三本目:トラウマ

「……ぐッ」


 どぐん、と停止していた心臓が目覚めたように跳ね上がり、体を内側から震え上がらせる。深呼吸から息を止めていた肺も、喘ぐように空気を欲する。


 ひゅ、という喉を掻き毟るような音と共に気管を干上がらせていった。体の汗腺という汗腺から冷たい、ぞっとするような汗が噴き出す。


 視界が歪むような錯覚を覚える。今この場で自分が両足を付いているのは床だ、間違いない……はずなのに、なぜこうも蛇が這いずるように蠢いているのだろうか。その歪んでいるように見える床から転げ落ちないよう、全身に力が籠る。


「──……誠、……け……君!」


 何か声が聞こえる、先生? 目の前にいる人物から、どこか必死な声が聞こえてくる。

 歪んだ視界の中で、何とかその人物を認識しようとした瞬間、


「──、あ」


 僕の目の前に、いるはずのないソイツが立っている。

 ソイツは剣道の道具を一式、身に付けている。中に道着を着込み、今まさに僕に向かって襲い掛かろうとしている。


 しかし、問題はそこではない。いるはずのない人間が見える錯覚が問題なのではない。何故ソイツは、右腕一本でしか竹刀を握っていないのか。


 理由など、初めてこの幻想を見た時から分かっていた。

 ソイツは左腕を動かすことができないからだ。


 面の奥にはぐしゃり、と激痛に歪んだ顔が張り付いている。

 ソイツは言う。血涙を流しながら、手を伸ばすように。


 ──よくも、よくも、許さない……呪ってやる……死ぬまで、壊れるまで……、


 力を入れ続けているはずなのに、僕の体はスイッチが切れたかのように崩れ落ち──、


「──剣誠君!」


 背中を叩かれて僕は意識を取り戻した。


「…………あ……刀、」

「違います。私です。先生です。よく見て。私ですよ」


 先生の声が脳裏に響くのと同時に、今まで歪んでいた視界が急速に形を正しく戻していく。少しずつ、だけど確実に、自分の視界の中に必死な形相を浮かべる先生が映る。


「大丈夫、ですか?」


 先生が僕の頭を抱えていた。息が荒い。心配してくれていたのだろう。

 嬉しい──と同時に、申し訳なさが目から溢れそうになる。

 震える腕で床を押し、正座をする。先生も合わせて姿勢を正した。


「……ずっと、こうなんです。竹刀を構えようとすると、こうやって……」


 心的外傷後ストレス障害……PTSDと、医者からは診断された。


「先生は、さっき、僕に全責任があるワケじゃないと、そう言ってくれました」


 唇が震える。喉が干上がる。涙が勝手に込み上げてきた。自分の犯した罪を吐き出す罪人は、みんなこんな気持ちなのだろうか。全身が恐怖に竦み、息が荒くなる。


「違うんです、先生」


 歯を食いしばる。胃の中をぶちまけたい衝動に駆られるが、どうにか飲み込んで、


「僕は、刀哉の右肘を、狙ったんです……ッ」


 先生も刀哉の右肘を知っている。僕が発した言葉の意味を理解した先生の動きが止まった。僕の最も醜い姿を見て、心の底から軽蔑しているんだろう。

 一度吐き出せば、堰を切ったように言葉が出てきた。


「負けたくなかった! 左足首を痛めて、全力を出せなくなった! こんな形で負けたくないって、打たれる方が怖くなった! 怖くて、怖くて、僕は……」


 額に爪を立てる。そのまま自分の額を引き裂けと言わんばかりに髪を掻き毟る。皮膚に傷を付けるように、己を傷付けるように、何度も、何度も。


 どれだけ己を責め、傷付けようと、時間は取り戻せない。己のしたことは取り返せない。

 背中にのしかかる罪の十字架を背負い、僕はこの先を生きていかなければならない。

 僕の嘆きが応接室を埋め尽くす。先生は黙って、僕の懺悔を聞いていた。


「もう、ダメなんです……剣を構えられない。打突ができない。僕の剣は、死に、ました」


 桜先生が、そこでようやく口を開いた。


「よく分かりました。確かにこんな様子では剣道を続けることは難しいですね」

「はい、だから──」


 だから、僕は竹刀を持ってきたんだ。熱心な努力家の証じゃない。僕が今日限りで剣道をやめるという意思表示だ。


 ゴミ箱に放り込むのも心が痛い。

 でも、ずっと視界の中に置いておくのも辛い。


 血と汗と涙が藍染と一緒に染み込んだ柄を見る度に涙がこみあげてくる。まだ戦えると竹刀が訴えてくるのだ。これ以上苦しいことはない。


「僕の竹刀、子どもたちの役に立つでしょう……こんな形でしか誠意を示せないのが心苦しいですが、将来の有望な剣士のために、使ってください」


 吐き出した思いを受けた先生は、しばらく微動だにしなかった。猫のように大きく開かれている目は、数度の瞬きを繰り返すだけで、何も語ろうとはしない。


 先生の目をまっすぐ見ることができず、項垂れてしまう。沈黙が首の後ろにのしかかった。壁に掛けられている大きな振り子時計の音だけがやけに大きく木霊している。


 もう無理だ。耐えられない。我慢の限界が押し寄せてきた。


「桜先生──」と、顔を上げた瞬間だった。


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