歌うロボット ー 七人のアガタ
@Egusan
第1話 プロローグ
一人の少年が、白い自転車に乗って古びた橋を渡っている。少年の名は、アガタ。広大な緑に沈んだ世界で、その三音だけが、少年を識別する音声記号だった。真新しい自転車の前カゴには、食料と水筒を入れた鞄、それと一振りの鉈が入れられている。それが、アガタの持ち物の全てだった。
橋の下では、穏やかな陽光が川面に煌めいている。対岸の土手は、上流へ向けて緩やかな曲線を描き、満開の桜並木が続いていた。風に揺れた枝から花が散り、はらはらはらはらと水面へ舞い落ちていく。長閑な風景にはそぐわぬ流速に、花びらは激しく翻弄されながら、次々と流れ去っていった。
橋を渡り切ったところで、アガタは自転車を止め、桜のトンネルの美しさに目を細めた。
「行ってみようかな……」
考える時の癖でアガタは声に出し、それからふと眉を顰めた。
「やっぱり止めとこう。何だか……怖いや」
アガタはハンドルを前へ向けると、ペダルを踏む足にぐいっと力を込め、土手下へ伸びる斜路へと漕ぎ出した。
強い風がごうと吹き抜け、道路に積もった枯葉が舞い散らされた。アスファルトが剥き出しになった坂道はあちこちヒビ割れ、そこかしこで様々な草が顔を覗かせている。道路の陥没に注意しながら、アガタは長い坂道を自転車で下っていった。午後の青空を回り込んで、どこか遠くからオートバイのエンジン音が聞こえてきた。それに気づいても、ブレーキをかけようとはせず、アガタはペダルを漕ぎ続けた。
平坦になった道を進むにつれて、道路の左右には巨木化した街路樹がずっしりと並び、下草が鬱蒼と蔓延るようになった。橋上や坂道では剥き出しだったアスファルトも、いつしか柔らかな腐葉土に覆われている。道路沿いには廃墟と化したビルが建ち並んでいるが、それも草木に隠されほとんど見えない。頭上は大きく伸びた枝葉にすっかり覆い尽くされ、まるで緑のトンネルの中を走っているようだった。
空の見えない道路を、せっせとペダルを漕いで進んで行くと、視界の隅で何かがきらりと光った。風景にそぐわぬ硬質な光に、アガタは思わずブレーキをかけていた。ペダルから片足を下ろし、街路樹の奥へ注意深い視線を向けてみたが、さっきの光はもう見えなかった。
「し……調べてみようかな」
そう呟いて自転車を降りると、足裏に柔らかな土の感触がした。アガタは前カゴに入れておいた藪漕ぎ用の鉈を手に取り、あちこち錆の浮いたガードレールを越えて、下草が密集した歩道へと踏み入った。
草を踏み分けながら二十メートルほど戻ると、その場所はすぐに分かった。
ビルの壁面に、骨董品店の看板が掲げられ、その一画だけ下草が綺麗に刈り取られている。ショーウィンドウの硝子も、一片の曇りもなく磨き上げられていた。照明の消された薄暗い店内に、木洩れ日が柔らかく射し込んでいる。その光の中で、一振りの日本刀が刀掛けに飾られていた。それは棒人間型のロボットが鍛えた無銘の刀だったが、抜身の日本刀を初めて目にしたアガタは、その硬質な美しさに思わず息を飲んでいた。
「こ、これ……欲しいなぁ……」
アガタは長い溜息を漏らすと、時間が経つのも忘れて、じっと日本刀に見入っていた。
陽が西に大きく傾き、梢や下草に濃い影が広がり始めた。繁茂した植物が気孔を開き、辺りに心地良い空気が満ちていく。気温が急速に下がり、ふと感じた肌寒さに、アガタはようやく我に返った。
「もう、行かなくちゃ」
日が暮れれば、辺りは完全な闇に包まれてしまうだろう。小さなLEDライトしか装備されていない自転車で、倒木があちこちに横たわる荒廃した道を走る。その行為に、かなりの危険が伴うのは明白だった。それを熟知するアガタは、ショーウィンドウの前を離れた。それでも骨董品店の入り口のノブに触れてみたのは、日本刀への未練からだった。だが、固く施錠されたドアに、開く気配は微塵も感じられなかった。
「泊まる場所を探さないと……」
