第一章 嵐過ぎて

 白い帆に陽光が満ち、海面は鏡のようにきらめいていた。トゥーロンを発ち、船は地中海を東へと進んでいる。潮風は穏やかで、戦場の記憶を洗い流すかのように涼やかだった。

 ソフィーは甲板に立ち、遠ざかってゆくフランスの岸辺を振り返ることなく、ただ前方の水平線を見つめていた。

 目指すのはイタリア――メリッサの生家。彼女が育ち、そして今は帰ることのない場所。

 メリッサ。自分たちが訪れるのは、彼女が故郷に残してきた痕跡。

 胸の奥で名前を呼ぶと、まだ声が届くのではないかと思えた。戦場で共に戦い、テーブルを囲んで笑った日々が潮の匂いと混ざって甦ってくる。

「考え込んでいるね」

 背後から穏やかな声がかかる。振り向けばマクシミリアンが立っており、風に揺れる外套を片手で押さえていた。

「すみません。少し……」

「いや、皆同じだ。僕も落ち着かない」

 船は静かに波を割って進む。

 戦いを終えて与えられた休暇――その始まりに選んだのは、仲間を悼むための旅だった。

 ソフィーは思う。休暇と呼ぶには重すぎる。けれど、メリッサを想うこの航海はきっと意味を持つはずだと。船は地中海を進み、甲板には潮風と笑い声が混ざっていた。

「まったく、ボクたちがどれだけ急いで漕いできたか知ってます? 休暇と聞いた瞬間に『隊長とソフィーを迎えに行くぞ!』って声が上がって……弾丸みたいな勢いで港を出たんですから!」

 ジョルジュが陽気に言うと、リラがため息をつきながらも口元をほころばせた。

「弾丸っていうより、無鉄砲の群れね。でも、おかげでこうして合流できたんだから感謝すべきかしら」

 スザンヌは潮風を胸いっぱいに吸い込み、髪を押さえつけながら微笑んだ。

「でも、正直ほっとしました。ソフィーさんと隊長のお二人だけでイタリアに向かうなんて、なんだか心細くて……」

「ふふ、同感。休暇にまで置いてけぼりなんて、我慢できなかったわ」

 アニータがさらりと付け加えると、ペネロペが「ほんとそれ」と頷いてから、わざとらしく大げさに言った。

「だってメリッサのお家に行くんだよ? そんな大事なとこ、あたしたちが行かなくてどうすんの」

 甲板の片隅ではロザリーとリゼーヌが茶器を広げており、地中海の波を眺めながら優雅にお茶を楽しんでいる。サミュエルは舵を預かりつつ、彼女たちの笑い声に小さく目を細めた。

「……ほんと皆さん、よく動けますね」

 マクシミリアンが肩をすくめると、ジョルジュが胸を張って答える。

「もちろんです。ボクたちにとって大事な休暇は、皆で過ごすものですから!」

 その言葉にソフィーは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。戦いを共にした仲間と、こうして同じ船にいること――それだけで、旅路の重さが少し和らぐ気がするのだった。

 甲板の上、潮風に髪をなびかせながら、仲間たちが自然と円になって腰を下ろしていた。船体が軋む音に混じって笑いと回想がこぼれる。

「メリッサさんの料理って、やたら旨かったよなあ」

 ジョルジュが腕を組んで感慨深げに言う。

「肉の焼き加減が絶妙でさ。貴族のお嬢様なのに庶民の味まで心得てるって、ずるいくらいだった」

「そうそう、しかも手際が早いのよね」

 アニータが微笑む。

「あの子が台所に立つと、あっという間に皿が並ぶんだもの。最初は“お嬢様の趣味かしら”って思ったけど、本気で板についた腕前だった」

「料理のときに包丁振る手つきが、すでに狙撃手のそれだった気もするけどな」

 ダヴィットが苦笑する。

 リゼーヌが目を輝かせて加わった。

「でも、飛び道具の正確さって本当にすごかったです! なんであんなに突出してたんでしょう?」

「だな。俺たちだって銃や大砲の腕は鍛えてるが、メリッサは剣術も射撃も微妙なのに投擲だけは別格だった」

 グウェナエルが真顔で頷く。

「火炎瓶の奇襲作戦を思い出せ。あの時の一撃がなけりゃ、敵の帆柱は無傷で突っ込んできてたぞ」

「うん、あれは決定的でしたな」

 シャルルが静かに言った。

「メリッサが狙ったものは、必ず落ちる。誰もがそう信じてた」

 仲間たちの口々の声が波間に溶けていくのを、ソフィーはただ黙って聞いていた。彼女の笑顔も、鋭い眼差しも、甲板のどこかにまだ残っているような気がしてならない。やがて仲間たちの語らいがひと段落ついた頃、船首に立っていたリラが振り返って声を上げた。

