑んでみせる。その顔は、彼女に瓜二つだった。

 彼女そっくりの女が人差し指を立て、ゆっくりと自分を指差し、それから彼女を指差した。

「ひょっとしてクローンとか、そういうの?」

突拍子もない質問に、そっくりな女は無言で首を横に振った。それから女は彼女に背を向け、手摺が撤去された方へと歩き出した。

「だめっ」

踊り場の外へ踏み出そうとする女に向かって、彼女は無意識に駆け出していた。手を大きく前へ伸ばし、女の腕を掴もうとする。その瞬間、彼女の眼前で女の姿がふっと掻き消えた。

「あ……」

非常階段の外で、彼女は驚愕に大きく目を見開いた。空中で身体がぐらりと傾き、長い悲鳴だけを残して、彼女は地上へと落下していった。

 すぐ近くの高層ビルの屋上から、その様子をシャダがじっと見下ろしていた。

「すっきりしたわね」

満足げにそう言うと、シャダは屋上の手すり壁から足を下ろした。

「もう一汗かこうかしら」

まるで何事も無かったかのように、シャダは優雅な足取りで屋上を横切り、高鉄棒の下に立って空を見上げた。その視線の先では、青空に大きな円を描いて、一羽の鳶が飛んでいた。


 直径七センチ程の球形の圧力容器の内圧が、ゆっくりと上昇し続けている。内圧が高まるにつれて、均質に拡散していた物質が集積し、複雑に連鎖し始めた。時間の経過と共に連鎖は急速に成長し、思考の索条網を構築していった。圧力容器の内部に傾斜磁場がかけられ、思考の索条に方向性が付与されると、磁界の中で意識の複製が形成された。

 微かに鎌首をもたげた意識の片隅に、誰かの話し声が聞こえてきた。

「本当に、こうする必要があったのかい」

「ええ、こうしなければ、彼は助からなかったわ」

どうやら二人の女が話しているようで、片方の声には聞き覚えがあった。

「けど、これを助かったって言うのは……」

聞き覚えのある声が言い澱んだ。その声音には、後悔が色濃く滲んでいる。

「あなたには無理だって、最初に説明したでしょう」

「あたしのせいだって言うのかい」

「そうよ。あなたは影響圏外から、突入命令を出すだけで十分だった。それなのに、あなたは最前線に踏み込んだ。この事態を招いたのは、あなたよ」

二人の話し声に耳を傾けていると、暗闇の中に女の顔が朧に浮かび上がってきた。しだいに輪郭が明確になり、目鼻立ちや唇や耳の形が見えてくる。それは、シャダの顔だった。記憶に無いはずの顔に、なぜか激しい嫌悪感が込み上げてきた。

 −こ……これは誰……

そう思った瞬間、アガタの視界がぱっと開けた。

 最初に見えたのは天井ではなく、様々な機器がぎっしりと並ぶ壁面だった。そこは病室とはほど遠い内装で、むしろ何かの実験室のような印象だった。その部屋の隅に、アガタは立たされていた。ゆっくりと視線を巡らせると、ドアのそばに二体の棒人間型のロボットが待機し、部屋の中央で二人の女が向かい合っていた。

 片方の女の顔には、見覚えがあった。コウカだ。もう一人は赤いワンピースを着た髪の長い女で、こちらは初めて見る顔だった。どうやら話し声は彼女達のようだったが、さっき脳裏に浮かんだ嫌な顔とは、二人ともまるで別人だった。

 アガタの覚醒に気付いたのか、赤いワンピースの女が彼の方に歩み寄ってきた。彼女の履くハイヒールの硬質な靴音が、三人のいる部屋に威圧的に響いた。

「気分はどうかしら」

アガタの顔を覗き込み、赤いワンピースの女が尋ねた。その冷たい声音が、アガタの気持ちを急速に萎縮させていく。

「ぼ、僕は……」

「あなたは大怪我をして、手術をしたのよ。とても大変な手術だったわ」

 −そ、それならなぜ…… ベッドで寝ていないの……

大きな手術をしたのなら、こんな研究室みたいな部屋の片隅で、どうして僕は立たされているのだろう。ひょっとしてずいぶん長い間、すっかり身体が治るくらい長い時間、僕はずっと意識を失っていたのだろうか。それにしたって目覚めるまでは、ベッドに寝かせておくのが普通じゃないのか。自分が置かれている状況が理解できず、アガタはあれこれと考え続けていた。