そう言った声音に、微かに焦りの色が混じっている。アガタは足早に自転車の所へ戻ると、鉈を前カゴに放り込んだ。サドルに跨るのももどかしく、右脚に力を込めて、ぐいっとペダルを踏み込む。
柔らかな土のうねりにハンドルを取られないように注意しながら、巨大な街路樹のトンネルを進んでいく。信号の消えた交差点の真ん中で自転車を止め、アガタはLEDライトのスイッチを入れた。そこからわずかに見える夕暮れの空は、もうかなり暗くなっていた。
そこから三つ先の交差点を右折したのは、ほんの気紛れからだった。どこかに照明の点ったビルがないだろうか。周囲の様子に目を配りながら、しだいに闇が濃くなっていく緑のトンネルの中を、速度を落としてさらに進んで行く。すると、美しい歌声とそれに伴奏するピアノの旋律が、闇に紛れて幽かに聞こえてきた。
「行ってみよう」
声に出して決断し、アガタは歌声のする方へと自転車のハンドルを切った。
ガードレールと街路樹が途切れ、その奥に平坦な草むらが広がっていた。そこに太い柱が正方形に並び、ビルの二階より少し高い処に、平屋の建物が載っている。それは、かってはファミレスだった建物だが、錆びた鉄柱の上に掲げられた看板は、街路樹に遮られてほとんど見えなかった。
さっきのは、空耳だったのだろうか。歌声は、もう聞こえなくなっていた。ピアノの演奏だけが続いていて、その音はどうやら階上から聞こえてくるようだった。階段の下に自転車を停め、アガタは二階に当たる部分の窓を見上げた。
窓から漏れる光が、街路樹の葉裏を柔らかく照らし出している。その様子に、アガタはほっと息を吐き、前カゴに入れた鞄を手にした。二階へと続く階段の手摺りには、朽ちかけた看板がかけられ、『立入禁止』と書かれた文字が消えかけていた。それには気づかず、軽やかな足取りで階段を登っていく。
「こんばんは」
声をかけながら扉を押し開け、アガタは店内にざっと視線を走らせた。だが返事はなく、明るいフロアに棒人間型のロボットの姿も見当たらなかった。
「あれ、ロボットがいると思ったんだけど……」
呟きながら、アガタは店内へと足を踏み入れた。
入ってすぐ右側の壁際に、古びた木製の台が設置されていた。その上に、縦に長い箱型の装置が置かれている。箱は薄緑色で、その正面の上半分ほどに、黒色のパネルが嵌め込まれていた。黒いパネルの右上には硬貨の投入口があり、その下に十二個の押し
それは、かっては街のあちこちに設置されていた公衆電話だった。それを知る由もないアガタは、薄緑色の装置の前を素通りし、入り口の左側に設けられた客席の方へと進んでいった。
無人のフロアにカウンター席はなく、透明なアクリル板で仕切られたボックス席が等間隔で並び、奥の壁際にアップライトピアノが一台置かれている。その周辺にスピーカーの類は設置されておらず、音源はピアノの自動演奏だけのようだった。
「こんばんは」
右手奥の厨房へ向かって、アガタはもう一度呼びかけた。そのまま少し待ったてみたが、やはり反応はなかった。
アガタはゆっくりとフロアを横切り、ピアノに一番近い席に腰を下ろした。しっとりとした曲調の自動演奏にしばらく耳を傾け、鞄から弁当箱と水筒を取り出す。それらをテーブルに並べて置き、弁当箱の蓋を開けると、中には大きな握り飯が三つ入っている。
「いただきます」
アガタは両手を合わせ、握り飯を一つ取り上げると、細やかな夕食を摂り始めた。
握り飯を二つ残して、アガタは弁当箱の蓋を閉じた。水筒のお茶を一杯だけ飲み、それからアガタは、弁当箱と水筒を鞄に戻した。泊まれる所は見つけたが、ここに棒人間型のロボットはいなかった。稼働しているロボットを見つけるまで、手持ちの水や食料はできるだけ節約する。それは、アガタにとってはごく普通の心構えだった。
夕食を終えたアガタは、ボックス席のソファーにごろりと横になった。そのまま目を閉じると、ピアノの自動演奏が、さらにゆったりとした曲調へと変化していった。それに誘われるように、アガタは深い眠りへと落ちていった。