「見えてきました! ジェノヴァの港です!」

 潮風に乗って、遠くから鐘の音がかすかに響いてくる。白壁の家々が海辺の斜面に折り重なり、赤い屋根が朝陽に照らされてきらめいていた。港にはすでに多くの帆船が出入りしていて、帆を降ろし始めた自分たちの船もその喧噪に吸い込まれていく。

「本当にイタリアまで来ちゃったな」

 ジョルジュが目を細めて呟く。

「……メリッサの故郷」

 ロザリーの声音はどこか柔らかい。

 甲板に立つマクシムが、横のソフィーへ視線を移した。

「ここからが本当の目的地だ。――彼女の家族に、胸を張って会いに行こう」

 ソフィーはこくりと頷いた。胸の奥に渦巻く想いを抱えながら、迫り来る港の姿をじっと見つめた。


 トゥーロン港を離れ、帆船は静かに地中海を滑るように進んでいた。青く広がる海面と空が繋がる水平線を眺め、ソフィーは波の音に耳を傾けながら思いを巡らせた。メリッサのこと、彼女と過ごした日々、そして、失った悲しみ……。それでも、こうして仲間と共に彼女の故郷へ向かう道は、どこか心を穏やかにしてくれた。

「港が近づいてきました」

 ダヴィットの声が、船上の静けさを破る。

「ふふ、イタリアの香りがするわ」

 リゼーヌが顔をほころばせ、頬に柔らかな光を受けながら海風に髪をなびかせた。

「観光気分じゃありませんから、静かに……」

 ロザリーがたしなめるが、瞳の奥は柔らかく揺れている。

 港に降り立った瞬間、潮の匂いに混じってオリーブや葡萄酒の香りが微かに漂った。白壁の家々、鮮やかな色の花々、石畳に反射する陽光――すべてがトゥーロンとは違う、明るく開放的な地中海の雰囲気を醸していた。海風には冬特有の冷たさが混じり、地中海の青さも深く沈むように重みを帯びていた。港に降り立った隊員たちの吐息は白く、手を擦り合わせながら石畳を歩く。陽光はあるものの、冬の光は柔らかくも冷たく、建物や花々の彩りは夏よりも落ち着いた色合いに見える。

「ここがメリッサの故郷……」

 ソフィーは小さく息を吐き、胸の奥に温かい緊張感を覚えた。仲間たちとともに港を歩く中、グウェナエルが前に出て、柔らかく流暢なイタリア語で従者に挨拶した。シャルルもそばで通訳に回る。

「メリッサ・カンパネッラ嬢の仲間として、我々はご家族に敬意を表しに参りました」

 その言葉には、ただの形式以上の深い敬意と真剣さが含まれていた。

 従者に導かれて少しずつ坂道を登ると、地中海を背に白亜の屋敷が姿を現す。陽光を受けた屋敷は、海の光を反射してまぶしいほどに輝いていた。石造りの壁には蔦が絡まり、窓辺には冬場でも色とりどりの花が咲き乱れている。玄関の扉が開き、銀髪を後ろでまとめた紳士と、柔らかな笑みを湛えた婦人が姿を現した。メリッサの両親である。厳格さと優しさが入り混じる表情に、隊員たちは自然と背筋を伸ばした。

「ようこそお越しくださいました。――娘を、愛してくださった方々」

 紳士の言葉をシャルルが丁寧にフランス語へ訳す。ソフィーたちの心に緊張とともに温かいものが流れ込む。

 マクシムが一歩前に出て深く頭を下げた。

「彼女は立派な仲間であり、私の誇りです。――失ったことが悔やまれてなりません」

 リラも静かに続く。

「彼女の勇気が、何度も私たちを救ってくれました。どうか、そのことをお伝えください」

 母は目元にハンカチを当て、父は静かに頷いた。その様子を見て仲間たちも言葉を失い、胸に込み上げるものを感じる。ペネロペやリゼーヌも、わずかに肩を寄せ合いながら静かに立っていた。

