三十二本目:時よ止まれ、美しい彼女を永遠に

 心臓が痛いほど跳ね上がった。夜に溶ける三白眼の瞳、一本一本綺麗に反り返った睫毛。暗くても分かる、上気した頬。ワンピースだからか、視界の端の緩んだ胸元に目が吸い寄せられた。生唾を飲み込んだ。少しでも手を動かせば、僕の手は彼女の心臓──胸に。


「──という風に言えば、男子は本気にしたりするのだろうか?」

「んな……ッ」


 とたんにしたり顔へ切り替わる八咲。優雅に髪を靡かせて胸を張る。

 ちくしょう、やられた。いつもこうだ。掌で転がされて、最後は僕が歯を食いしばる羽目になる。こういう面ではもう一生勝てる気がしない。やっぱり八咲は暴君だ。


「いやぁ、やはり君はからかい甲斐があるな。おかげで団子が美味いぞ」


 八咲が満面の笑みで置いてあった団子をパクつく。僕は力が抜けて項垂れるだけだ。


「この……ホントに君は……」


 悔し紛れに悪態を吐く。呆れたような怒りが込み上げてきて、言葉が沈んでいった。何も言えなくなる。心の底から楽しいと言わんばかりの表情を浮かべる八咲を見ていたら、頭に浮かんだ暴言なんかどこかへ行ってしまった。


 こうして横顔を見ていると、本当に……あれほど強靭な剣を振るう剣士と同一人物とは思えないな。そんなことを考える。ふと、ある疑問が頭に浮かんだ。


「八咲は、どうして剣道を始めたんだ?」

「ん? なんだね、その風情の無い質問は」

「単純に気になったんだよ。君ほど強い剣士を見たことがない。なら、何がきっかけで剣道を始めたのか──気になるじゃないか」


 何か特別な理由なのか。それとも、意外とありきたりな理由なのか。


「……そういうのは、まず自分から話すべきではないかな?」


 ああ、そう来るか。八咲が探るような目線を向けてくる。

 僕が言わなければ、八咲も言ってくれなさそうな雰囲気だった。


「僕は……桜先生。あの人が全日本で活躍する姿を見て──憧れたんだ」


 先生。トラウマを患っても、決して見放さずに優しくしてくれた、僕の恩師。たまたまテレビでやっていた全日本選手権を見て、あの人の相面に心を奪われたのだ。今でも目に焼き付いている。