街路樹沿いの茂みで、虫が喧しいほどに鳴いている。その声を遮るように、ひゅうううぅと空気を切り裂く音がした。一瞬の静寂の後、轟音が大気を震わせ、夜空に光の花がぱっと咲いた。放射状に広がった光が、色とりどりの緩やかな弧を描き、ゆっくりと闇夜に消えていく。それは無人の海岸線で、夜毎に一発だけ打ち上げられる花火だった。
花火の音が窓ガラスを微かに震わせ、アガタははっと目を覚ました。だがその時には、もう手遅れだった。刺さるように高圧的な空気に、フロアは完全に支配されていた。アガタの吐く息が、無意識に震えている。その微かな振動が、漣のようにフロア中に広がっていく。そんな感覚に、アガタは思わず両手で口を覆っていた。
ソファーに横たわったまま、必死に息を殺していると、ソファーの合成皮革に何かが擦れる音がした。そこで何が起こっているのか。そちらへ目を向けなくても、アガタにははっきりと分かった。まるで見ているかのように、鮮明な映像がアガタの脳裏に流れ込んできたのだ。
銀色のマニキュアを塗った白い指が、こちら側の背凭れの上部を、ゆっくりと這い撫でている。背中合わせに置かれたソファーの間には、透明な仕切り板が設置されていた。向こう側から、そこに触れられるはずがない。それなのに、白い指はソファーの背凭れを軽く掴んだ。その指先が合成皮革に軽く喰い込み、明るい髪色の女がぬっと顔を現した。女は微笑みながら透明板を擦り抜け、そのまま大きく身を乗り出すと、前屈みになってこちらを覗き込んできた。
女の視線が、自分の上にひたと据えられている。それを感じて、アガタはぎゅっと目を閉じた。
「ここだったのね」
ねっとりとした女の声が、アガタの耳元に絡みついた。
「下に自転車があったから、誰かいるだろうと思ったのよ」
耳元で囁く声を、アガタは必死に無視した。
僕はアガタだ。僕はアガタだ。僕はアガタだ…… 頭の中で、アガタは自分の名前を七度唱えた。それだけが、この
女のぬらつく視線が、アガタの肩から頸筋へと這い上がり、柔らかな頬を撫で上げていく。
「可愛い坊やねぇ。後で、ゆっくり遊びましょう」
くつくつと艶やかに笑い、女の気配がするりと遠ざかっていく。
「に……逃げなくちゃ」
誰にも聞こえないような小声で言い、アガタは恐る恐る目を開いた。
「逃げ……なくちゃ」
自分を励ますように繰り返し、必死に息を吐き出した。どのみち女には見つかっているし、ここから脱出するには、周囲の状況を把握しなければならない。アガタはふらつきながら上体を起こすと、ソファーの背凭れから目だけを覗かせて、恐る恐る店内に視線を巡らせた。
入口近くのボックス席に、数人の男女が座っているのが見えた。
奥側のソファー席に男が一人座り、その両隣で二人の女が
ありえない光景に、アガタはごくりと生唾を飲み込んだ。アガタから見える女達の顔は、みんなそっくり同じだった。
「ねぇ、わたしを見て」
透明な仕切り板と三列のボックス席に隔てられ、女の声が聞こえるはずがない。それなのに女の吐息を耳元に感じて、アガタはびくっと首を竦めた。
「ねぇ」
女達の白い手が伸び、男の肌の露出した部分に、さわさわさわさわと触れていく。
「わたしと、もっと愉しんでよ」
女の言葉と白い腕が、男の全身に絡みついていく。それに反応したのか、男は両頬を強張らせ、眉間に深い皺を刻んだ。
「なあ」
男が発した言葉はそれだけだったが、
−苛々するんだよ。
その言葉の先が、アガタの脳裏に鋭く突き刺さった。
アガタはびくりと身体を震わせ、声を拒もうと両手で耳を覆った。それにも拘らず、
「なあ」
指の隙間を擦り抜け、男の声がはっきりと聞こえてきた。
−消えちまえよ。
アガタの頭の中で、男の憎悪がどす黒く渦巻いていく。
「なあ……」
頭の中で響く男の声が途切れ、ふいに乾いた銃声がフロアに響いた。椅子席の女が飛び出さんばかりに大きく目を見開き、残りの三人の姿がふっと掻き消えた。それに驚く風もなく、男がゆっくりと立ち上がると、その手には小口径の回転式拳銃が握られていた。