 従者に導かれ、庭を抜けて奥の墓所へと進む。庭のラベンダーやローズマリーも、冬の寒さで少し色を失いながらも香りは力強く漂う。石畳を踏む足音が凍った空気に響き、静けさがより際立つ。墓所に近づくと、微かな潮風が冷たく頬を撫で、隊員たちの息遣いを冬の空気が包み込むようだった。石畳の先に立つ墓石は、まだ新しく、表面は滑らかで冷たく、冬の淡い光を受けて硬質に輝いていた。刻まれた文字は深く、くっきりと浮かび上がり、凛とした存在感を放つ。海風が吹き抜けるたびに、石の冷たさが冬の空気と混ざり、静かな緊張感を胸に呼び起こす。新しい石の匂いと質感が、ここに眠る者の存在を生々しく感じさせる。ソフィーはそっと手を伸ばし、指先で文字の凹凸をなぞった。冷たさに息をひそめると、胸の奥でざわめいていた思いが静かに押し留められる。

「……メリッサ」

 小さな声が凍てついた空気に溶けていく。冬の海風が髪を揺らし、頬を撫でるたびに、心の奥に眠る切なさがふわりと胸に広がった。マクシムはソフィーの隣に立ち、静かに手を組み合わせたまま、彼女の背中をそっと支える。言葉は交わさない。けれど、その沈黙が二人の間に、言葉以上の温もりと連帯感を流れさせた。ソフィーの目に浮かぶ涙は、墓石の冷たさに触れながらも、内心の温かさと記憶の柔らかさを映し出す。冬の光に照らされた小さな花が風に揺れ、かすかな香りが二人を包み込む。息を吸うたび、メリッサの笑顔や声が胸に蘇り、痛みと愛おしさが交錯した。マクシムがそっと肩をすくめる。それは慰めでも励ましでもなく、ただ同じ時間と空間を共有しているという静かな意思表示だった。ソフィーは小さく頷き、深く息を吐く。冷たい石の感触と冬の光が、失ったものの重さと、まだ残る温もりの両方を、静かに彼女たちに伝えていた。冬の陽光が柔らかく反射し、墓標を淡く照らす。寒さで体がこわばる中、心の中でメリッサに語りかける声は冬の澄んだ空気に溶け込むように静かに響いた。

「ここまで来られたよ、メリッサ。あなたのことを忘れたことは一度もない――私たちは、ずっとあなたのことを胸に抱いてる」

 冬の冷たさの中で仲間たちは自然と肩を寄せ合い、静かに頭を垂れた。冷たい空気が心を引き締める一方で、地中海の穏やかな波音と光が、静かな慰めを与えていた。冬の冷たい空気の中で墓前の時間を過ごすと、仲間たちも順番に近づいていった。

 グウェナエルは低く頭を垂れ、静かに手を組む。

「……お前の勇気を、忘れない」

 シャルルは目を細め、かすかな笑みを浮かべながらも声は抑えめに。

「もう少し、みんなで笑える時間があればよかったのに」

 その傍らでペネロペが小さなため息をつき囁く。

「メリッサはここで眠るけど、あんたの意志はあたしの中で生き続けるよ」

 ジョルジュは少し照れくさそうに手を合わせながらも口を開いた。

「メリッサさんのおかげで、ボクたちは海の神に、いや、海そのものに歓迎されたんだと思います」

 ソフィーは内心で、彼女の力のありがたさを改めて噛みしめた。

 冬の光が墓石に立つ影と仲間たちの姿を柔らかく照らす。悲しみも、思い出も、そして仲間たちの想いも、そっと重なり合った瞬間だった。

 墓参りを終えた一行は石畳の庭を抜け、メリッサの実家の重厚な扉をくぐった。扉の向こうには、暖炉の火が柔らかく揺れる温かい空間が広がっている。冷えた頬が徐々に和らぎ、冬の寒さで固まっていた体がほっと解けるようだった。