 そんなアガタの様子など意に介さぬ風で、赤いワンピースの女がさらに説明を続けた。

「でも、もう大丈夫よ。手術は成功したし、あなたはすっかり元気だわ」

赤いワンピーの女の言葉に、アガタの視界の中で、コウカがぷいっとそっぽを向いた。

 −き……綺麗だ……

この場にはまったく不釣り合いだが、あからさまに不機嫌なコウカの横顔を、アガタは素直に美しいと思った。それは、骨董品店で日本刀に見惚れていた、あの時に抱いたのと同じ感覚だった。自分でも予期せぬ感情の動きに、アガタの萎縮がわずかに弛んだ。

「もう一度、聞くわね。気分はどうかしら」

「わ、悪くは……ないです」

そう答えたアガタの声は、どこか人工的な響きを帯びていた。

「そう、良かったわ。それなら、歩けるかしら」

アガタの答えに頷いてみせ、それから赤いワンピースの女はさらに尋ねた。同時にアガタの背後で、かちりと金具の外れる音がした。

 落下するような感覚がして、身体が大きく前へ傾いた。アガタは慌てて半歩踏み出し、辛うじて転倒は免れた。だがその上体は、船酔いした時のようにぐらぐらと揺れている。その様子を、赤いワンピースの女は冷ややかな目で観察していた。

「もう大丈夫みたいね。それじゃあ、私のお願いを聞いてくれるかしら」

アガタの姿勢が安定するのを待って、赤いワンピースの女が切り出した。

「私達は、あなたに協力して欲しいの」

「な……何を手伝うんですか」

これまでアガタは、誰かに何かを頼まれたことがなかった。そのせいで、ことの重大さに考えが至らないまま、アガタはつい尋ねていた。

「素直なのは、とても良いことよ」

赤いワンピースの女はアガタの態度を褒め、それから本題を切り出した。

「あなたに手伝って欲しいのは、怪物退治よ」

「か、怪物……」

女の言葉にアガタは驚き、思わず呟いていた。

「それとも、妖怪退治と言った方が良いかしら。どんな呼び方をするにせよ、あなたはその存在に気づいているし、実際に会ってもいるでしょう」

その言葉に触発され、アガタの脳裏に川沿いの美しい桜並木が浮かんできた。あの時、何となく感じた怖いモノ。そして、ファミレスで男に撃たれたあの女。ずっと避け続けていたのに、うっかり出会してしまった恐ろしい存在達。赤いワンピースの女が言う怪物や妖怪は、きっと彼らに違いない。そう思っただけで、ファミレスで感じた恐怖がじわりと蘇り、アガタは怖気付いた。

「ぼ……僕にできることなんて……」

「怖がらなくても良いのよ。先ず説明を聞きなさい」

赤いワンピースの女の有無を言わせぬ口調に、アガタは半ば反射的に頷いていた。

「さっきは退治と言ったけど、正確には確保と隔離なのよ。彼らはとても危険な存在だけど、彼らを罪に問うことはできないの。なぜだか分かるかしら」

赤いワンピースの女の質問に、アガタは無言で首を横に振った。

「それは、彼らが不能犯だからよ。彼らは人間に害を成しているけれど、その方法を立証できないの。誰かに危害を加えようと意図しても、それが達成され得ない方法。彼らの罪は、そう認定されてしまうのよ。でも、彼らをこのまま野放しにしておく事はできないわ。だから私達は、彼らの脳を詳細に調べて、その方法を科学的に解明したいのよ」

