八本目:しゃらん、という煌びやかな音色

「よーし、着いたっと」


 階段を上りきったところで無造作に下ろされる。コンクリートで腰を打った。痛い。


 腰を擦りながら見上げると、目の前には剣道場。さすが運動に力を入れている高校なだけあって、重厚感あふれる様相だった。緑の鉄扉。その上に木の板が張り付けられている。書かれている言葉は『剣道場』。


 尻もちをついて見上げる形になっているせいか、やけに大きく見える。古めかしい造りは、周囲の部活棟とは一線を画する雰囲気を放っていた。


「知ってるか? ここの剣道部の部長さん……五代ごだい 皇巳おうみって人なんだけど、個人で県ベスト4らしいぜ。どんだけ強いか気になるよな」


「個人で? そりゃすごいな……」とリアクションを取ってしまったことが間違いだった。


 刀哉はにやり、といやらしい笑みを浮かべながら僕を見下ろし。


「だろ? 気になるだろ? んじゃ行くぞ剣道部。だーいじょぶだ。俺もも春休みから稽古してて顔見知りだから」

「待て。それとこれとは話が別──っふぐぁ」


 再びのヘッドロック。ギブアップのつもりで刀哉の腕を叩いていると。


「ぜぁああああ!」と、鉄の扉をも震わせかねない男の裂帛の声が奥から聞こえてきた。


 それに少し遅れて、ドン、ドドン、パン、パシン、と何か重たいものが床にぶつかるような音と、乾いた木と木が激しくぶつかるような音が聞こえてくる。稽古の音だ。


「お、やってるやってる! いいねぇ、テンション上がるねぇ!」


 刀哉が「頼もォう!」と扉を開けて中に入っていく。ここで踵を返して一目散に逃げるべきだろうが、そうすれば刀哉は絶対追いかけてくる。地の果てまで追ってくる。足の速さで僕に分があったのは中学までだ。今はどうか分からない。観念するしかなさそうだ。


 仕方ない。見るだけ見て、入部しなきゃいい。それだけの話だ。

 はぁ、とため息を漏らして刀哉の後に続く。


 その間に刀哉は道場への一礼──道場に入った時の礼儀──を済ませていた。僕もおじぎをし、中の稽古を見る。道場では二人の人物が剣を交わしていた。


 一人は背が高い……というか、ゴツイ。身長一八〇センチメートルくらいだが、全身を覆っている筋肉の厚みが、タダ者じゃないオーラを纏っている。


 対してもう一人はやたらと背が低い。一六〇センチメートルもないんじゃないか。それに華奢だ。あのような体格では、ガタイの大きい相手の人に軽く弾き飛ばされてしまうだろう。


 二人とも中段の構え……剣道においてもっとも基本的でもっとも有名な構えを取っているが、体格、リーチ、圧倒的な差がある。力も速度も相手にならないのではないか。


 体格が大きければ迫力も違う。滲み出る圧力も違う。必然的に、ガタイの大きい人の方に目が吸い寄せられる。そう思った。そう思っていたはずなのに、何故だ。


 ガタイの大きい人よりも、小さい人の構えに目が引き寄せられるのは。


「刀哉……五代部長っていう人は……小柄な方か?」


 隣に立つ刀哉に尋ねる。小柄な人の方が強いんじゃないかと思ってしまったから。


「ンなワケあるか。でけぇ方だよ」と刀哉は含みを持った笑みを浮かべながら返事をした。


 冷たい汗が背筋を伝うのを感じるのと同時、稽古の状況が動いた。

 緊張した空気に電気が奔ったかのような感覚。


 ──動く!