 グウェナエルとシャルルがイタリア語で母屋の人々と簡単に挨拶を交わす。通訳を務める二人のおかげで、言葉の壁も自然に消えていった。

「さあ、皆さん。温かい食事と飲み物で体を休めてください」

 メリッサの母がにこやかに声をかける。

 長いテーブルには冬野菜の煮込みや新鮮なパン、チーズとハムの盛り合わせが並べられ、薪の炎の香ばしい匂いが室内に漂っていた。

 スザンヌが小さく目を輝かせ、リゼーヌに囁く。

「まあ、やっぱりイタリアの料理は香りからして違うね」

 リゼーヌも笑みを返しながらナイフでチーズを切り分ける。

「メリッサのお母様、料理の腕もさすがだわ」

 ジョルジュは隣に座るマクシムに小声で言った。

「あのときの奇襲作戦の正確さだけじゃなくて、こういう家庭の味も完璧なんですね」

 マクシムは少し苦笑しながら、暖炉の火を見つめる。

「彼女の腕前は驚異的です。戦場でも、家庭でも、きっと同じように正確なんでしょう」

 ソフィーは温かいスープの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、心の中で静かに思った。墓前での悲しみも、航海の疲れも、この暖かい食卓の空気で少しずつ溶けていく。仲間たちと共に笑い、話し、食事を分かち合う時間。それは、戦場では味わえない穏やかな幸福のひとときだった。

 グウェナエルはメリッサの母に感謝の意を述べつつ、テーブルの料理を手に取り少し笑顔を見せる。シャルルも同様に軽く頭を下げてからワインを手に取る。言葉の壁を超えて皆の間に自然な温もりが流れた。やがてリゼーヌとペネロペが笑いながら、これからの休暇の計画や些細な雑談を始めると、室内はまるで冬の寒さを忘れさせる、明るく和やかな空気で満たされた。

 食後。ソフィーは暖かい室内の隅で、メリッサの両親とグウェナエル、ペネロペが話し込んでいる様子を見つめていた。ペネロペは、カンパネッラ家当主から個人的に手紙を受け取っていたため、少し緊張しながらも丁寧に会話を交わしている。やがて両親との会話を終えたグウェナエルとペネロペは、互いに顔を見合わせて小さく笑った。ソフィーが思わず声をかけると、ペネロペがにっこりと微笑みながら答えた。

「ご両親から、メリッサの部屋に行ってもいいって許可もらったの」

 グウェナエルも少し照れたように頷き、ソフィーに向かって軽く手を振った。部屋への案内役は自然にペネロペが務めることになったらしい。ソフィーは胸の中で小さな安堵を覚えつつ、二人の後ろ姿を見送った。冬の柔らかな光が差し込む廊下を、静かに歩く三人の足音が響く。長い旅路の疲れや悲しみも、このひとときの温もりで少しずつ和らいでいくようだった。ペネロペに導かれ、ソフィーとグウェナエルは静かな廊下を抜けて、メリッサの部屋の前に立った。ドアは上品な木目が温かみを帯び、冬の柔らかな光がすき間から差し込んでいる。

「ここだ…」

 ペネロペがそっとドアを開けると、中は思いのほか温かく、優雅で落ち着いた空間だった。壁にはメリッサの趣味がうかがえる絵画がかかり、木製の家具は上品に整えられ、冬の冷気を遮る厚手のカーテンが窓際にかかっている。

 ソフィーはゆっくりと部屋に足を踏み入れ、視線を巡らせた。メリッサの使っていた机の上には、数冊の書物や手紙が整然と置かれており、彼女の几帳面さと知的な一面が伝わってくる。

 グウェナエルはそっと窓際に立ち、外の地中海を眺めた。凍てつく冬の風に波は穏やかで、かすかに光を反射してきらめく。心地よい静けさが、旅の疲れや先ほどの墓参りでの重みを少し和らげてくれるようだった。

「メリッサ、ここで過ごす時間が長かったんだろうな」

 ソフィーが小声でつぶやくと、ペネロペは微笑みながら頷いた。

「そうだね。だから、この部屋に入ると、なんだか彼女が今もここにいるみたいな気がする」

 二人は静かに部屋を見渡し、暖炉のそばに置かれた椅子に腰かける。窓の外に広がる冬の光と、室内の温もりが交わる中で、ソフィーは静かに目を閉じ、メリッサを思い浮かべた。短くも心に残る時間だった。

 グウェナエルは部屋の隅に置かれた小さな棚に目をやった。そこにはいくつかの巻物や小さな筒、手作りの道具が丁寧に並んでいる。その中に、精巧な模型の的と、布や糸で補強された投擲用の小道具が混ざっているのを見つけた。

「これは…」

 グウェナエルがそっと手に取ると、細い金属の部品や重さを調整するための小さな錘が組み込まれている。まるで訓練用の投擲器具のようだが、そこかしこに彼女なりの工夫が見える。

