三十四本目:がしゃん、という

 大会が始まった。五代部長と副部長の高木先輩は男子の部で善戦したが、高木先輩がベスト16で敗れ、五代部長は準決勝で時間切れの一本負けとなった。しかし、続く三位決定戦には勝利し、全国大会への切符を勝ち取った。


 女子の部になり、八咲の試合が始まった。


 僕が大会前に抱いていた不安を吹き飛ばすように、八咲は破竹の勢いで勝ち上がっていく。試合時間は全て二十秒もかかっていない。まるで玄関を通過するかのように、各校を代表する猛者を蹴散らしていく。


 八咲に敗れた相手は呆然としているようだった。魂を抜かれたように、朧げな足取りと挙動で会場を去っていく。

 試合を熟すたびに八咲は集中を増しているように見えた。見る者全てを虜にする魔性の剣は、勝ち残った人数が少なくなればなるほど、会場の観客の視線を引き寄せた。


 八咲が準決勝を制した。完膚なきまでの二本勝ち。会場からは八咲の剣風に心を奪われて何者なんだと囁く声が上がっていた。誰もが八咲に関心を寄せる。


 きっと予想を立てているだろう。あんなに強い剣士はこうだ、あんな剣を振るう彼女はきっとこうに違いない。そんな自分勝手な幻想を八咲に強いるのだ。


 関心を寄せたところで、誰も、八咲の本質を理解しようとはしない。

 勝ち上がれば勝ち上がるほど、会場に残る人間は減っていく。登り詰めれば登り詰めるほど、周囲に人はいなくなる。つまり──孤独に近づいていく。


 決勝。試合場は中央に限定される。出場した剣士たちも試合の邪魔にならない位置で円を作るように着座して見守っていた。仕切られた白線の内側は、選ばれた人間のみが入ることを許された別世界。僕たちとは分かたれた次元に、領域に、八咲は足を踏み入れた。


 頂上に登る人間の隣に、いったい誰が寄り添えようか。

 孤高を手に掛ける存在の魂を、いったい誰が分かってやれるというのか。


 私の剣を理解できた人はいない──大会直前、八咲はそう言った。


 僕が大会前に感じていた不安はこれだった。いっしょに団子を食べた。剣道をした。ゲームをした。ピザをつまんだ。月を見上げた。そこで覗かせていた笑顔、怒り顔、真面目な顔、透き通った瞳。少しは八咲を理解できたと思っていた。それでも──届かない。届かないということは、理解できないということだ。


 だから、僕は渇望した。彼女のことを知りたいと。


 彼女の剣から目が離せない。立ち姿は一枚の絵画のように完成されている。面から覗く黒髪が、打突する度に踊った。空気を切り裂く彼女の足捌きは観客の呼吸を奪い、彼女の剣閃は僕たちからまばたきを奪った。余計な思考が斬り飛ばされる。全神経を八咲に注ぐ。


 しっかり見ていてくれ、だって? 見逃すはずがないだろう。

 これほど極上の剣を、どうやったら見逃せるというんだ。


 綺麗だ。誰もが八咲の構えに見惚れる。

 一糸乱れぬ相面。動作の始動から残心までの動きは、紛うことなき剣の舞。


 剣の神へ捧げる、神域の芸事だった。永遠に見ていたい。八咲の舞を、ずっと、ずっと。

 あの夜に心奪われた舞を、ずっと見ていたいと思ったんだ。


 ああ、そうか。確信した。僕は、八咲に──……。


 胸が高鳴る。頬が熱くなる。脳に血が集まっていく。のぼせていく。神秘がかった彼女の剣は、まるで太陽のように眩しい。誰もかれもが憧れる。手を伸ばしたくなる。


 もっとだ、もっと見たい。もっと彼女の剣を見て、彼女のことを知りたい。彼女の剣が好きだ。彼女の魂が好きだ。だから手を伸ばす。触れたい。知りたい。もっと。

 八咲が動く。彼女の打突を僕は一生忘れないだろう。時よ止まれ。どうかこの瞬間を、遠くから彼女の剣を眺めるこの瞬間を、憧れを、永遠に──。






 がしゃん、と心が引き裂かれるような音がした。





 

「え……」


 瞬間、何が起きたのか分からなかった。

 観客の心を奪っていった八咲の剣舞が、唐突に終わりを告げた。

 時間が停まる。静寂が会場を支配する。

 その中心で、立っている剣士が一人。


 八咲の決勝の相手だった。


 剣舞は、硝子が砕け散るような音と共に終わりを告げていた。

 八咲の手から零れた竹刀が、悲しそうに床を転がる。

 外の雨はいつの間にか嵐になり、僕たちの心を濡らしていった。



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