「で、でも……」

「解剖なんて、そんな野蛮なことはしないわ。生体を調べる方法なんて幾らでもあるし、その方がより有意義な情報が得られるのよ。そうして彼らの力が解明されれば、あなたのように無力で普通な人達でも、安全に暮らせるようになるの。あなただって、どこへでも好きな処へ行けるようになるわ」

 赤いワンピースの女の説明を、コウカは冷ややかな表情で聞いていた。

 −この子を使って、何をするつもりだい。

怒りまじりに、コウカはぎりっと歯噛みした。この女はロボットを通して、銃でも刀でも人が望むままに与えておいて、それがもたらす結果は無頓着に放置している。そのくせ安全や安心を語って聞かせるなど、詭弁としか思えなかった。

「でも……」

逡巡するアガタに、赤いワンピースの女はさらに説明を続けた。

「心配しなくてもだいじょうぶ。実際に彼らを捕まえるのは、ロボット達なのよ」

「なら……なぜ僕が必要なの」

「それは、ロボットが彼らを人間と認識してしまうからよ。ロボットはプログラムに組み込まれた制約で、人間の命令には逆らえないの。だから、いくら捕まえようとしても、命令されれば彼らを逃すしかないのよ」

赤いワンピースの女が何を言いたいのか分からず、彼女の整った顔をアガタはじっと見上げていた。

「けれど、権限を与えられた人間がいれば、状況は大きく変化するわ。より強い権限のある人間の命令を優先し、その命令に従うことで、ロボットは彼らを捕まえる事が可能になるのよ」

「それなら、あたしがいるだろう」

赤いワンピースの女の説明に、コウカが横から口を挟んだ。その目の色には、後悔と怒りが複雑に入り混じっている。

「あら、あなたは失敗したじゃない。それも、最悪の結末で」

赤いワンピースの女は冷たい微笑をコウカに向け、それから意味ありげな視線をアガタに落とした。その態度にむっとして、コウカは声を荒げた。

「離れた所から、ロボットに命令すれば良いんだろう。今度は、ちゃんとそうするよ」

「あら、もうその必要はないわよ。だって、この子がいるんですもの」

いかにも嫌味な物言いに、コウカは赤いワンピースの女をぎりっと睨みつけた。それを無視して、女はアガタに語りかけた。

「手術のせいで、あなたは彼らの力の影響を、とても受けにくくなっているのよ。彼らの力を生々しく感じ取っても、あなたの精神がそれに支配される事はないわ。だから、私達にはあなたの協力が不可欠なの。あなたが目標に接近し、そこで待機するロボットに命令してくれれば、ロボットは彼らを捕まえる事ができるわ」

「僕が……ロボットに命令なんて……」

これまでアガタは、棒人間型のロボット達とまるで友人のように接してきた。食事や寝床の用意で棒人間型のロボットに頼み事はするが、アガタはそれを命令だとは認識していなかった。アガタは逡巡し、視線をタイル張りの床に落とした。

「どうかしら、簡単な仕事でしょう。重要なのは、あなたの特殊な体質で、これはあなたにしかできない仕事なの。あなたが協力してくれれば、みんな安心して暮らせるようになるわ」

赤いワンピースの女は、そこで言葉を切った。コウカが口を開こうとするのを手で制し、アガタが結論を出すのを静かに待っている。どれほど長い時間、アガタが迷い続けようと、彼女にとってそれはほんの一瞬に過ぎなかった。