 子どもがメジャーリーグのスーパープレーを見て野球選手を夢見るのと同じように、僕にとってのスーパープレーは桜先生の相面だった。


 実は刀哉も同じ理由で剣道を始めた。だからお互い意識するようになったのかもしれないけれど。


 八咲の方を向くと、どこか噛み締めるように僕の話を聞いていた。


「なるほど。黒神 桜か。あの人が近くで剣道を教えていれば、至極当然、通いたくなるというものだ。素敵な理由じゃないか」

「僕は話したぞ。次は君の番だ」


 そう返すと、八咲はどこか力の抜けた表情で空を見上げ、


「……父親とのつながりを、感じていられる唯一のものが……剣道なんだ」


 さぁ、と。どこか湿り気を含んだ風が縁側に吹き込んできた。


「理由としては君と似ている。活躍する父を見て、私も憧れた。父のような剣を振りたい──その一心で、竹刀を振ってきた」

「大会とかには出ていたのか?」

「ああ。今だから分かる。強かった。全日本選手権も優勝していたしな」


「どえぇっ!」思わずオーバーな声を上げてしまった。


 八咲がそんな僕を見てクスリと笑う。

 そうか。八咲の強さの秘訣は、ここにあったのかもしれない。全日本選手権を制覇した剣士が親で、ずっと稽古をつけているのなら……。


「いつか、試合してるところとか、見れるかな」


 何気なくそう言った。しかし、八咲の目がどこか寂し気に垂れ下がり、


「いや、無理だ。私が中学生になる頃に、亡くなっているから」

「あ……」


 しまった。配慮の無い発言だ。口を手で覆う。八咲は「気にするな」と言ってくれた。


「記憶にあるのは父の剣道をする姿だけ。それ以外は……もうまともに覚えていないよ」


 いつも通りの声で淡々と話す八咲。しかし、どことなく言葉の端々に影が差す。


「母の記憶はない。私が物心ついた時には既に離婚をしていたらしいからな。養育費は振り込んでくれているらしいが、どこで何をしているか、もう分からない」


 だから思い入れも何もないよと、八咲は努めて明るく言った。

 八咲の髪が、ゆらりと、彼女の頬を撫でる。


「だから……男手一人で育ててくれた父とのつながりを保つために、私は剣道を続けているんだ。剣道をしていれば、父の姿を忘れずに済むから」

「そう、だったんだ……」


 僕や刀哉に出会う前の──もっと奥深いところにある、八咲の剣道の起源。

 今この瞬間にもつながっている、八咲の原点。


 父とのつながりを大事に語る八咲の表情は、数刻前の……今にも泣きそうな、されど、どこか優しく微笑んでいるような、そんな顔だった。

 だからだろう。僕の口から、こんな質問が飛び出したのは。


「八咲、さっきの言葉は……どういう意味なんだ?」


 『さっきの言葉』とは何か、言うまでもなかった。雰囲気を壊してしまうと分かっていたけれど、それでも聞きたかった。太陽よりも月が好き。その言葉の真意を。


 風が吹いた。芝が踊る。八咲と僕の髪を揺らした。八咲の団子を食べる手が止まった。悪戯がバレた子どものような表情を浮かべ、僕を見る。


「……言葉の通りの意味さ。私は、太陽よりも月が好きだ。だから今夜、君を呼んだんだ。私が好きなものを、君にも知ってほしかったから。そして……」

「僕も、月が好きだって?」

「ああ。きっとそうだと信じてる。私と君は──同じだから」


 同じ。僕と八咲が。そうだろうか。とてもじゃないがそうは思えない。

 八咲は強い。僕が出会った剣士の中で、一、二を争うほど。

 技術だけじゃない。何よりも心が強い。

 どんな強大な壁を相手にしても、彼女は決して屈さないから。


 でも、僕は弱い。弱いから、卑怯な真似をして親友を傷付け、トラウマを負い、絶望して、何度もみんなに迷惑をかけて。

 強い八咲と、弱い僕。同じなものか。とてもじゃないが──頷くことはできなかった。


 月が好きかと言われたら、どうだろう、嫌いではない。でも、どうしても、やっぱり太陽のような強い輝きに憧れる。より強い光に手を伸ばしたくなる。


 八咲のような強者なら、なおさらだろう。強い輝きに惹かれるはずだ。

 でも、八咲は月が好きだと言った。夜空に孤独に輝く月を、彼女は好きだと言った。


 どうしてだろう。分からない。太陽より好きというのが分からない。


「どうして、月の方が好きなの?」

「単純だよ。太陽は私にとって、眩しすぎるからさ」


 ? ますます分からない。でも、これだけは分かった。八咲は、さっき見せた幻想的な表情と同じ貌を浮かべていた。八咲は今、『何か』を見せている。


 刀哉にも、三年生たちの前でも見せなかった『何か』を、僕だけに見せている。

 何だろう。分からない。知りたい。八咲、君は今、何を考えている?


「私に太陽は似合わない」


 八咲が、縁側から腰を上げた。ワンピースの裾を翻し、芝生の上で踊り出す。

 いいや、それは踊りというより、舞だった。

 月影を一身に浴びながら、満天の夜空の下で、世にも美しい舞を披露する。


 世界は八咲と僕だけだった。

 月影のスポットライトが、彼女という幻想を照らし出す。


 舞う彼女と、観るだけの僕。

 世界は僕たち二人だけになった。

 僕と彼女だけの世界で、彼女は舞う。


 泣き出しそうな表情で、だけど、幸せそうな表情で。

 僕の網膜に焼き付けられる彼女の舞は、形容しがたいほど──綺麗で。


「そうだろう、達桐」


 凛、と。彼女の声が夜空に溶ける。

 矛盾した表情のまま、八咲は僕を見つめてそう言った。


「私たちに──太陽は似合わない」


 だから、月が好きと彼女は言う。月の儚い光こそが、私たちに相応しいだろう、と。




 ああ、そうか。八咲は太陽が嫌いなんじゃない。

 太陽に憧れ、恋焦がれているからこそ、太陽を遠ざけているのだ。




 己には相応しくないと。己が陽の光を浴びることなんぞ、とてもじゃないが烏滸がましいと。どうしてそう思うのかは分からないけど、その気持ちは分かってしまう。


 自分なんかが、太陽に触れるワケにはいかない。心が折れて、絶望し、負の塊となった自分が、太陽の光のような希望を穢してはいけない。だから太陽を遠ざける。


 認めよう。その通りだ。僕は──太陽から目を背ける。故に、月を選ぶ。

 だとしたら。もしも同じ理由で彼女が月を選ぶというのなら。

 彼女が僕の心をそこまで汲み取り、僕たちは同じだと言ったのなら。


「ああ……そうだね。僕たちに、太陽は似合わない」


 きっと、八咲は。

 八咲 沙耶という少女の、正体は。


「──」


 考えるのを止めた。それ以上は無粋だった。月影に捧げる彼女の舞に、これ以上の余計な思考を巡らせることは失礼にあたる。今はただ、心を蕩けさせればいい。


 どうか願う。時よ止まれ。美しい彼女を永遠にするために。

 この一瞬を魂に刻むために。時よ──止まってくれ。


 一枚の絵画のような、幻想的な光景。再び訪れることのない、甘美な時間。

 僕はこの時間を、一生忘れない。

 絶対に、忘れない。


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