 ペネロペも興味深そうに覗き込む。

「これ…メリッサ、こういうのを作ってたのかな」

 ソフィーはそれを見つめながら、自然と息を呑む。

「なるほど……だからあんなに正確だったのね。単なる感覚じゃなくて、きっと計算と工夫を重ねていたんだわ」

 グウェナエルは棚からもう一つ、投擲用の小さな手袋を取り出す。指先には摩耗防止のための細工が施され、手首の部分には微調整可能な留め具までついている。彼の目に、それが単なる偶然の精度ではなく、長い時間をかけた努力の痕跡だと映った。

「……なるほどな。これなら、あの火炎瓶奇襲も無事に成功したわけだ」

 ソフィーは窓の外を見つめながら小さく頷く。冬の光が海面に反射し、メリッサの静かな努力をそっと照らしているようだった。

「彼女の努力の痕跡と思い出、そっとしておかないとね」

 ソフィーは二人を見つめながら、微笑みと少しの切なさを覚えた。

 三人は最後に部屋を見渡し、そして静かに退室した。その背中には、冬の光の中で静かに刻まれた彼女の記憶が、ほんの少しだけ温かく灯っているようだった。


 廊下を抜けると、玄関ホールには仲間たちが待っていた。マクシムは入り口で振り返り、ソフィーたちににこりと微笑む。

 外は冬の夕暮れ。西に傾く太陽が地中海の水面を黄金色に染め、港の波に反射して穏やかに揺れている。

「今日はこのまま出発だね」

 ジョルジュが少し寂しそうに言った。

「ええ、でも時間が限られてるから……」

 ソフィーが応える。

 そのとき、メリッサの両親が玄関に現れ、温かく見送った。グウェナエルとペネロペは深く頭を下げ、ソフィーも一礼する。

「気をつけてね。次に会うときも、元気な顔を見せてほしい」

 父親と母親の言葉に、ソフィーは小さく頷いた。

 港に向かう道すがら、冬の海風が顔に当たり、仲間たちは沈みゆく夕日を背にしながら船へと急いだ。

 船上に乗り込むとグウェナエルが舵を握り、帆に風を受けさせる。波間に船体が静かに揺れ、地中海の冷たい空気が胸にすっと入る。出港の号令と共に、いつもの船は滑るように港を離れ、冬の海へと進み出した。黄金に染まる水面が、彼らの航路をほんのり照らしている。静かな余韻の中、仲間たちは互いに顔を見合わせ、今日の別れと新たな旅路を心に刻んだ。船が港を離れると、仲間たちは甲板に集まり、それぞれが冬の海風に顔をさらしながら思いを巡らせていた。

 ソフィーは潮の匂いと波の音に耳を澄ませながら、今日の墓参りや実家訪問の余韻をかみしめる。

「メリッサの正確さの秘密、少しわかった気がするね」

 潮風に短い髪を靡かせ、ペネロペが呟く。

 ダヴィットは帆を確認しながら、仲間たちに向けて軽く声をかける。

「次の寄港地までの航路は順調そうだ。まあ、冬の地中海だから油断はできないが」

 グウェナエルは舵を握り、沈む夕日を背に仲間たちを見回した。

「今日は長い一日だった。だが、ここからの航海も大事だ。ゆっくり休みつつ、次の任務に備えよう」

 ジョルジュは風を切る音に耳を澄ましながら、ほのかな期待を胸に抱く。

「海の神も、今日の別れと出発を見守ってくれている気がする」

 ロザリーやリゼーヌ、アニータもそれぞれに短い会話を交わしながら、夕日で染まる水面を眺めた。沈みゆく光が、彼らの背中をそっと押してくれるようだった。船は静かに進む。冬の海の冷たさが心を引き締め、仲間たちの心は次の目的地に向かう意志で満ちていた。遠く地平線に沈む夕日が、彼らの航路を黄金色に照らし、今日の思い出と明日の希望をそっとつなぐ。夜の帳がゆっくりと海を覆い、冬の空は澄み切った深い藍色に染まった。甲板の上では、波が船底を静かに打ち、冷たい風が帆を揺らす音が微かに響く。ソフィーは上着を深く羽織り、夜空に瞬く星々を見上げた。冬の星はひときわ明るく、海の闇に映えて凛とした光を放つ。