「もう……怖いことは無くなるんですね」

「ええ、そうよ。彼らが隔離されてしまえば、怖い事なんてきっと無くなるわ」

「分かりました。やります」

アガタの決断に、赤いワンピースの女が微笑んでみせた。

「それじゃあ、行きましょう」

「い……今からですか」

「そうよ、のんびりしている時間はないのよ」

「いくら何でも急過ぎるだろう。もうちょっと身体に馴れる時間が必要だよ」

「ついさっき、若い女性が転落死したわ。それでも、のんびりと構えていられるのかしら」

コウカが異議を唱えようとしたが、赤いワンピースの女は語気を強めただけだった。

「つ……捕まえるのは、どんな人ですか」

「とても悪い女よ。あなたは、その女の顔を知っているでしょう」

赤いワンピースの女の言葉に誘引され、アガタの脳裏にシャダの顔が鮮明に浮かび上がってきた。

 −さっきの女の人……

はっきりと見えた女の顔は、まるで映像が頭の中に直接書き込まれたような感覚だった。

「彼女の名前はシャダよ」

赤いワンピースの女の言葉に反応したかのように、頭の中のシャダがぎらりと目を光らせた。アガタを睨みつけながら、不敵な笑みを浮かべてみせる。それに威圧され、アガタは思わず後退っていた。

「自信を持ちなさい。あなたは生まれ変わって、とても強くなったのよ」

赤いワンピースの女の言葉に、アガタはぎこちなく頷いた。彼女の言葉を聞いていると、頭の中で何かが変性し、思考が一定の方向へ偏っていく。そんな奇妙な感覚に、アガタは浸潤され始めていた。

「ぼ……僕にできることがあるなら……行きます」

アガタの返事に、赤いワンピースの女が満足げに頷いてみせた。

「ついて来なさい。屋上にあなたを運ぶ大型ドローンが用意してあるわ」

赤いワンピースの女が部屋の出口へと足を向け、その後にアガタが覚束無い足取りでついていく。

「あたしも行くよ。あたしの刀を持ってきな」

ドアの傍らに立っている棒人間型のロボットに命令しながら、二人を追ってコウカも通路へと出た。

 エレベーターホールへと続く通路は、コウカの目には酷く暗かった。それを気にする風もなく、アガタを従えた赤いワンピースの女が前を歩いていく。そのハイヒールの靴音は、まるで世界を支配するかのように、暗い通路に高圧的に響いた。

「あなたが乗れるドローンは、用意してないわよ」

最後尾のコウカに向かって、赤いワンピースの女が振り向きもせずに言った。

「まさか、荷物運搬用のドローンしかないんじゃ……」

「あら、この子ならそれで問題ないでしょう」

「運ぶのに問題がなくても、怖いものは怖いんだよ」

「効率の良い方法には、慣れてもらうしかないわね」

冷たく言い放って、赤いワンピースの女がエレベーターに乗り込んだ。それにアガタが続き、棒人間型のロボットから日本刀を受け取りながら、コウカもエレベータに乗り込んだ。

 数十階分の高さを、高速エレベーターはあっという間に上昇していった。減速すらほとんど感じさせずに、エレベーターが最上階で停止した。扉が静かに開いてもそこに空は見えず、鉄製の枠組みと格子状の金属板が頭上を覆っている。そこは、屋上ヘリポートの真下の空間だった。

 屋上の隅に設置された鉄製の階段を登って、三人はヘリポートへと出た。緑に沈んだ廃都を渡る風が、三人の周囲をびょうびょうと吹き抜けていった。

「そこに立ちなさい」

ヘリポートの中央で、赤いワンピースの女がアガタに指示した。

 ヘリポートの隅で円筒形の格納筒が迫り上がり、そこから荷物運搬用の大型ドローンが滑るように出てきた。真っ黒に塗装されたドローンは、四機のローターが同心円上に配置され、その中央に球形の制御ユニットが収まっている。大型ドローンは二メートルほど高度を上げ、その下部に設置された四本の多軸ロボットアームを展開させた。

「こ……これで行くんですか」

「ええ、そうよ」

「で、でも……座る処がありませんよ」

「あら、搬送用アームがあるじゃない」

赤いワンピースの女が事も無げに言い、大型ドローンがアガタの頭上へと移動した。

「これは、やっぱり駄目だよ。人間が乗るタイプのドローンを用意してやりな」

「急いでいるのよ。そんな時間はないわ」

多軸ロボットアームがアガタの背後へと伸び、かちりと固定金具の嵌る音がした。

「ほ……本当に、僕にできますか」

「大丈夫よ。梃摺るようなら、始末してしまえば良いんですもの。ロボットにはできなくても、あなたになら出来るわ」

赤いワンピースの女が、さらりと恐ろしいことを言った。その言葉が、どんな暗示より強固にアガタの思考を偏らせた。同時に、鋭く振るわれる日本刀の幻が、アガタの頭の中で閃いた。