「「はぁあああああああああああッ!」」


 停止していた世界が、裂帛の気勢と共に動き出す。さながら弾丸。狼が跳躍するかのように、黒い道着が鋭く動く。両者が全く同じ打突を繰り出す。




 瞬間、小柄な剣士の打突から、確かに聞こえた。

 しゃらん、という煌びやかな音色。




 心の中で絶叫が炸裂した。言葉を忘れ、全細胞の咆哮が体内を埋め尽くす。

 痺れる。震える。脳天から爪先まで、射精したかのような快感が突き抜けた。

 何という美しい太刀か。あまりにも洗練された一撃だった。


「ハッ。相面あいめんの強さは流石だな。アレ打たせちゃアイツの右に出るヤツはいねぇわ」


 今のは相面という技だ。お互いが同時に面打ちを繰り出し、より中心を、より強く捉えられている方が勝利する。非常に単純な勝負。これも背が高い方が有利なのだが、小柄な剣士はそんな有利不利を覆して五代部長の面打ちを破った。


 ──都内ベスト4まで勝ち上がったという五代部長が負けた。


「なぁ、刀哉……あの小さい方、誰なんだ?」

「ん? アイツか? アイツはな──」


 小柄な剣士が振り返る。そこで、垂れに刻まれている名前が見えた。

 漢数字の『八』に、花が咲くの『咲』で、八咲。


八咲やつざき 沙耶さや


 やつざき さや。刀哉の告げた名前が僕の脳内で反響する。

 心臓の鼓動が加速する。その美しい六文字の音を、僕は何度も心の中で唱えていた。


 二人はお互いの開始線上にて蹲踞で竹刀を収め、三歩下がって礼をし、稽古を終える。

 八咲という名の垂を付けているその人物は、壁まですり足で歩き、正座をして竹刀を置く。小手を外し、面紐に手を掛ける。


 その間、僕の心臓はゆっくりと、だが確実に強く鼓動を立てていた。

 八咲という人物の一挙一動に目がいく。離せない。


 面が外れる。頭に巻かれている手拭いも外し、面の中に収められていた長い髪が露わになった。その髪は汗に濡れ、宝石のように輝いていた。綺麗だ。反射的にそう思った。頬に貼りつく髪も、三白眼の中に宿る墨のように黒い瞳も。これほど美しいと思える人に会ったことがない。


 まるで、硝子で出来た刀のように美しく──同時に、儚い。

 どうしてか、彼女を見た瞬間、僕はそう思った。


「八咲……沙耶」


 ぽそり、と名を呟いた。その呟きに、どういった感情を乗せたのか、自分でも分からない。唯一分かるのは、胸に去来した仄かな懐かしさ。どうして、過去のアルバムを眺めている時のような感情を抱いたのか──。


「俺と同じ中学だ。ワケあって大会とかには出てなかったけど、もしも出てたら全国出場──いや、全国制覇だって余裕だっただろうな」


 何だって?


「アイツ、冗談抜きでそれくらい強いんだよ。俺だってまともに一本取れたことねぇ……いや、一回だけあったわ。一回だけ」


 刀哉が? 勝つどころか一本すらロクに取れない? 嘘だろ?


「他人の方が強ぇだなんて言うのは癪だけど……沙耶は例外だ。プライドとか好き嫌いとかそんなもんどうでもよくなるくらい、沙耶の強さは次元が違う」


 再びの絶句。口を半開きにした状態で件の少女──八咲を見つめる。

 八咲は、少し荒い呼吸で胸を押さえながら深呼吸を繰り返す。何やら辛そうだが、やがて体力が戻ったのか、僕の方へ体を向けた。


「ん……? おや、刀哉じゃないか。朝稽古に遅れてくるとはいい度胸をしている」

「ワリィワリィ、ちょっと昔の友達と会ってよ。連れてくるのに手間取った」


 ヘッドロック。無理やり首を彼女の方に向けられる。


「君は……」

「は、初めまして。達桐 剣誠といいます」

「! そうか、君が……」


 僕の名前を聞いた瞬間、八咲の目許が柔らかくなったような気がした。こう、今まで生き別れていた家族と再会したかのような、そんな慈愛に満ちた微笑みだった。


 一般的に三白眼は凶相と言われるらしいが、彼女の眼にはそんな不吉さなんか感じさせなかった。それどころか、僕は予感していた。

 僕の中の『何か』が、鼓動を立てて加速しようとしているのを──。


「……初めまして。私は八咲 沙耶。こんなはしたない姿を見せて申し訳ない。刀哉と友達らしいな。そのデカブツが迷惑を掛けてないか?」

「現在進行形で掛けられてます……」


 八咲が首を絞められている僕を見る。髪を耳にかき上げながら、「それもそうだな」と小さく微笑んだ。触れれば崩れてしまいそうなほど儚く、可憐な笑顔だった。



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