第10話 静かな崩壊

放課後の廊下は穏やかだった。


部活動の勧誘に声を張り上げる先輩たち、

教室を飛び出して帰宅する下級生、

食堂から漂う香辛料の匂い――

ありふれた日常が、濃く、優しく、揺れている。


御影静麻は、その喧騒の中心を歩きながら、

音もない焦りを胸に抱いていた。


(……まだ、いる。消えてない)


昨日から居座る異質な魔力。

形を持たない、輪郭のぼやけた悪意のようなもの。

誰も気づかず、静麻だけが聞き取れる“軋み”は、

学院の日常に穴をあけようとしていた。


隣を歩く玲花は、静麻の表情を盗み笑うカップルにも目を向けず、

ただ真っ直ぐ前だけを見ていた。


「まだ続いてるのね?」


「……微弱だけど、消えない。

まるで、様子を伺っているみたいに」


玲花は胸の奥がひやりとした。

“待っている侵入者”という発想は、努力で積んだ常識では理解しがたい。


「誰が、何を狙って?」


静麻は答えない。

答えられるほど、情報がない。


ただ――“観察されている”と感じる。


中庭へ出ると、夕陽が芝生に長い影を落としていた。

練習を終えた魔法部の学生が、疲れた笑い声を上げている。


「じゃ、また明日な!」


仲間が肩を叩き、笑って帰っていく。

その一人、男子生徒・柊悠太が、部室の鍵を閉めようとしたとき――


コツン


かすかな音がした。


鍵穴に差し込んだ金属が、異常に軽い。

悠太は眉をひそめた。


「……ん?」


鍵を抜くと、先端が黒く焦げていた。

高温魔法に晒されたときの症状に近いが、熱さはない。


(魔法……? 誰かが悪戯した?)


悠太は周囲を見渡すが、生徒が数人談笑しているだけ。

不快感を振り払うように息を吐き、再び鍵を差し込もうとした。


その瞬間――


ガチッ


鍵穴が、動物の歯のように閉じた。


「っ!? うわっ!」


鍵を握る手から火花が散る。

悠太は反射的に手を離した。


「な、なんだよこれ……誰か、ふざけ……」


叫びかけた声が、次の瞬間、喉を締め付けられたように止まる。


見えない指が、発声を押し潰した。


息はできる。喉も焼けていない。

なのに声だけが、外に出ない。


悠太は恐怖に震え、声なき悲鳴を上げた。


その異常を、静麻は感じ取った。


「……今だ」


玲花が息を呑む。

静麻は駆け出していた。


中庭の芝生を蹴り、柊悠太のもとへ飛び込む。

誰より速く、誰より正確に。


「《散霧》」


指先が空間を弾き、噛み合った“鍵穴”を霧のように溶かす。

同時に、悠太を覆っていた透明な圧力が消える。


「ひ、っ……は……っ……!」


悠太は膝から崩れ落ち、呼吸を乱しながらようやく声を絞り出した。


「な、なんだよ……今の……誰、か、に……」


静麻は応えず、鍵穴を見つめた。

そこには、黒い“焼き跡”ではなく――


呪痕が残っていた。


(……呪術。侵入者は、学院の魔法体系とは別の体系を使っている)


ならば、外部の人間だ。

もっと言えば――敵だ。


玲花が駆け寄り、悠太の肩を掴む。


「大丈夫? 他に痛みは?」


悠太は震える声で答えた。


「な、なにが起きたのか分かんねえ……声が……出なくなって」


玲花は静麻を見た。


「これは……事故じゃないわね」


静麻は呟いた。


「事故なら、痕跡を残さない。

でも、これは“見せてる”。

警告だ」


見えない手が、学院の扉を叩きに来ている。


「侵入している。……すでに。」


玲花の顔色が変わった。


静麻は初めて、小さな嫌悪を滲ませた声を出した。


「日常に紛れながら、牙を研いでいる……

最悪のやり方だ」


この日、学園に起きた異常は、

小さな傷であり、最初の犠牲だった。


まだ名前は知らない。

姿も見えない。


ただ、“ルキフェル”が、この学院に触れた。


その瞬間、日常は守るべきものになった。


静麻の望む“静かな生活”は、

失われつつあるのではなく――

戦って守るものへと変わり始めていた。

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