「コウカさん」

アガタが、ふいにコウカに呼びかけた。その声音には、明確な決意が込められている。

「ちゃ、ちゃんとやれたら、ぼ……僕を弟子にして下さい」

「分かった。ちゃんとやれたら、弟子にしてやるよ」

少しでも、この子のためになるのなら。そう思ったコウカは、アガタに迂闊な言葉をかけてしまった。その答を待っていたかのように、大型ドローンがローターの回転数を上げ、アガタの爪先がヘリポートからふわりと浮き上がった。次の瞬間、ローターの出力を最大にして、大型ドローンが急上昇した。

「う……うわああああぁ……」

長く尾を引く悲鳴を残して、アガタは青空の彼方へと連れ去られた。


 心地良い風が高鉄棒に絡み、微かな音を立てて屋上を吹き抜けていく。トレーニングを終えたシャダは、ビーチチェアーに仰向けに寝転がり、乱れた息を整えながら空を見上げていた。棒人間型のロボットが、シャダの注文したアイスティーを運んできた。シャダはそれを受け取り、喉を鳴らして半分ほど飲むと、グラスを傍らのテーブルに置いた。

 テーブルには、卓上用の小さな鏡と七本の口紅が半円形に並べられている。口紅は左端が淡いピンクで、そこから右にいくにつれて色が濃くなり、右端はローズレッドだった。口紅を使うことは滅多になかったが、お気に入りの七本を眺めて、シャダは口元をふわりと緩めた。

「気持ち良い……」

視線を空に戻し、シャダは呟いた。青空に溶け込むように、ゆったりと自分が広がっていく。空へ向けた目を細め、その感覚にシャダは身を委ねた。そこには彼女だけが存在し、彼女の意識を乱す不快なものは何一つなかった。

「ほんと気持ち良い……」

半ば目を閉じ、シャダはさっきと同じ呟きを繰り返した。トレーニングで火照った身体を、屋上を吹き抜ける風が冷ましていく。体温が下がるにつれて、眠気がじわりと全身に広がり始めた。陽光を浴びながら、シャダは穏やかな微睡へと落ちていった。

 屋上の片隅で、一体の棒人間型のロボットが歌い始めた。その美しい旋律はシャダの耳に届くと、彼女を眠りからそっと揺り起こした。

 −歌っているのは誰……

目を瞑ったまま、シャダは歌声に問いかけた。

 これまで何度も聞いたことのある歌は、録音された曲を、ただ再生しているようには思えなかった。いつも同じ歌なのに、彼女の歌声は、聞く度に異なった感情を湛えている。時には明るく、また時には穏やかに、そして今は淡い哀愁を帯びている。シャダは細く息を吐き、それから歌声に沈み込むように、再び眠りへと落ちていった。

 穏やかに吹き渡る風に、一筋の不快な色が混じった。それが感覚の奥深くに突き刺さり、シャダはぱちりと目を開いた。

「気持ちよく眠ってたのに、すっかり台無しだわ」

ビーチチェアーの上で上体を起こし、シャダは不機嫌そうに呟いた。それから感覚を研ぎ澄ませて、ビルの周辺を慎重に探り始めた。すると、その色が流れ込んで来る方向は、これまでのように地上からではなかった。

「空……」

視線を上げると、いつものように鳶が飛んでいた。このビルに物資を運搬する大型ドローンが接近すると、鳶はどこかに隠れてしまうのが常だった。それが今は逃げる様子もなく、ゆったりと風に舞っている。空を見上げたまま軽く首を傾げ、

