九本目:美しいよ、君の手は
「──なんだ八咲、知り合いか?」
八咲が僕に微笑みかけてから、少しだけ空気が沈黙した。しかし、野太い重低音の声がそれを破る。声の主は、五代 皇巳部長で間違いないだろう。
「おっと、稽古をつけてもらったのにすぐ挨拶に向かわないとは、とんだ失礼をしてしまった……申し訳ない、五代部長」
「なに、かまわん。俺はちゃんとした師範でもねぇんだから、かしこまる必要はない……それにしても、強いな八咲。最後の相面は完全に見切られた」
フ、と強面の顔が柔らかく緩む。
この人が五代 皇巳か。ガタイが良いとは思っていたが、そのガタイに似合う、岩石のような顔をした人だ。眉は力強く逆八の字になっており、口元もどこかへの字になって口角が下がっている気がする。それに目付きがすごく鋭い。あの目で睨まれたら恐怖で震え上がるだろう。色黒で、髪はツーブロックの短髪。まさに武道家のお手本のような相貌だ。
「それで、霧崎に連れてこられたおまえは? 俺は部長の五代 皇巳だ」
五代部長の視線がこちらに向く。鑑定するような目つきに晒されて、体に力が入る。
「五代さーん、コイツ、達桐 剣誠っていうんすわ。俺の幼馴染っす」
「ほう……ん、達桐?」
──ピク、と僕の中で一瞬だけ時間の止まる感覚がした。マズイ、この流れは。
「……霧崎、おまえ、ソイツに腕折られたんだろ」
ざぐり、と容赦のない一言が僕の心を斬りつけた。
「んー、まぁ。俺はそうは思ってないんすけど。とりあえずその話は置いときましょうや。今コイツはちょーっとナヨナヨしてっけど、いずれは最高に滾る剣道をしてくれますよ」
「またそれか、いい加減にしろよ刀──」
「うるせぇよボケ」
哉、と言い切る前に、僕の両頬は刀哉の大きな左手によって鷲掴みにされた。
「萎えること言ってんじゃねぇよ。俺がどんだけの地獄を踏み越えて戻ってきたと思ってんだ。すべてはおまえとケリを着けるためだ。俺の九ヶ月の努力を無にする気か? あ?」
左手を振り払う。クソ、顎が軋んだぞ。なんて握力してやがるコイツ……。
「トラウマ? 過去? それがどうした。そんな腐り切った根性なら、俺はおまえを一生許さねぇ。この腕を取り戻すのにかかった時間と、犠牲にしたもの全てを償ってもらうぞ」
……背筋が凍る目付きだった。ここで痛感する。当たり前の話だが、刀哉は手放しで僕を許しているワケではない。心の底では、ドス黒い感情が渦巻いているのだ。
ただ、二人で交わした『夢』を実現させるために、不必要な感情を表に出していないだけ。
だから、僕が剣道をやりたくないと言えば、刀哉はその感情を容赦なく滲ませる。
僕に拒否権がないというのは、そういうことだ。
正直、そんなこと知るかと言うこともできた。おまえの努力なんか知ったことかよ、と。でも、それを言ってしまえば、僕の中にある何か大事なものが壊れる気がした。それだけは言っちゃダメだ。絶対に……。
憶測だけど、憶測でしかないけれど、刀哉は僕の想像を絶する苦痛を乗り越えて、今ここにいるのだから。やるせない感情を握りしめて、俯くのが関の山だった。
沈黙が挟まる。外からは登校してくる生徒の明るい声が聞こえてくる。
床板が軋んだ。誰かが体重を乗せ換えた。
「達桐、本当に剣道部に入る気はないのか」
その時だった。凛とした声が沈黙を破った。誰かと思えば、八咲だった。
三白眼で上に寄った黒檀の瞳が僕をまっすぐに射抜く。
「あの試合は私も見ていた。どちらに非があるというものでもなかったよ。断言する。刀哉が気にしていないのだ。そこまで自分を責めなくてもいいだろう」
桜先生にも同じようなことを言われた。そうだ、その通りなんだよ。外から見たら、関係のない第三者から見たら、それが正論で普通なんだろうさ。
でも、そうじゃないんだ。僕だけしか知らない罪だ。卑怯にも刀哉の右腕に抱えている爆弾を狙ったという後悔──。
「……八咲は優しいんだね。でも──」
だから、こんな言葉で許されてはならないのだ。
「刀哉が好敵手なのだろう? ならば達桐、君には剣の才がある。それを腐らせるほど勿体ないことはないと思うが。私たちも協力する。トラウマを克服しようじゃないか」
八咲が髪を揺らしながら、音も立てずに僕の近くへ歩み寄る。
