第6話
猿が来た
ポツリ、と。
坂上の頬に冷たいものが落ちた。
空を見上げる。鉛色の雲が、天王山の上空を覆い尽くしている。
本降りになる。
「雨だ……! 雨だぞ!」
「天は我らを見放したか!」
「鉄砲が使えぬ! これでは秀吉の軍勢を止められん!」
陣地の中に動揺が走る。
火縄銃にとって、水は天敵だ。火縄が湿れば火は消え、火皿の口薬(着火剤)が濡れれば発火しない。
梅雨時の野戦において、鉄砲隊は「ただの棒を持った集団」に成り下がる。それが戦国の常識だった。
だが、坂上は動かなかった。
濡れていく軍配を無造作に腰に差し、怯える鉄砲組頭(くみがしら)の方へ歩み寄る。
「騒ぐな。想定の範囲内(イン・ザ・スコープ)だ」
坂上は、低い声で告げた。
そして、近くの荷駄隊に目配せをする。
「配れ」
荷駄隊が木箱を開ける。中に入っていたのは、武器でも防具でもない。
大量の茶色い紙――「油紙(あぶらがみ)」だった。
堺の商人・津田宗及から買い占めた、和傘や合羽(かっぱ)に使われる、防水加工された丈夫な紙だ。
「筒の機関部(ロック)をこれで覆え。火縄ごとだ。……撃つ瞬間まで外すな。火蓋(ひぶた)を切る、そのコンマ一秒だけ紙をめくればいい」
坂上は自ら一挺の鉄砲を取り、手本を示した。
油紙を機関部に巻き付け、紐で固定する。簡易的な防水カバーの完成だ。
現代の軍隊なら当たり前の「防水処置」だが、当時の足軽にそこまでのマメな装備管理の概念はない。
「それと、早合(はやご/簡易カートリッジ)の口もしっかり蝋(ろう)で封じてあるな? 湿気を吸わせるなよ」
坂上の落ち着いた手つきを見て、兵たちのパニックが収まっていく。
指揮官が動じていない。その事実だけで、兵は正気を取り戻す。
「雨は好都合だ。敵は『雨なら鉄砲は撃てない』と油断して突っ込んでくる。……そこが地獄の一丁目だ」
***
ズズズズズ……。
地鳴りのような音が、街道の向こうから響いてきた。
土煙が雨に濡れて沈む中、無数の旗指物が姿を現す。
五七の桐。
羽柴秀吉の軍勢だ。
その数、およそ3万。
先頭を走る兵たちは泥まみれで、具足もろくに付けていない者もいる。
まさに「中国大返し」。
常軌を逸したスピードで、約200キロを走破してきた怪物たち。
「……速いな」
坂上は、単眼鏡の代わりにかざした手の中で呟いた。
彼らの目は血走り、殺気立っている。
「信長様の仇討ち」という義憤、そして「勝てば官軍、負ければ賊軍」という極限のプレッシャーが、彼らを突き動かしている。
隣に控えていた小姓の少年――まだ元服したばかりの15歳ほどの若者が、ガタガタと震え出した。
槍を持つ手が定まらない。歯の根が合わない音がする。
「ひ、ひぃ……お、鬼だ……猿の皮を被った鬼が来る……」
無理もない。
数にして3倍。勢いは向こうにある。
ここで負ければ、一族郎党皆殺しだ。
坂上は、ふとポケット(着物の袂)に手を入れた。
指先に、硬い感触が触れた。
(……ああ、そうか。まだ一粒、残っていたか)
第1話で食べたのが最後だと思っていたが、予備の軍服(着物)の裏地に紛れ込んでいたらしい。
包み紙の中で少し溶けかかった、ライオネスコーヒーキャンディ。
坂上はそれを取り出すと、震える少年の口元に差し出した。
「食え」
「は……? で、殿……?」
「いいから食え。命令だ」
少年は戸惑いながらも、口を開けた。
黒い飴玉が、少年の舌の上に乗る。
「……っ!? に、苦い!?」
「そうだ。苦いだろう」
坂上は少年の肩をポンと叩いた。
「それが『大人の味』だ。……そして、落ち着く薬だ」
「く、薬……?」
「カフェインという成分が入っている。頭が冴えて、恐怖が消える魔法の薬だ」
嘘ではない。
少年は「魔法の薬」と聞いて、ごくりと唾を飲み込んだ。
口の中に広がる濃厚なコーヒーの香りと、遅れてやってくる砂糖の甘み。
未知の味覚が、少年の脳から「秀吉への恐怖」を一瞬だけ追い出した。
「う……美味い、ような……」
「そうだろう。勝ったら、もっと美味いものを食わせてやる」
坂上は視線を前方に戻した。
少年の震えは、止まっていた。
***
秀吉軍の前衛部隊が、円明寺川の対岸に迫る。
彼らは、明智軍の陣地を見て嘲笑った。
「見ろ! 逆茂木ばかりで、堀も浅い!」
「雨だぞ! 鉄砲なぞ恐るるに足らん!」
「一番槍は頂いたぁぁぁ!!」
功名心に駆られた武者たちが、我先にと川へ飛び込む。
その数、数百。
泥水を蹴立てて、明智軍の「懐」へと侵入してくる。
坂上は、静かに右手を挙げた。
そこには、赤い布が結び付けられた杭が打ってある。
測量によって定められた、鉄砲の有効射程限界線。
そして、その奥にある「第二の杭」は、殺傷率が最も高くなる「最適交戦距離」の目印だ。
敵の先頭集団が、第一の杭を越える。
まだだ。
第二の杭に、敵兵の胴体が重なる。
今だ。
坂上の手が、振り下ろされた。
「射撃開始(オープン・ファイア)!!」
号令と共に、300挺の鉄砲(第一波)が火を噴いた。
油紙を跳ねのけ、火縄が落ちる。
雨音を切り裂く轟音。
ズドオオオオオオオン!!!
白煙が視界を覆う。
だが、坂上は見ずともわかっていた。
個々人が狙ったのではない。
事前に設定された「空間(セクター)」に対し、面で制圧射撃を行ったのだ。
そこに敵がいれば、確率論的に必ず当たる。
「ぎゃあああ!?」
「な、なぜだ!? 雨なのに、なぜ撃てる!?」
川の中で、先頭集団が薙ぎ倒されたように水面に沈む。
血飛沫が川を赤く染める。
だが、攻撃は終わらない。
「次弾装填手(ローダー)、交換!」
「第二射、用意!」
五人一組のシステムが作動する。
撃ち終わった筒は即座に後方へ送られ、既に弾込めが完了した筒が射手の手元へ滑り込む。
間髪入れず、第二波。
ドン!!
第三波。
ドン!!
本来なら数十秒かかる次弾装填のタイムラグが、わずか数秒に短縮されている。
それは、戦国時代には存在し得ない「機関銃(マシンガン)」の如き連続射撃だった。
「ひ、ひぃぃ……!」
さきほどの少年兵が、目を見開いて叫んだ。
恐怖の対象は、敵ではない。
目の前で淡々と虐殺を続ける、味方の「システム」に対してだ。
坂上は、硝煙の匂いを深く吸い込んだ。
コーヒーの香りよりも強く、鉄錆の味がする戦場の空気。
「ようこそ、キルゾーンへ。……教育してやる。これが『近代戦』だ」
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