「おかしいわね……」

シャダは怪訝そうに呟いた。屋上の床に両足を下ろし、ゆっくりと空を見渡してみる。だがそこに、大型ドローンの機影は見つけられなかった。

 これまでシャダが誰かの接近を感じたのは、このビルを中心に半径二百メートルまでの範囲だった。その距離なら、大型ドローンを視認できないはずがない。見えないということは、接近者がかなり遠方にいるということを意味している。それなのに接近者の存在は、自分の中でどんどん鮮明になっていく。

 これまで経験したことのない、不自然に増幅する力の感覚に戸惑いながら、

「せっかくの気分を、台無しにしたんだからね。この代償は、きっちり払ってもらうよ」

空の一点を睨みつけ、シャダは吐き捨てるように言った。その一言をきっかけに、まるで力に引き摺られるかのように、シャダの感情は急激に昂ぶり始めた。

「下の階へ行きなさい」

これまで、いったいどんな経験をしてきたのか。傍らで待機している棒人間型のロボット達に、シャダは屋上からの退去を鋭く命じた。

「鍵を閉めて、五階下まで封鎖するのよ」

命令に即座に反応して、彫像のように佇んでいた三体のロボットが同時に動き出した。ロボット達は鉄製の扉を開け、順序良くビルの中に入ると、内側から電子ロックを作動させて扉を封印した。

 その様子を確認し、シャダは視線を空へと戻した。

「いったい何なの……」

不快な色は確実にこちらに接近しているのに、来訪者の姿はおろか、大型ドローンの機影すら見えない。それがシャダを酷く苛つかせ、激昂をさらに巨大な憤怒へと変化させていった。


 四機のローターが発生させる強風が、アガタの全身を激しくなぶっている。

「下は見ない、下は見ない、下は見ない」

そう繰り返しながら、アガタはずっと空を見上げ続けていた。そうしていれば、高空で吊り下げられている恐怖は、取り敢えず感じないで済んだ。

「下は見ない、下は見ない、下は……」

ふと呟きを止め、何かに引き寄せられるかのように、アガタは視線を下げてしまった。

 廃都は豊潤な緑に覆い尽くされ、そこかしこの梢では小鳥が囀り合い、小動物が餌を求めて駆け巡っている。そうした地上から、にょきりにょきりと聳える幾つものビルが、朽ちかけた遺構を青空に向かって晒している。その中でもひときわ高いビルの屋上から、強烈な敵意が発散されていた。まるで台風のように、周辺数キロにも及ぶ空間に渦巻く激情は、己以外の何人をも拒む憤怒だった。

 アガタを搬送する大型ドローンが、その高層ビルの上空でいったん静止し、ローターの回転数をすっと落とした。

「う、うわあああぁ……」

二度目の絶叫を青空に響かせ、悪意がごうびょうと渦巻く屋上目がけて、アガタは垂直に降下していった。

 かちりと金具の外れる音がして、大型ドローンから切り離されたアガタは、二十センチ程の高さから屋上へと投下された。つんのめりかけ、アガタの視線が足元に落ちる。濃密に凝縮した思考波に視覚が影響されるのか、履き古したトレッキングシューズの爪先が、ちらちらと歪んで見えた。

「僕はアガタだ、僕はアガタだ、僕はアガタだ……」

自分の名前を七度繰り返しても、アガタの不安は一向に和らがなかった。

「だ、だいじょうぶ。僕は……ロボットに、命令するだけなん……」

勇気を振り絞って顔を上げたアガタは、ぎょっとして言葉を呑み込んだ。

 まるで、猛烈なノイズの嵐の中にいるようだった。ざらつく視界は激しくちらつき、屋上の様子がまともに見えない。空は恐ろしく出来の悪いモザイク模様のようで、左右に視線を走らせてみても、棒人間型のロボットがいるかどうか判らなかった。動揺しながら、視線を前方に戻し、

「だ、誰……」

微かに震える声でアガタは呟いた。

 視界を歪ませるエネルギーが放出される方向から、人影がゆっくりと歩いて来るのが見えた。最初は辛うじて見分けられる程度だった輪郭が、人影の接近につれてしだいに明確になり、やがて目鼻立ちがはっきりと分かるようになった。

