第36話 脂肪という資源
朝の牛舎は、前よりも音が多かった。
三頭分の呼吸と、藁を噛む音が重なり、空気がわずかに温かい。
桶の中には、昨日よりもはっきりと多い牛乳が溜まっている。
「……量、増えましたね」
リリアンヌが、桶の縁を覗き込みながら言った。
「ええ。頭数が増えれば、そのまま結果に出ます。
ただし、その分だけ判断も早くしないといけない」
「飲むだけでは、追いつかないということですね」
「はい。余らせれば、すぐに傷みます」
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家に戻り、牛乳を鍋に移す。
火は使わず、そのまま静かに置いた。
レオンが、不思議そうに手元を見ている。
「温めないんだね。昨日は火を使ってたのに」
「今日は、分けるだけだ。
牛乳は置いておくだけで、中身が勝手に分かれる」
「……勝手に?」
「重いものと、軽いものにな」
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しばらくすると、表面に薄い層が浮かび始めた。
「……色、違う」
「上に浮いたのが脂肪分だ。
これが、料理に使える一番の資源になる」
「下は?」
「水分と、たんぱく質が多い部分だ。
体を作るのは、むしろそっちだな」
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「じゃあ、上だけ取るんですね」
「そうだ。ただし、丁寧にやる」
木の匙で表面をすくい、別の器に集める。
量は多くないが、確かな重みがある。
「……思ったより、少ないですね」
「脂肪は元々、牛乳の中では少数派だ。
だからこそ、価値が高い」
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革袋に移し、口を縛る。
「ここからは、力仕事だ」
「混ぜるんですか?」
「振る。
脂肪同士をぶつけて、固める」
「……そんな方法で、本当に?」
「一番、失敗しない」
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一定のリズムで、袋を振る。
しばらくすると、中の音が変わった。
「……水っぽい音じゃなくなった」
「分離が始まった合図だ」
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袋を開くと、黄色がかった塊と、白い液体が現れる。
「……形になってます」
「これが、バターの元だ」
「元、ということは……」
「まだ完成じゃない。
このままだと、すぐに傷む」
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水で洗い、余分な液体を抜く。
指先に残る感触が、少しずつ変わっていく。
「……触った感じが、さっきと違います」
「余分な水分が抜けた。
これで、ようやく保存を考えられる」
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小さな塊を布の上に置く。
それはもう、はっきりと“食材”の形をしていた。
「……できましたか?」
「一応は。
味も、持ちも、まだ調整が必要だが」
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リリアンヌが、静かに言う。
「牛乳から、
ヨーグルト、ホエー、そして今度はバター……
本当に、捨てる部分がありませんね」
「ええ。
牛乳は、分けて使うものです」
「分ける、という発想がなかっただけで」
「そういうことです」
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夕方、台所の卓に小さなバターを置く。
量はわずかだが、確かな成果だった。
「……これを、どう使うんですか?」
「料理にも使えますし、売ることも考えられます。
ただ、その前に越えないといけない問題があります」
「保存、ですね」
「はい。
冷やさないと、すぐに駄目になります」
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レオンが、腕を組んで言った。
「作ることは、もうできる。
でも、守れないと続かないってことだよね」
「いいところに気づいたな」
「……簡単じゃないね」
「だから、面白い」
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窓の外では、牛舎の影がゆっくり伸びていた。
卓の上には、小さな黄色い塊。
脂肪は、ただの栄養ではない。
扱い方次第で、価値になる資源だった。
俺は帳面を開き、新しい項目を書き足す。
バター。
保存。
冷やす方法。
次に考えるべき課題は、もう決まっていた。
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