二本目:今なら、自分の腹だってかっ捌けそうだ


 ──桜の木が花びらを飾る、生暖かい気温になった。世間では新しい門出を祝う声が上がっていることだろう。そんな明るい声を背中に感じながら僕は、進学先の高校の学ランを着て、自分が通っていた剣道場へやってきた。


 今日から高校生になるという報告と──もうひとつ、大事な話をするために。

 肩の竹刀が落ちないよう気を付けながら、道場の戸に手を添える。


 同時だった。奥から、子どもたちの元気な声が戸を貫いてきた。早朝から熱意あふれる子どもたちが稽古に励んでいるらしい。


 そういえば、まだ小学生は春休みか。

 邪魔にならないよう、ゆっくりと戸を開いて一礼をする。


 二十人くらいが楽に稽古できそうな広さの清潔な道場。その奥に『誠心誠意』と達者な筆跡で書かれた額縁と神棚が飾られている。道場の中心では、僕の腰くらいまでの身長の子どもたちが、まだ慣れてない動きで竹刀を振っていた。近くには白い道着と黒い袴を纏った小柄な女性が一人。僕の剣道の先生だ。


 ──懐かしい。僕も刀哉も、ああやって先生に見守られながら数えきれないくらい竹刀を振った。手にはマメができて、何度もつぶしたっけなぁ。


 でも、今は、もう──。


 感傷的な気持ちになり、少し鼻を啜った時だった。肩の竹刀袋が戸に当たってしまい、その音で子どもたちが僕に気付いた。


「あ! 剣誠にーちゃんだ!」


 久しぶりに姿を見せたからか、子どもたちが驚き半分、嬉しさ半分といった表情で僕の方に駆けてくる。小型犬みたいで愛らしい。


「ジュケンは終わったの?」と女の子が聞いてくる。

「あ、ああ。にーちゃん今日から高校生だ」笑顔を作って努めて明るく返答する。


 子どもたちは「すげー」だの「大人だー」だの口々に思ったことを言っていた。


「剣道部に入るの?」


 ──ふと、誰かだろうか、そんな声が聞こえた。


 その質問は当然だ。僕はずっとこの道場で剣道をやってきた。子どもたちの相手もたくさんした。ならば、高校でも剣道を続けるのか、気になるに決まっている。


 聞かれると分かっていたはずの質問にかかわらず、僕は返事に詰まった。

 子どもたちは黙って僕を見上げている。キラキラと穢れにない瞳が眩しい。まっすぐに見られず、微かに目線を逸らした。


 何かを言わなければ。そう急かされるような気分になり、息を吸った時だった。


「剣誠君」


 花びらで包み込むような、優しい女性の声が僕の名前を呼んだ。ハッとして顔を上げると、子どもたちの奥に、僕の剣道の先生──黒神くろかみ さくらが柔和な目で僕を見つめていた。


「お、おはよう、ございます」とぎこちない動作で挨拶をする。


 桜先生は「はい、おはようございます」と返事をして、


「朝稽古は終わりましたから、話は奥で聞きますよ。お茶を淹れましょう」


 慈しむような声色で、そう言った。





「剣道をやめたい、ですか……」


 十二畳の居間。台所もテレビも置いてあり、十分に生活のできる空間で、僕と先生は卓袱台を挟んで向き合っていた。僕の視界には先生の淹れてくれた温かいほうじ茶しか映っていない。とてもじゃないが先生の顔を見れないからだ。


 ──黒神 桜。僕と刀哉は小学生まで僕と一緒にこの人から指導を受けていた。

 赤に近いブラウンのハーフアップ。それだけを見ると大人の印象を抱くが、先生は顔のパーツ一つ一つが若々しい。花が開くようにはっきりとした睫毛と瞳。先生の目に射抜かれたものは、良くも悪くも有無を言わさぬ眼力に息を呑む。


 だが、この場においてそれは僕を責め立てるようなものではなく、むしろ抱擁するような、凛々しい優しさを想起させていた。


「……あの試合以来、誰かに向かって竹刀を構えられなくなってしまったんです」

「剣道に事故や怪我はつきもの……といって、流せるような事故でもなかったですしね」


 そう言って桜先生が悲しむように目を伏せる。


「私もあの試合は見ていました。だけどあれは……決してあなたに全責任があるというわけではありません。それは断言できます」


 都大会ベスト16。僕と刀哉が戦った舞台だ。あの事故の結果、刀哉は負傷により棄権。僕の勝利で幕を閉じた。


 しかし、あれほどの事故だ。最悪の形で駒を進めてしまった僕がまともにベスト8の戦いに臨めるはずもなかった。むしろ拷問に近かった。会場から立ち去れるのなら立ち去って今すぐ消えてしまいたいと、どれだけ強く思ったか。


 しかし、残酷にも試合は進んだ。凄惨な事故ではあったものの、大会自体を中止にするほどの規模ではないと判断され、会場中に爪痕を残したまま大会は進んだのだ。


 周囲の選手も、大きな戸惑いを隠せなかったと思う。あの血だまりを見てしまった者たちは剣を鈍らせ、大会自体、あまりにも後味の悪い空気の中での進行となった。


 僕が勝てるはずなかった。半ば同情されるような雰囲気の中、何もできずに二本を取られて呆気なく敗退となり、中学最後の大会は終わった。


 病院に担ぎ込まれた刀哉はすぐに手術を受けることになった。ベスト8の試合に負けた僕は、刀哉との事故のショックから立ち直れないまま、先生と共に病院へ向かった。


 十時間以上の大手術となったが、何とか成功。最悪の事態は回避したと聞いた時、緊張が解け、僕はその場に崩れ落ちそうになった。


 だが、続けて発せられた医者からの言葉が、僕の心をへし折った。


 ──ですが、もう剣道をすることは難しいでしょう。


「違う、違うんですよ、先生。ただ事故を起こしただけならまだしも。僕は……」


 俯き、時計の規則正しい音だけを聞く。


「誰かに向かって構えを取るたびに、フラッシュバックするんです」


 あの日が、時間が、場所が、試合が、顛末が、血が、悲鳴が、

 そして……激痛と苦痛に顔を歪めている親友の姿が。


「すると、ダメなんです……まともに、足を動かすこともできなくなる」


 もう誰かと稽古をすることすら叶わないと、僕は自分の身に起きている異常を伝える。


 視界の端に、血のように赤い袋が映った。竹刀を納める専用の袋だ。

 中には、僕が長年愛用してきた竹刀が入っている。手を伸ばし、取り出した。


「先生、構えてくれませんか?」そう言ったとたん、先生はぎょっと目を見開いた。

「……竹刀を?」

「はい。実際に、見てもらった方が早いので……」


 先生はあまり気が進まない様子だったが、何度も頭を下げる僕に観念して、躊躇いながらも竹刀を手に取った。ありがたい。これで僕は、剣道を──。


「いきます」


 先生が頷くのを確認してから僕は構えの準備をする。それに合わせて、先生は少し迷いながらも中段に構えてくれる。この人に最期を看取られるなら、未練なんてありはしない。


 心臓は驚くほど落ち着いている。停まったように凪いでいる。棘の鎧を脱ぎ去ったみたいだ。知らなかった。全てを諦め、縋る必要もなくなった今なら、ここまで未練を断ち切ることに迷いはなくなるのか。

 今なら、自分の腹だってかっ捌けそうだ。


 スゥ、と再び深呼吸をし、ゆっくりと目を開けていく。

 自分の足元、畳、下の視界から順番に認識できるようになっていき、次に先生の足元、そして竹刀。最後に構えそのものを見──、



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る