 その顔は、アガタにそっくりだった。しかし、その皮膚の下では、鏡では見たことのない邪気が、表情筋に絡みつくように蠢いている。

「き……君はいったい……」

問いかけを無視して、アガタに瓜二つの人影は擦れ違いながら、横目でアガタの方をちらりと見た。

「怖がり過ぎなんだよ。もっと気楽に始末しちまえよ」

赤いワンピースの女と同じ言葉を、アガタそっくりの人影が耳元で囁いた。次の瞬間、ふいに視界が開けた。

 晴れ渡った青空を背景に、全裸の女が腰に手を当て、傲然と胸を反らせて立っている。引き締まった肉体は美しく、初めて見る女性の裸身に、その恥じらいの欠片もない態度に、アガタは思わず目を逸らせた。

「シャ、シャダさんですか」

「あら、おかしな事を聞くのね」

これまで只の一度も、シャダは棒人間型のロボットに名前を尋ねられた事がなかった。それなのに、アガタは名前を聞いてきた。そのことに強い違和感を覚え、シャダは軽く首を傾げてみせた。

「あ、あなたが…… シャダさんですか」

視線を外したまま、アガタは同じ質問を繰り返した。そのおどおどした様子に神経を逆撫でされ、シャダの頬がぴくりと動いた。

「そうよ。私がシャダよ。私に、何か用かしら」

アガタは視線を上げ、屋上を見回した。視界は良好だったが、そこに棒人間型のロボットは一体も見当たらなかった。

「あなた、なんだか不愉快ね」

険のある声音に、アガタはシャダの方へと視線を戻した。

「あなたも、下の階へ行ってなさい。五階下のフロアまで、すべて立入り禁止よ」

「そ、それはできません」

アガタの返答に、シャダは不快そうに眉を顰め、アガタを運んできた運搬型ドローンをちらりと見た。

「なら、あれで帰りなさい。これは命令よ」

「ひ…… 一人では帰れません」

びくついた態度とは裏腹に、アガタはシャダの命令を拒否した。

「あら、それはどういう意味かしら」

「ぼ…… 僕と、一緒に来てください」

「どこへ、どうやって行くのかしら。そのドローンに、私は乗れないわよ」

アガタの数メートル後方で空中待機している大型ドローンを、シャダが突き刺すように指差した。

「ほ、方法は考えます」

「あなたは、なぜ私の言うことを聞かないの。他のロボットは、私には逆らわないのに」

苛立ちを露わにした言葉に、アガタは思わず俯いてしまった。その態度が、シャダの苛立ちをさらに加速させていく。

「帰れって言ってるのよ」

シャダが怒鳴り、大股に踏み出すと、アガタの腕を乱暴に掴んだ。

「来なさい」

シャダは鍛え上げた筋肉にぐいっと力を込め、待機中の大型ドローンのところへと、強引にアガタを引き摺って行こうとした。

「や、やめて下さい」

「うるさいっ」

シャダの勢いに気圧されたかのように、大型ドローンがするするっと後退した。その様子に舌打ちし、シャダは掴んだアガタの腕をぐいっと上へ引っ張った。アガタの身体が軽々と持ち上げられ、爪先が屋上の床から浮き上がった。

「あんたみたいに軽いのを、運べないとでも思ったのかい」

シャダが大声で言い、片手でアガタを吊り上げたまま、屋上の縁に向かって歩き出した。

 −落とされるっ。

そう感じたアガタの脳裏に、不意に強烈な印象イメージが閃いた。非常階段から地上へ向かって、落下していく何人もの男女。彼らが感じた驚愕が、その瞬間の恐怖が、一塊になってアガタに襲いかかってきた。

