9 別れ

 その日は、特段寒い冬の日だった。浦島は弟の三郎太の自室へ向かった。


「開けるぞ」


 外の空気の冷たさとは打って変わって、室内はほどよく温められていた。


「兄さん」


 姿を見せた浦島に笑顔を向けた三郎太の顔には、再会した頃よりも多くのしわが刻まれている。


 三郎太は、百歳に近くなっていた。寝込むことも多くあり、今日も床についている。そんな三郎太が自分の病床に浦島を呼び出した。ここに現れる前に、浦島は覚悟を決めていた。


「どうした、三郎太」


 浦島は、布団に横たわる三郎太の頭側にしゃがみこみ、できる限りやさしく問いかける。

 あれほど生命の力にあふれていた三郎太が、骨が浮き上がり、自身で起き上がることもままならなくなった姿を、浦島はぼんやりと見つめた。


(もう、にーちゃんと呼んでくれることはないんだな)


 本来、そんな呼び方をする歳ではなかったのに、浦島と再会した直後に呼びかけてくれたことが例外であることは知っている。

 それでも、いまだ背丈も変わらない浦島よりはるかに生き、歳を重ねた弟の姿を、記憶にある幼い三郎太と重ねて見てしまうのは兄のさがにほかならなかった。


「何か、欲しいものがあるのか」

「まあ、そうだね」


 三郎太はじゅうぶん長く生きた。他の弟妹も長生きだったが、十年前には他界しているのを考えれば、長寿だった。

 主治医にはもうすぐ峠がくるだろうと言われている。しかし、三郎太の意識ははっきりしており、浦島との会話にも支障はないほどだった。


「なんだ? なんでも言ってくれ。俺は、お前のためだったらなんだってしてやる」


 浦島は言葉通り、弟の最後の頼みなら、何でも聞いてやるつもりだった。

 もし身体に悪いと避けられていた揚げ物を無心されれば、三郎太の家族の反対を押し切って台所で肉を揚げただろう。

 亡き三郎太の妻が遺品として残している三郎太の恥ずかしい恋文を、子どもたちには内密に遠い山に隠してほしいというのなら。この極寒の季節でも、浦島は国で一番とも言われる山に登ったろう。

 しかし、三郎太の願いは違った。


「兄さん、もう、好きに生きていいんだよ」

「な……」


 思いもしなかった言葉が三郎太から放たれ、浦島は目を見張った。うまく返事ができず、唇が震える。

 三郎太は、そんな兄の様子をやわらかい視線で見つめていた。

 何度か口を開閉させて、ようやく、浦島は言葉を口にした。


「三郎太、俺は……勝手なやつだ。竜宮城に行っていた間だって遊んでいたようなものだ。その末に両親の死に目には会えず、お前たち弟妹にも苦労をかけた兄の、どこが好きに生きてないように見える?」


 三郎太が笑う。


「兄さんにとってはたった一年ほどだったんでしょう? それをまた責めてどうするの」

「それでも、お前たちの苦しみを少しでも減らすことができたはずだ。家をほっぽっていなければ……」


 三郎太の手が布団の中から持ち上げられる。乾いた手が、浦島の頬に添えられる。


「僕は、ひどいことをいうよ。兄さんがいたとしても、姉さんはあの家に嫁に出されていたし、次一郎兄さんも遠い地に働きに出るしかなかっただろう。それくらい、あの冬はひどかった」


 三郎太は、皺の増えた老いた顔の中でも光る、冷静な目を浦島に向けた。

 浦島は、何かを言葉にしようとして、結局口を閉じた。


 浦島が姿を消してから数年後の冬の光景を、浦島はその目で見たわけではない。だが、浦島がいれば代わってやれたこと、変えられたこともあったのではないかなどと、様々な可能性が思い浮かぶ。


「兄さん、過去は変えられないよ」


 三郎太は浦島の葛藤をすべて見透かしているようだった。

 浦島が想像で口にするそれらはすべて、もしかしたらの妄想でしかない。浦島がいない七十年間を生きた人間の言葉より、重くなることはない。


「罪悪感があるだろう、僕たちに」


 浦島の心を言い当てる。


「僕ら家族は、けっして、兄さんの枷になりたいわけじゃない」

「三郎太。俺はそんなこと思っていない」


 浦島の頬を涙が伝わる。三郎太がそれをぬぐいながら、「兄さん」とまた呼びかけた。


「父さん達だって、兄さんにもう一度会いたかっただろう。でも、父さんたちは、兄さんがどこでもいいから幸せに生きてさえいればそれでよかったんだよ」


 どんどん背中をまるめ、小さな子どものようにうずくまる浦島を、三郎太の手が撫でる。


「だからね。兄さんが海の底で、乙姫さまだったり、海のかたがたに囲まれて過ごしていたと聞いて、本当によかったと思ったんだ。兄さんがどこか冷たい場所で、一人きりじゃなかったんだって……」


 浦島は、横たわる三郎太にすがりついた。


「結局、陸に戻ってから二十年近くたっても、兄さんは若いままだったね。死ぬ前に、原因を探り当ててあげられなかったことが、心残りではあるけれど……」


 浦島は必死に首を振った。


 三郎太は、自身の会社の伝手などを使い、浦島の老いない体のことや竜宮城の調査に協力してくれていた。結局、何も結果は得られなかった。浦島はまだ竜宮城に向かったときと変わらない姿をしている。


 しかし、今の浦島には些細なことだった。


「そんなことどうでもいい。そんなことを言うなら、死ぬな」


 三郎太がかすれた声で笑う。


「無茶を言うなよ、兄さん。……そうだなあ、やりたいことがどうしても思いつかないなら、兄さんが生きている間は僕の子どもや孫たちの面倒を見てやってほしいな」


 淡々と、三郎太がいなくなった後の世界のことを語る。

 三郎太は、浦島よりもよっぽど大人で、兄弟全員を看取る兄のその後のことをひどく案じているようだった。


「面をあげて。ちゃんと顔を見せてよ」


 浦島は泣きはらした顔を見られたくなかったが、その声に従わないわけにはいかなかった。顔を上げた先で、三郎太がほほえんでいる。


「三郎太……」

「兄さん、幸せに」


 三郎太の笑みにまた涙しそうになりながら、浦島も無理やり口角を上げ、弟の顔を見つめる。


「幸せだよ……本当に、じゅうぶんすぎるほど」

「そっか」


 しばらく、ふたりの間に言葉はなかった。窓の外で、木枯らしが木々を揺らす。

 浦島は、涙をぬぐって立ちあがった。


「もう行くよ。俺だけでお前を独占していては、怒られてしまうから」

「はは、そうだね。こどもたちを、呼んでくれる?」

「もちろん」


 三郎太に見送られて部屋の外に出る。


「おじさん」


 三郎太の孫の一人がそばに控えていた。


「もういいんですか」

「ああ」


 孫の目元はひどく赤くなっている。その理由は、冬の寒さだけではないだろう。


(三郎太は、よく愛されている)


 三郎太だけではない。旅で多くの人と縁を手にした次一郎も、嫁に出た先で家族を得た一子もだ。浦島が、その事実にどれだけ救われたことか。


「俺との話は終わったよ。ありがとう。みんなを呼んでやってくれ」


 浦島の言葉に、孫はこくりと頷いた。他の子どもたちが待っている大広間に駆けていく。

 浦島はひとり、もう一度、三郎太が休む部屋のほうに向き直った。


「じゃあな、三郎太」


 部屋の外で、浦島は小さな声でこぼす。

 三郎太の子どもたちに顔を合わせる前に、早足でその場を離れた。

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