第8話

迎撃せよ

 「退け! 退けぇ! 走れ!」

 明智軍の前線が崩れた――ように見えた。

 鉄砲隊が我先にと背を向け、泥にまみれながら後方へ走る。

 放棄された柵。捨てられた槍。

 それを見た羽柴軍の兵士たちは、勝利を確信した。

「見たか! 崩れたぞ!」

「裏切り者が逃げ腰になったわ!」

「追えぇ! 首を獲れぇ!」

 秀吉軍の先陣が、堰を切ったように第一防衛ラインを乗り越える。

 狭い突破口に数千の兵が殺到し、我先にと明智軍を追撃する。彼らの視界には、逃げ惑う敵の背中しか映っていない。

 だが、それは罠だった。

 それも、現代の陸戦ドクトリンに基づいた、極めて悪質な「遅滞戦闘(ディレイリング・アクション)」と「誘引」の複合技だ。

 坂上は、後退した「第二防衛ライン」の土塁の上で、冷ややかにその光景を見下ろしていた。

 そこは、第一ラインから100メートル後方。

 左右両翼が前方に張り出した、巨大な「凹の字(キル・ボックス)」の底にあたる位置だ。

「敵前衛、キルゾーン『アルファ』に侵入」

 坂上の横で、観測手が震える声で告げる。

 狭い開口部からなだれ込んだ秀吉軍は、扇状に広がる平地に展開しようとした。

 しかし、そこは深さ膝までの泥濘(ぬかるみ)。事前に水を撒き、耕しておいた田んぼだ。

 足を取られ、密集する敵兵たち。

 そこへ、両サイドの林――そこは既に明智軍の伏兵が潜む「側防陣地」となっていた――から、ドラム缶のような巨大な物体が転がり落ちてきた。

「な、なんだあれは?」

 敵兵が顔を上げた瞬間。

 坂上が、指を鳴らした。

「指向性散弾(クレイモア)……点火」

 導火線に火が走る。

 ドォォォォォォン!!

 地面が揺れた。

 木桶に黒色火薬と大量の「河原の小石」を詰め込んだ、即席の対人地雷が炸裂したのだ。

 爆風によって加速された無数の小石が、散弾となって密集した敵兵を横なぎに吹き飛ばす。

「ぎゃあああああ!!」

「石が! 石が体に……!」

 鎧を貫通するほどの威力はない。だが、顔面や手足を砕くには十分だ。

 前列が崩れ落ち、後続がそれに躓く。

 そこへ、正面の第二ラインに再配置(リポジショニング)を完了した鉄砲隊が、狙い澄ました斉射を浴びせる。

 ズドン! ズドン!

 

 正面から。左右から。

 三方向からの十字砲火(クロスファイア)。

 逃げ場を失った秀吉軍の前衛は、文字通り「すり鉢の中で磨り潰される」状態となった。

 ***

 「おのれぇ……! 小賢しい真似を!」

 地獄絵図の中で、一人の猛将が咆哮した。

 秀吉子飼いの若武者、福島正則(ふくしま まさのり)だ。

 彼は泥まみれになりながらも、巨大な槍を振り回し、飛んでくる銃弾をものともせず突進していた。

「退くな! 敵は小細工を弄しているだけじゃ! 距離を詰めれば我らの勝ちぞ!」

 鬼神の如き勇猛さに、怯みかけた秀吉軍が息を吹き返す。

 彼らは死体の山を乗り越え、ついに第二ラインの土塁に取り付いた。

「突破するぞぉぉ!」

 ドガァッ!

