浦島は老いなかった
一途彩士
1章
めでたしではない前日譚
前略。
亀を助けた浦島太郎は竜宮城で、乙姫さまやそこに仕える魚たちに贅を尽くしてもてなされましたが、そろそろおいとますることになりました。
「じゃあな、乙姫さん。楽しかったぜ」
「浦島さま……」
乙姫さまは、浦島の手をそっと握りました。それにどれほどの勇気がいったか、一年ほどの付き合いである浦島にも感じ取れました。
乙姫さまは、人のような姿形をしていますが、足の方に魚のうろこが生えております。
そのうろこが光を反射してきらめくさまが、まるで涙を流しているようでした。
「やはり、帰るのはお待ち下さいませんか、浦島さま。もう少し、あともう少しだけでいいのです」
乙姫さまの健気な言葉に、浦島の心は傾きましたが、陸にいる家族のことを思うと、これ以上長居はできません。
後ろ髪引かれる思いを断ち切り、首を横に振りました。
「そうは言うがな、乙姫さん。気づけばもう一年近く経つだろう? もともとそこまで長居するつもりはなかったんだ」
「そう、ですよね……」
乙姫さまは、傷ついたような表情を浮かべました。
「俺は陸に、おっとうたちを残してきている。俺は亀のかめ吉さんを、少々いたずら好きなガキどもから助けただけだ。これ以上、竜宮城で過ごすなんて贅沢をしていたらバチが当たっちまうよ」
ありがとうな、と浦島は、自分よりも頭一つ分小さい乙姫さまの頭に手を乗せます。
乙姫さまはうつむきました。乙姫さまの小さな拳が、うろこが薄くついた足の前で握られています。
「おっと、お姫さんにすることじゃあ、なかったな」
ぱっと、浦島は乙姫の頭から手を離した。
「……ではせめて、これをお持ちください」
乙姫さまの声を合図に、お付きの魚が、黒光りした箱を浦島の前に差し出します。
「ほう、これは。立派なものだな」
「玉手箱でございます。ぜひお持ち帰りください。ですが、帰ってすぐに開けてはなりません」
「え? どうしてだ」
「どうしてもでございます。開けてもいいときが来れば、わかりますから」
「だが……」
乙姫さまの要求に対する浦島の疑問はもっともでした。
「それまではこれを……えっと……私だと思って肌身はなさずお持ちください……」
「……」
「お願いします。乙姫さいごのお願いです」
浦島はいまだ困惑していましたが、乙姫さまのすがるような懇願がかわいく……いえ、お付きの魚類たちの目が険しくなっていくのを感じて、玉手箱を持って帰ることにしました。
「姫さんの最後のわがままだ、しかと受け取った」
「わがままだなんて子どものような……」
乙姫さまが頬を膨れさせる姿を、浦島は愛おしげに笑って見つめました。
しかし、別れのときは、ふたりの元に無情にもやってきます。
「さようなら、浦島さま。さようなら……」
亀の背に乗った浦島太郎は、かすかに聞こえてくる見送りの挨拶に片手を上げて応えました。
そして、浦島太郎は無事陸へ戻ることができました。
「達者でなあ」
砂浜に下ろしてくれた送迎の亀に礼を言い、浦島は故郷の村があるほうを目指します。
しかし……。
「どこだ、ここは」
はたしてそこには、浦島の見知らぬ景色が広がっていました。
玉手箱を抱えたまま辺りを散策します。気が急いで駆け足になり、最後には息が切れるほどに走り回りました。
それでもここに、浦島が知るものはありませんでした。
家は? 村は? 家族は?
辺り一面、様変わりした景色に、浦島はおののきました。
道行く人々は、浦島を奇妙なもののように見て通り過ぎていきます。浦島も、彼らの身なりがどうやら自分の知るものとは違うことに気が付きました。
たまに話しかけてくる人もいましたが、いまいち言葉が通じません。
辺りが暗くなってきても、浦島は故郷の手がかりを見つけることはできませんでした。
玉手箱を抱え直し、亀と別れた砂浜に戻った浦島は、ぼうっと海を眺めていると、はたと思い当たることがありました。
夜を、久しぶりに見たと。
亀に連れられ訪れた竜宮城は深い海の底にありました。場所によっては夜のように暗いですが、竜宮城は輝かんばかりに存在していました。
そこでもてなされていた浦島は、竜宮城で過ごした時間感覚がおかしくなっていました。それでも、浦島が竜宮城で過ごした時間は長くても一年間ほどだと思っていました。
感覚が鈍った浦島に、陸の上の正しい時間の流れがわかるでしょうか。
あまりに様変わりしていた世界と、海のなかで生活しておきながら成長一つ見せない自分の身体、思い当たることはたくさんあります。
陸の時間と海の時間は違うのではないでしょうか。
それならば、この世界にはもう、家族はいないのかもしれません。みな、浦島が見送れぬまま、はるか遠い空の上へ行ってしまったのでは。
「ああ……」
そこまで考えた浦島は、押さえきれなかったうめき声を口から漏らします。
空の色が完全に変わるまで、浦島は自分の足元の砂浜の色を変え続けました。
そうしていくらか気分が落ち着いた浦島は、ようやく、手元にあった玉手箱の存在に思い至りました。
『帰ってすぐに開けてはなりません』
乙姫さまからのお願いが、頭によぎります。
浦島は、乾いた笑いを吐き出しました。
「悪いな、乙姫さん」
あんなにかわいらしく別れがたかった乙姫さまも、今の浦島にとっては、自分から家族を奪った相手といっても過言ではありませんでした。
その相手との約束を守るほど、浦島はお人好しはありません。
陸に戻ってすぐの現在に、玉手箱を開けてしまって何が起きようと、浦島にとってはどうでもいいことでした。
浦島は玉手箱の蓋に、両の手をかけました。
すると箱と蓋の間にできたすきまから、煙がもれ始め……。
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