三十一本目:皓々と照らす月の下で

 あの一件から、二人と会話をしていない。違うクラスで良かったと思う。稽古でも刀哉と相対しないようにするので精一杯だった。


 稽古後の片づけでも、僕たちは無言。刀哉と八咲が多少話すが、その会話に僕は入れない。申し訳なさを込めて、二人の背中を見ることしかできなかった。もう前のように楽しく話すことはできないのだろうか……。


 そう思っていた時だった。停滞してしまったこの状況に変化が起きた。


 大会の前日、稽古終わりのことだった。ちょうど家に着いたタイミングで、僕のスマホに一件の着信があった。覗いてみると──八咲からだった。心臓がどきりと跳ね上がる。


『もしよかったらだが、今夜、ここに来てくれないか』


 メッセージといっしょに送られてきた位置情報は──街の外れを差していた。

 八咲からこんな連絡は初めてだ。あの一件から会話をしていなかったから、唐突な連絡に心臓が加速する。どういう意図だろうか。


 ……でも、今ここで考えたところで、答えが出るはずもない。

 加速する心臓を抑えながら、『分かった』とだけ打った。




 

 ──皓々と照らす月の下。夜風で揺れる草の音色に耳を傾けながら、一時間ほど歩いた。


 時刻がちょうど二十一時を回ろうとしていた時、唐突にその場所は僕の目の前に現れた。寂れた道場だった。こんな街の外れのところに、道場があったのか。


 とは言っても、看板も出ていない。使われた形跡もほとんど見当たらない。八咲は何故、こんな場所を指定したのか。その答えは、きっと中にいる彼女が教えてくれるはずだ。


 心を落ち着かせるために、深呼吸を一つ入れる。そして敷地に足を踏み入れた。


「来たか、達桐。遠いところをすまなかったな」


 視界の外から声がした。驚いて首を向けると、八咲が縁側に腰を掛けて僕を見ていた。


 いつもの制服とか、道着とかではなく──真白のワンピースだった。彼女の白磁器のような肌と相まって、月明かりだけが注ぐ闇夜の中で彼女の姿は一層輝いていた。


 幻想じみていた。まるでこの世の存在ではないような。

 呼吸を忘れて、彼女を見つめた。


「こっちに来い。月を見よう。微かに満月ではないが、今夜は特別──綺麗だから」


 ──君といっしょに見たいんだ。


 八咲はそう言って、少しだけ横に動いてくれた。向けられる笑顔に違和感はない。八咲はあの一件に関して、僕に怒りを覚えていないのだろうか。


 とりあえず誘われるがまま、彼女の隣に腰を掛ける。脇には緑茶とみたらし団子。八咲の好みの組み合わせだった。食べるがいい。八咲がそう言って、一本つまんだ。なんか、コンビニの時と似ているな。