 明智軍の左翼、防衛線の一角が、正則の槍によって突き崩される。

 鉄砲隊が悲鳴を上げて逃げ惑う。

「まずい、左翼が抜かれる!」

「誰か、誰か止めろ!」

 システムに穴が開いた。

 ここを食い破られれば、そこから濁流のように敵が雪崩れ込み、指揮所まで蹂躙される。

 坂上の近くにいた利三が、槍を掴んで走ろうとした。

「私が参ります!」

「待て利三。お前は指揮を執れ」

 坂上は利三の肩を掴んで引き留めると、静かに自らの腰の刀に手を掛けた。

「え……? 殿?」

「不測事態(コンティンジェンシー)への対処も、指揮官の仕事だ」

 坂上は、土塁の上からひらりと飛び降りた。

 50歳の肉体とは思えぬ軽やかさ。

 泥を蹴り、崩れかけた左翼へ向かって疾走する。

 目の前には、槍を血に染めた福島正則。

 そして、それに続く数十の敵兵。

「どけえぇぇ! 邪魔する奴は串刺しじゃあ!」

 正則が、立ちはだかった坂上を見て、ニヤリと笑う。

 立派な具足。ただならぬ気配。大将首だ。

「明智光秀とお見受けする! いざ尋常に……」

「名前などどうでもいい」

 坂上は、走りながら鯉口を切った。

 スラリと抜かれた刀身が、雨の中で鈍く光る。

 構えは、正眼。

 剣先がピタリと相手の喉元を狙う、基本にして極意の型。

(距離、4メートル。相手武器、長槍。……制圧する)

 坂上の脳内から、感情が消える。

 あるのは、物理法則と人体構造の解析のみ。

 正則が大上段から槍を叩きつける。

 風切り音を伴う剛撃。まともに受ければ刀ごと叩き折られる。

 だが、坂上は受けなかった。

 半歩、左斜め前に踏み込む。

 「入り身」だ。

 ブンッ!

 槍の穂先が、坂上の右肩数センチの空を切り裂く。

 正則が目を見開く。「避けた!?」

 その瞬間、坂上の間合い(レンジ)に敵が入っていた。

「――面ッ!」

 裂帛の気合と共に、竹刀を振るようなコンパクトな振りで、刀が走る。

 北辰一刀流。

 大きく振りかぶる戦国の剣術とは違う。手首のスナップとテコの原理を最大限に活かした、速く、鋭い打突。

 ガツォォン!!

 強烈な衝撃音が響く。

 斬ったのではない。正則の兜の「真っ向」を、峰打ちに近い角度で叩き割ったのだ。

「ぐ、がぁ……っ!?」

 脳震盪を起こし、白目を剥いて崩れ落ちる正則。

 巨体が泥に沈む。

 静寂。

 周囲の敵兵が、信じられないものを見る目で立ち尽くす。

 「槍の正則」が一撃で? しかも、あんな老人(50代)に?

 坂上は、倒れた正則に目もくれず、切っ先を周囲の敵兵に向けた。

 その立ち姿には、一片の隙もない。

 剣道八段の「残心」。

 その気迫(オーラ)だけで、敵兵がジリジリと後ずさりする。

「……私の射程圏内(レンジ)に入るな。斬るぞ」

 低く、地を這うような声。

 それは武将の威圧ではない。

 精密機械が発する警告音のような、無機質な恐怖だった。

「ひ、ひぃぃぃ! バケモノだぁ!」

「逃げろ! 敵わねぇ!」

 崩れかけた左翼から、敵兵が逃げ出す。

 坂上は刀を血振るいし、カチリと鞘に納めた。

 土塁の上から見ていた明智軍の兵士たちが、爆発的な歓声を上げる。

「殿がやったぞ!」

「我らが主君は剣豪ぞ!」

「続け! 殿を御守りせよ!」

 士気(モラール)、最大値まで回復。

 坂上は乱れた呼吸を整え、再び指揮官の顔に戻って叫んだ。

「敵の攻勢限界点(カルミネーション・ポイント)に達した! これより反転攻勢(カウンター・オフェンシブ)に移る! ……総員、前へ!」

 守勢から攻勢へ。

 鉄の盾(イージス)が、巨大な矛となって秀吉軍を押し返し始めた。

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