第26話 高級レストラン
ペン入れ作業は、何とか一一月の上旬のうちに終わった。もちろんまだベタ塗り、トーン貼り、オノマトペや集中線の描き入れなど仕上げ作業は残っているし、まったくもって完成ではないのだが、それでも私は一つの山を越えたような思いがしていた。おぼろげながら見えてきたゴールへ、一気に駆け抜けてしまいたい。
だけれど、連日の仕事はそれを許してはくれなかった。相変わらず進行中の案件はいくつもあるし、スピカ・ダイアモンドの案件は、第一案の提出に向けて必死にアイデアを練っている最中だ。当然定時では収まらず、私は残業に残業を重ねていた。まだ半月も経っていないのに、今月の残業時間は三〇時間を超えている。最終的には何時間になるのだろうと考えると、乾いた笑いが漏れてきそうだ。でも、忙しいのは私だけではない。全員が漏れなく仕事を抱えていて、残業が常態化している。世間的にはブラック企業と言われるかもしれない状態の中で、誰かに頼りきりになることは、私を含め誰もできなかった。
それでも、救済措置のように週に一度、水曜日のノー残業デーは必ず訪れる。私は定時に会社を上がると一直線に電車に乗って、自分の家を目指した。帰ってくるやいなやスーツを脱いで、しばらく着ていなかった水色のワンピースに袖を通す。もちろん一一月という季節柄、そのままでは寒いから上に一枚羽織るものが必要だったが、それでもめったに着ない服を着ると、私の気分は自然に上向くようだった。
渋谷駅で電車を乗り継ぎ、あまり降りたことのない駅で降りる。すると改札の外では、駿が私を待っていた。上下ともカーキ色のスーツに身を包んでいて、初めて見る姿が私には少しおかしく感じられる。軽くいじってみると、駿もはにかんでくれる。なんてことのないよう振る舞う私たち。でも、それはこれから行く場所の特別さをかえって際立たせていた。
歩くこと約一〇分。私たちは大通りを一つ入ったところにあるレストランに辿り着いた。隠れ家的なこのレストランは、海外の有名なガイドブックに取り上げられたこともある名店だ。店内から暖かな光が漏れていて、入る前から私は場違いな思いを抱いてしまう。生きている間に来ることはないと思っていたから、平然を装うよう意識していなければ、足が竦んでさえきそうだった。
駿の後に続いて店内に入る。そのレストランは、一階はエントランスになっていて、本格的な客席は地下の一階にあった。階段を降りて目にした店内に、私は息を呑んでしまう。客席は想像していたよりもずっと広く、眩い照明が地下の暗さを感じさせない。高く開放感がある天井に、豪奢なシャンデリアがかかっていて、オレンジがかった光を放っている。目の覚めるような赤い絨毯に、ハッとする思いがする。今までだったらとても来られなかった場所に、今私たちは来ている。それもこれも駿のチャンネルが軌道に乗ったからで、駿の功績とテレビでしか見たことがないケニア人タレントに、私は感謝の念を抱いた。
私たちは店員に(ボーイと呼ぶべきなのだろうか)、奥の席に案内され腰を下ろした。まずはドリンクメニューに目を通す。でも、一目見ただけで目玉が飛び出そうなほど、そこに記載されていた値段は高かった。赤ワインが一本一万円とか余裕で書いてある。駿の財布は大丈夫だろうか。駿は「遠慮せずに何でも頼んでいいよ」と言っていたが、それでも私は気が引けて、すぐにはこれがいいとは言えなかった。
「真珠、お酒苦手だったよな。なんかソフトドリンクにしようか?」
「い、いや、私も一杯目ぐらいは飲むよ。このシャンパンでお願い」
「そっか。じゃあ、俺も同じシャンパンにしよっかな」
私たちはドリンクを頼むと、まずお互いの近況の報告から話を始めた。駿は相変わらず動画の制作やレシピ本の執筆に忙しいようで、昨日は四時間しか寝ていないと言っていた。「大丈夫だよ」と気丈に応える駿に、私は駿の体調をいつも気にかけていると伝えることしかできない。翻って私は、仕事の状況や漫画の執筆に忙しいことを包み隠さず話す。駿は私が同人活動をしていることも知っていて、「あまり根詰めすぎんなよ」と気遣ってくれる。私は「駿もね」と思ったが、その思いは心の中にしまっておいて、曖昧に微笑んで応えた。
「乾杯」
私たちはグラスを突き合わせなかった。ここは今まで行っていたような大衆居酒屋じゃない。シャンパンを傾けると、炭酸とともに口の中に、じゅわっとぶどうの酸味が広がった。その感覚が想像よりも強烈で、私はかすかに顔をしかめてしまう。駿にまた心配はされたものの、でも私はこうして駿と同じ時間を共有できていることが嬉しかった。
そのまま少し駿と話していると、ボーイの人が最初の料理を持ってやってくる。テーブルに置かれたオードブルは、横に長い皿の中で四つに区切られたスペースに、それぞれ一品料理が盛られているというものだった。原色に近いくっきりとした色合いが、目に鮮やかだ。ボーイの人がそれぞれ料理を説明してくれたものの、ポッシェやコンフィといった専門用語はまったくと言っていいほど、私の耳に入ってこなかった。写真を撮るのでさえ失礼な気がして、私たちは改めて「いただきます」をして、食べ始める。一番左の料理を口にすると、ハーブが香る野菜が爽やかな風を運んできた。
「駿、これめっちゃ美味しいよ」
駿も同じ料理を口に運んでいて、「そうだな」と微笑みながら応えてくれて、私の胸は弾んでいく。格調高い店内は騒ぎ立てることを良しとはしていなかったけれど、それでも私は感動を言葉にせずにはいられなかった。
「ねぇ、このフォアグラも美味しい。さすがお店の味って感じ。でもまあ……」
「ちょっと待って。今、お前『俺が作った料理の方が美味しいけどね』みたいなこと、言おうとしなかったか?」
「えっ、どうして分かったの?」
「そんなの何となく分かるよ。でも、素人が作った料理とこういうレストランの料理は、比べること自体がおこがましいから、そういうことはなるべく言わないでくれると助かる」
「えー、駿ももう素人じゃないじゃん」
そう私が口を尖らせても、駿は「いや、まだ素人みたいなもんだよ」とつれない。でも、そんな謙遜さえ私の目には好ましく映る。今やチャンネル登録者数三万人を数える大人気チャンネルだというのに、その謙虚な姿勢に私は改めて好感を持った。
それからも私たちは、次々に運ばれてくる料理に舌鼓を打ち続けた。ポタージュスープはまろやかな味わいだったし、パンは香ばしい焼きたての匂いがして、真鯛のポワレはふっくらとした食感で、仔羊のステーキはお肉の凝縮された旨味を存分に味わうことができた。
でも、美味しい料理や和やかな駿との会話にも、私は小さな違和感を重ねていた。それは高級料理やオシャレな内装が肌に合わなかったからではない。久々の二人での外食に駿がこのレストランを選んだ理由を、測りかねていたからだ。もしかして、今までなかなか私に会えなかった罪滅ぼしのつもりなのだろうか。だとしたら、今まで行っていた大衆居酒屋でもよかったのに。高級レストランに来て身構えるなという方が、私には無理な話だった。
(続く)
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