「あれ、そういえば、刀哉は?」


 コンビニで思い出しだ。あの時は刀哉もいた。でも、今回は僕だけだった。あれだけ仲が良ければ、てっきり誘っているのかと思っていたんだけど。


「おいおい、無粋なことを聞くもんじゃない。こういう時に異性の話題を出すのは、お互いマナー違反というものだぞ」


 呼んだのは君だけだ。そう最後に付け加えられた言葉は、僕の心臓を貫くには十分だった。刀哉ではなく、僕を呼んでくれた。僕だけを。その事実に心臓の鼓動が加速する。


「それに、あの一件から、あまり君たちが部活以外で会うのは避けた方がいいと思ってな」


 あの一件が何を指しているか、聞くまでもない。


「──ごめん」


 咄嗟に、謝罪を口にした。あまりにも軽すぎる、その場凌ぎの謝罪を。


「謝ることはない。仕方のないことだ。発破をかけて部長と戦い、それで克服できるのがもちろん最善策ではあったが……さすがにそこまで簡単なものではないのだろう」


 別に怒っているワケじゃない。八咲はそう言ってくれる。

 でも、僕の心に巣食う罪悪感は、根強く貼り付いたままだ。


「刀哉に対して、まだ何か思うところがあるのか?」


 八咲が尋ねてくるが、咄嗟に返すことができない。それが答えになると分かっていても。


「そうか。深くは聞かん。ただ……それが、君のトラウマの根幹なんだな」


 『弱さ』という、曝け出すのがあまりにも怖い、心の脆い箇所。打ち明けることはできない。失望されるのが怖いから。特に、八咲には──……。


「ほら、せっかくの団子だ。君も食べ給え」


 八咲が僕の方に団子を差し出してくる。

 ありがとう、とお礼を言って団子に手を伸ばす。

 どういたしまして、と八咲が笑顔で言った直後、胸を張って伸びをした。


 小さいながらも確かに膨らんでいる八咲の胸の形が目に入り、咄嗟に目を逸らす。


「こ、ここは、君の道場なの?」


 誤魔化すように、団子を一つ齧りながら尋ねる。


「ん? いや、違うぞ。ここは私の曽祖父の代から所有している道場だ」


 なるほど。だから古びていて、使われていない様子だったんだ。

 それにしても、やはりと言うべきか、八咲は剣道一家だったのか。


 一般の家庭なら、こんな道場なんて持ってるはずがないから。


「年頃の男女なら、もっと洒落た場所に誘うべきだったんだろうが、私はこんな誘い方しか知らんのだ。風情がないと言ってくれるなよ。これでも、恥じらってはいるんだからな」

「風情がない? とんでもない。風が気持ち良くて、月が綺麗で、素敵だよ」


 さらには、隣に君がいることだし──と言う勇気は出なかった。


「月見酒ならぬ、月見団子……すごく良いと思う」

「そうか、そう言ってくれるなら、呼んだ甲斐があったよ」


 八咲が髪をかき上げ、月を見上げる。三白眼に浮かぶ瞳が煌めく。何度も光が瞬き、やがて消える。艶やかな黒髪が、優しく降り注ぐ月影を存分に吸い込んで跳ね返す。月影が髪の中を泳いでいるようだ。一糸乱れぬ髪を微かに揺らし、八咲の美しい唇が開かれた。




「きっと君も、太陽より月が好きだと思ったから」




 ぽつり、と。八咲が小さな声でそう漏らした。聞き取れるかどうかギリギリの声だった。


 思わず「え?」と尋ねそうになったが、月を見上げる八咲の表情を見て何も言えなくなった。今にも泣きそうな、されど、どこか優しく微笑んでいるような。


 矛盾している。でも、そうとしか言いようがない。どこにも向かう先などなく、心の底に沈殿していた感情たちが形を保ったままかき混ぜられたような。


 悲しみも、喜びも、すべては溶け合うのではなく、くっついて抱きしめ合っている。


 月影に愛された妖精。

 幻想に見初められた少女。

 人間とは思えないほど美しい存在感に心を奪われた。

 触れたら消えてしまいそうな八咲の儚さが、僕の胸を締め付ける。


 ふぅ、と八咲が息を漏らした。目を閉じて、夜の匂いを吸い込んだ。

 そして、僕の方をゆっくりと見たと思ったら、困ったような笑みを浮かべて、


「実はな、柄になく緊張しているのだ。明日は全国に繋がる大会だ。私は一年生の身ながら、光栄なことに部の代表として個人戦に出る……その重圧のせいでな」


 目を見開く。驚いた。八咲でも緊張するのか。そんな普通の人間みたいな。いや、すっごく失礼かもしれないけど、八咲はこう……人間離れしてるというか、とんでもない精神力と度胸を兼ね備えているから、てっきり緊張なんてものとは無縁だと思ってた。


 そんな僕の思考は、あっさり読み取られてしまったようだった。八咲が頬を膨らませ、


「なんだね、その顔は。私だって人並みに緊張くらいするさ」

「いや……なんていうか、すごく予想外というか」

「おいおい、私を何だと思っている? 繊細でか弱い女子なんだぞ」


 どの口が言っているのか。裏手でツッコミを入れたくなった。


「三年生相手に真正面から啖呵を切れる女の子が、繊細でか弱いワケないだろ」

「いいや? あの時も実は内心すごく怯えていたぞ? 心臓がうるさかったよ。膝も笑いそうになるのをぐっと堪えていたのさ。本当だぞ」


 何故だろう、八咲が言うとただのいつもの軽口にしか聞こえない。あれほどの大立ち回りをした豪胆な女子がこんなことを言ったところで、単純に信じられないのだ。だからきっと、場を和ませるためのジョークなんだろうな。八咲という最強の女子が言えば「んなワケあるか」とツッコミをせざるを得ない。そういう会話だ。おどけているだけだろう。


「そうか、分かったよ。そうなんだな」


 だから、緊張しているというのもきっと冗談だ。


「む、信じていないな? なら私の胸を触って確かめてみるか? 別に構わんぞ」


 口に含んだ緑茶を吹き出しそうになった。何を言ってるんだコイツは。


「ゲホッ……バカッ! 冗談でもやりすぎだ。男子相手にそんなこと……」

「だから冗談ではないと言っているだろう」


 ずしり、と。急に言葉の力が増した。八咲は縁側に腰を掛けたまま、顔だけではなく、いつの間にか体まで僕の方に向けていた。顔が近い。下から上目づかいで覗き込んでくる。


「君なら、いいぞ」

「え……」


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