「分からなかっただろう」
男が銃を上げ、女の胸元にぴたりと狙いを定めた。
「何百発も撃ったからなぁ。もう意識しなくても、撃てるんだよ」
そう言って、にたりと笑った男の目は、ぎらつく狂気を孕んでいる。
ふいに恐慌をきたし、女が悲鳴を上げた。椅子を倒して立ち上がり、男から逃れようと、乱れた足取りでボックス席から離れていく。脇腹を押さえた手の下で、女の服にじわりと血が滲んでいく。その後を追って、ボックス席に挟まれた通路に男が出てきた。
「やめて……」
女の懇願を無視して、二発目の銃声が店内に轟いた。通りに面した大きな窓ガラスに、ぴしりと小さな穴が穿たれ、放射状のヒビが広がった。
「じっとしてろよ。当たらねぇだろうが」
男の怒鳴り声に追われ、引き摺るような足音が、ボックス席を回り込んできた。荒い息をした女が、顔を歪ませてアガタの方へと逃げてくる。
「助けて……」
アガタへと手を伸ばす女からは、さっきまでの高圧的な気配は完全に消え去っていた。
女の背後で、男が両手で拳銃を構えた。
「危ないっ」
アガタが思わずかけた声に、女がその場にしゃがみ込んだ。同時に、連続した銃声がアガタの耳を劈いた。
「うっ」
呻き声を漏らしたアガタの胸元に、赤い染みがぽつりぽつりと広がっていく。
アガタの身体が、力無くソファーの上に倒れ込んだ。痛みに滲む視界の中で、男が銃のシリンダーを開き、薬莢をばらばらと床に落とした。苛つきながらポケットを弄り、銃弾をシリンダーに籠めていく。その間に立ち上がった女が、アガタの前をふらつく足取りで通り過ぎ、厨房の方へと逃げていった。
「どこ行きやがった」
装填を終えた男が怒鳴り、女の姿を捜し求めて、店内に素早く視線を走らせていく。その視線が、入口のドアでぴたりと止まった。
「なんだ、おまえ」
店の入口から、しなやかな身ごなしで若い女が入ってきた。長い髪をアップで束ねた女は、腰に改造したガンベルトを巻き、そこに一振りの日本刀を落とし差しにしている。
「なんだよ、おまえ」
興奮した男が、唾を飛ばしながら喚いた。
「あたしは、コウカ。警察だよ」
そう言った女の左耳で、短冊型のピアスが揺れた。黒く小さな短冊の真ん中には、金色の菊花紋があしらわれている。
「警察ぅ、なんだそりゃ」
初めて耳にした単語に、男は首を傾げて見せた。
「銃を下ろしなさい」
男に命じながら、コウカと名乗った女が、滑らかな足取りで男に歩み寄っていく。
アガタの視界に姿を現したコウカは、日本刀の柄に右手をかけていた。
「苛々させんなよ」
「銃を下ろしなさい」
「近づくんじゃねぇ」
怒鳴りながら、男が銃口をコウカに向けた。その刹那、コウカの腰の日本刀が一閃し、銃を握る男の腕をすぱっと斬り飛ばした。
鮮やかな弧を描いた刀の切っ尖を、それを振るうコウカの所作を、死の淵に瀕しながらアガタは美しいと思った。あの骨董品店で日本刀に見惚れていたように、彼女の技をもっと見ていたかった。それなのにコウカは日本刀をからりと捨て、アガタの元へと駆け寄ってきた。
「大丈夫、きっと助かるよ」
声をかけながら、コウカはアガタの傷口に手を当て、圧迫止血を試みた。
「頑張るんだよ。すぐにロボットが来るからね」
その言葉に誘われるように、複数の固い足音がどかどかと店に踏み込んで来た。
「こっちだよ」
そう言ったコウカの瞳には、後悔が色濃く滲んでいる。
一塊になって突入してきた棒人間型のロボットは、その内のニ体がアガタの応急手当てに向かい、残りの四体が厨房へと突進していった。近づいてくるはずのロボットの足音が、なぜかしだいに遠くなっていく。傷口を押さえるコウカの掌を温かく感じながら、アガタは急速に意識を失っていった。
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