「いやだーー」

アガタの絶叫が、屋上に響いた。

「いやだ、いやだ、いやだ」

叫びながらアガタは身を捩り、激しく手足を振り回した。その膝が、シャダの鳩尾に入った。

「うっ……」

呻き声を漏らしてシャダが前屈みになり、アガタの爪先が辛うじて屋上の床に着いた。

「嫌だって言っているだろう」

アガタが怒鳴り、同時に視界がふっと暗くなった。

 その後の出来事の一部始終を、運搬型ドローンのカメラが映していた。

 力の緩んだシャダの手を、アガタは最小限の動作で振り解き、シャダの手首を掴み返した。滑らかな動きで全身を捻り込みながら、アガタがシャダの腕を斜め下に引っ張る。シャダが大きく態勢を崩し、アガタの腕に覆い被さるような格好になった。くの字に折れたシャダの身体を腕に乗せたまま、アガタは捻り切った身体を高速で逆回転させた。

「ぐっ」

腹部を強く圧迫され、シャダがくぐもった声を漏らす。シャダを下から掬い上げながら、アガタはぶんっと音をたてて腕を振り切った。シャダの身体が空中高く舞い上がり、手すり壁の向こう側へゆっくりと消えていく。

「ああああぁ……」

長く尾を曳く悲鳴を残して、青空に聳える高層ビルの屋上から、地上へ向かってシャダは墜落していった。遥か下方の地上が目に入った瞬間、ひっと胸が冷たくなるような恐怖が、シャダの脳から鋭く発振された。断末魔の心象が周辺数キロの空間を震わせ、アガタの精神に深く突き刺さった。

 ふいに襲われた墜落の恐怖に、アガタははっと我に返った。慌てて視線を足元に落とし、そこに防水塗装の施された床があることにほっとする。それからアガタは、状況を把握しようと周囲を見回した。

「あの人は……」

屋上のどこにもシャダの姿はなく、殺風景な屋上で目についたのは、高鉄棒とビーチチェアーと、その傍らに置かれたサイドテーブルだけだった。困惑したアガタは、ふらつく足取りでビーチチェアーの方へと近づいていった。

 恐らく、シャダの私物だったのだろう。サイドテーブルには小さな卓上用の鏡が置かれ、それを囲むように、七色の口紅が半円形に並べられている。それだけが、シャダがこの世に残した痕跡だった。なぜそうするのか自分でも分からぬまま、アガタはサイドテーブルに手を伸ばし、右端に置かれたローズレッドの口紅を摘み上げた。

 高い空で鳶が鳴き、高層ビルの屋上を、一陣の風が激しく吹き抜けていった。風に煽られた卓上用の鏡がばたりと倒れ、それに弾かれた口紅がころころと転がって、サイドテーブルの縁から屋上の床へと落ちていく。耳元でごうびょうと鳴る風音に、さっき感じた墜落の恐怖が、そくりとアガタの胸に迫った。

「あ、あの人はどこに……」

その呟きに被せるように、放物線を描いて屋上の手すり壁を越えるシャダの姿が、アガタの頭の中に鮮明に浮かび上がった。それは、意識を失っている間に、アガタの目に焼き付いた光景だった。手足をばたつかせながら、驚愕の表情を浮かべたシャダが、頭を下に落下していく。その生々しい映像が、壊れた録画装置のように、頭の中で何度も何度も繰り返される。

「僕は、いったい……」

 アガタはよろめき、両膝を屋上の床に着いた。

「帰還しなさい」

赤いワンピースの女の冷ややかな声が、アガタの頭の中で響いた。それに呼応して、アガタを回収するために、運搬型ドローンがふわりと上昇する。

「僕は……いったい何を……」

赤いワンピースの女の声を無視して、アガタは呟きを繰り返した。周囲に視線を彷徨わせ、倒れた卓上用の鏡を起こすと、そこに映る自分の姿が目に入った。それは、この屋上に降下した直後に出会した幻影と、まったく同じ顔だった。

「怖がり過ぎなんだよ」

アガタそっくりの声が耳元で囁き、視界がふっと暗くなった。そうしてアガタは、五感の遮断された奈落へと落ちていった。

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