……にしては、ちょっと、近くないか。睫毛の一本一本まで見えるようだ。瞬きをするたびに、パチパチと音が聞こえてきそう。蝶の翅のように可憐だった。
稽古の直後だからか、仄かに頬が上気している。汗の雫が鎖骨を伝って、道着で隠されている慎ましき胸元へ吸い込まれていった。思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
「そうだぞ剣誠。何度も言ってるけど、いつまでもナヨナヨしてんなって。もう過去のことはどうでもいい。俺はおまえと決着をつけたい。『夢』を叶えたいだけだ」
刀哉の目を見ることができず、目線を逸らした。
外した視線の先には、八咲がいた。また距離が近い。少し仰け反った。
ずい、と上目遣いで僕の表情を窺ってきたと思ったら、手に何かが当たる感触が。
「ほら、本当に剣道を諦めているのなら、この手はいったいどういうことかな?」
八咲の手だった。僕の手を握り、掌をまじまじと見つめ出した。
「凄まじいマメだ。君がこれまで積み重ねてきた努力の痕が刻まれている。敬意を表すよ。君がどれだけ口では己の剣を否定していても、このマメが必死に君の剣を守っている」
「──」
どくん、と心臓が跳ねた。一瞬だけ、脳に電気が走って何かを思い出そうとする。
過去に、誰かとこうやって手を重ねたような、気が、する。
でも、ダメだった。脳を過った記憶は霞が掛かっていて、よく分からない。
そんな僕の思考を無視して、八咲の指が僕のマメをなぞる。触られて分かった。八咲の手も相当にボロボロだ。高校生の女子の手とは思えないほど、皮膚の固さと力強さが伝わってくる。小さくて細いのに、重々しい努力の痕跡が、僕から言葉を奪った。
「美しいよ、君の手は。だからこそ、失われてほしくないのだ」
八咲はずっと僕の手を優しく包んでくれていた。それだけで伝わってきた。心の底から、僕に再び剣道をしてほしいのだと。
出会ったばかりの子がここまで言ってくれるのは、正直戸惑いも大きいけど嬉しさが勝つ。認められたような気がして、壊れかけている心を包んでくれたような気がして、思わず涙がこみ上げてきそうになった。
「八咲……」
まっすぐに見つめる八咲の瞳が、嫌でも僕の視線を釘付けにした。綺麗だ。稽古後で火照った顔も、僕を見上げる三白眼も、すべてが整っている。
彼女が振るう剣を見た時、一瞬だけ期待した。八咲と剣を交わすことで、きっと希望が見えてくるんじゃないかと。
「──……」
でも、そんなことはありえない。今まで長い付き合いである桜先生がどれだけ手を尽くしてくれても、僕の壊れた剣が再び切れ味を取り戻すことはなかったのだ。
今日会ったばかりの人が、果たして何かを変えることなどできるはずがない。少し優しい言葉を投げかけてくれただけで、心まで揺れ動きそうになるな。甘えてはいけないのだ。僕の罪は、見知らぬ彼女に労わってもらっただけで赦されるものじゃないのだから。
「嬉しいよ……ありがとう。だけど、ダメなんだ。あの日から、どうしても誰かと稽古することができないんだ。稽古のできない部員なんて、いても邪魔なだけだろう」
「そんなことは──」と八咲が否定しようとしてくれたが、口を噤んだ。
気持ちは嬉しい。八咲は優しい子のようだ。しかし、稽古できない人間が稽古に参加するとなったら、八咲や刀哉はいいかもしれないが、部員たちはそう思わないだろう。
僕がいることで周囲に迷惑をかける。それほど息苦しいものはない。
だから、なんと言われようと、入部したくないのだ。
「……残念だよ、達桐」
「ごめん。軽蔑してくれ」
心底がっかりしたような表情を浮かべる八咲。見ていて心臓がズキリと跳ねた。初対面で優しく気遣ってくれた人に、こんな表情をさせてしまう自分がどうしようもなく嫌いだ。
「入部するもしないも、僕の自由でしょう? なら、今の僕はいるだけで部員に迷惑をかけてしまう。だから入部しません。これで失礼します」
しかし、この痛みと引き換えに、僕は金輪際この剣道部に関わらなくて済む。そう考えれば、締め付けるような苦しさでも耐えることもできた。
できるだけ人の顔を見ず、僕は足早に剣道場を立ち去った。
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