三十五本目:闇

「──八咲ッ!」


 息を切らしながら、紙を破くかのような声を上げて病室の扉を開ける。ここに来るまでに何人もの看護師に走るなと注意されたが、そのすべてを無視した。


 一秒でも早く、病院へ運ばれた八咲の容態を知りたかったから。


 嫌な予感がずっと胸の中を渦巻いていた。恐怖と不安と緊張が僕の呼吸を蝕み、喉から焼けるような唾液を生んだ。無理やり飲み込んで重たい戸を開けると、僕の視界に飛び込んできたのは──、


「なんだね、達桐じゃないか。そんな汗だくになってどうしたんだね」


 上体を起こし、ケロッとした表情で呆れたように笑う八咲の姿だった。


「お、おまえ……大丈夫、なのか?」

「大丈夫だとも。ちょっと足首を嫌な方向に捩じっただけさ。まったく、大袈裟なのだよ」


 八咲が白いシーツをまくり上げる。確かに右足首に包帯が巻かれていた。


「まぁ捻り方が悪かったのか、医者からは絶対安静だと言われているよ。いやぁ、残念だ。あのまま試合を続けていたら、間違いなく勝てただろうに」


 あっけらかんとした笑みを浮かべて、強気な発言をする八咲。このどこか飄々とした話し方は普段の八咲だ。ということは、八咲の言う通り、ただの捻挫? 


 本当に捻挫なら、それに越したことはない。でも、僕の脳の奥から焦げたような痛みを感じるのは何故だろうか。


 捻挫だ。何ともない。いや違う。

 じゃあこれまでの違和感に説明がつかない、説明なんかつかなくていいだろう。

 今目の前にいる八咲が無事なんだから。


 ……本当に、無事だと思うか?


「──」


 背中が、ぞっとした。底知れぬ恐怖が、一気に押し寄せてきた。

 八咲、と名前を呼ぼうとした。だけど、呼ぶなと本能が警鐘を鳴らした。押し殺せ。触れるな。立ち入るな。そこから先は、本当の意味で取り返しがつかない──。


「沙耶ァッ!」


 瞬間、僕の背後で雷のような音が鳴った。誰かが扉を思い切り開け放つ音だった。

 振り返るとそこには、形容しがたいほど表情を歪めた刀哉がいた。


 その表情は、まるで怒りと後悔と悲しみをぐちゃぐちゃになるまで混ぜ合わせたような。


「な、なんだね刀哉まで。そんな声を荒げて」


 八咲が引き攣ったような表情で刀哉を諫めようとするが、


「うるせぇッ! 沙耶おまえ、俺たちにとんでもねぇこと隠してんだろ!」

「何を言っている? 私と君の仲だぞ。そんなもの、あるはずが」

「とぼけんのも大概にしろよテメェッ!」


 叫ぶと同時、刀哉がカバンを床に叩き付けた。

 空気を痺れさせる怒号と大きな音の直後、時間が止まったかのような静寂が訪れる。聞こえるのは、僅かにベッドで後ずさる八咲の音と、刀哉の荒い呼吸音。


「ど、どうしたんだ。らしくないぞ、落ち着き給えよ……」


 八咲が怯えているのが分かる。無理もない。いつも楽しそうにしている刀哉が、こんなに取り乱した声を上げるのは僕だって知らない。


「俺は、おまえが病弱だってのは桜先生から聞いてた。だけど、それはあくまで病弱、喘息がしょっちゅう出るくらいにしか聞いてなかった」


「そ、そうだとも。私はか弱い。君にも話しただろう? だから君も心配をしてくれていたんじゃあないか、違うのかい?」


「違わねぇよ。俺はそんなおまえを心配してた。けどなぁッッ!」


 ──直感が警鐘を鳴らす。これ以上を聞いてはならないと。今すぐこの病室から逃げ出して、一秒後に襲来する残酷な現実から目を背けろと。


 だけど、動かなかった。頭では即座に逃げろと言っていても、体がそれを許してはくれなかった。


「まさか、君は」


 八咲がぎょっと目を見開いた。世界の時間が停止した。

 今まで平穏だった世界が、ただ仮初めの平和でしかなかった事実に気づく瞬間のように。


 そして、自分たちを守っていた幻想が決壊し、絶望が押し寄せて来る直前のように。


 僕は、世界は、知る。知ってしまう。一人の少女の──闇を。


「偶然聞いちまったんだよ。おまえを昔から担当してる看護師から!」


 刀哉は息を吸う。そこから零れる激情の言葉を、八咲は察していたのだろう。

 それでいて、止めなかった。来るべき時が来たのだと、自らの運命を受け入れるように。





「おまえは、心臓の病を、生まれた時から抱えてるって……ッ!

 去年の五月の時点で、あと余命が一年しかなかったってことをなぁッ!」





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