 グウェナエルは甲板で舵を握り、穏やかな口調で仲間たちに指示を出す。

「帆の張りを少し緩める。夜露で滑りやすくなっているから注意してくれ」

 ジョルジュは甲板の端で帆索を確かめながら呟く。

「星がこんなに見えるの、久しぶりだな」

 ペネロペがすぐ隣で笑いながら応じた。

「こんな夜は、ちょっと冒険してる気分になれるね」

 ロザリーは静かに航海日誌を覗き込みながら説明した。

「風向きは夜間に変わりやすいわ。帆の角度を微調整して進路を維持しましょう」

 その声は柔らかくも的確で、船上に安心感をもたらす。

 ソフィーは仲間たちの落ち着いた動きと、波と風の微妙な変化に耳を傾けながら、心の中で静かに思った。海は昼とは違う表情を見せ、夜の深い闇に浮かぶ波音と星明かりの道は、どこか幻想的で神秘的だ。甲板の上では、微かな笑い声や会話が交わされる。リゼーヌがふと空を指差して言った。

「見てください、この星の並び。冬の夜は特に星座がはっきりしてて、航海の目安になるんです」

 スザンヌが目を細めながら応じる。

「でも、こんな星空の下で仲間と船にいるって、なんだか不思議に安心するね」

 ソフィーはそれを聞き、胸に温かいものを感じた。冷たい冬の風に包まれているのに、船上には仲間と過ごす心地よい安定感がある。海の暗闇と夜空の星が作る世界の中で、自分たちは確かに前に進んでいる――そして、遠く見える水平線の先には、新しい日々と未知の出来事が待っているのだと、静かに感じた。冬の海は冷たく暗く、夜を徹して帆船は静かに帆を揺らしながら進む。仲間たちは疲労をものともせず、昼も夜も休む間も惜しんで、ただひたすらブレストを目指して船を進ませた。甲板の上では短い会話や軽口が交わされるものの、誰も本格的に眠ろうとはせず、仲間たちの意志の強さがその静かな闇に響いていた。


 やがて港の灯りがかすかに見え、ブレストの街並みが海面に揺れる光となって映る。船はゆっくりと岸壁に寄せられ、仲間たちは自分たちの宿舎へと散っていった。長い航海の疲れが、背中や肩にじんわりと重くのしかかる。だが、マクシムとソフィーは船を降りると、そのまま司令部へと足を向けた。夜明け前の街はまだ静かで、街灯に照らされる石畳が冷たい冬の空気を映している。二人は重厚な司令部の扉をくぐり、用件を告げるとすぐに通された。

「海賊フェルナンドの処刑の件で、正式に報告を…」

 マクシムは緊張を押し殺して階段を上がりながら口を慎重に選ぶ。

 ソフィーは隣で静かに頷き、書類や証拠の準備を整えた。冷たい空気の中、二人はこれから伝える重い事実に胸を引き締めつつ、ブレスト司令部の奥深くへ進む。夜明け前の冬の街を背に、ブレストでの任務と仲間たちの無事を思い浮かべながら二人は厳かに歩を進めた。


 大元帥の執務室は重厚な木製の書棚と革張りの椅子で整えられ、静かな緊張感が漂っていた。窓の外には冬の灰色の光が差し込み、机の上には書類と作戦図が整然と並んでいる。ソフィーとマクシムは深呼吸をひとつずつしてから、机の向こうに座るアルフォンスとイザベルに報告を始めた。

 マクシムはまず口を開く。

「大元帥の勧めに従い、私たちはフェルナンドとともにトゥーロンへ向かいました。到着して三日後、フェルナンドの処刑は無事に執行され、私たちはその全てを見届けています」

 ソフィーが続ける。

「計画通り、混乱もなく執り行われました。部隊や民間人への影響も最小限に抑えられています。必要な書類や記録も全て整っております」

 アルフォンスは書類を手に取り、目を細めて確認する。

「なるほど。経緯も、手続きも報告通りですね。記録に漏れはなく、手順も適切に行われています」

 イザベルは静かに頷き、代理としての責任を示す。

「この内容で問題ありません。フェルナンドの処遇については、今後関係各所への連絡と処理も順調に進められるでしょう」

 マクシムとソフィーは互いに軽く肩を緩め、任務を全うした安堵を胸に感じる。室内の空気は報告の重みと緊張感に包まれたまま、静かに流れていた。

 アルフォンスが慎重に言葉を添える。

「二人とも、よく見届けましたね。任務を全うしたことは評価に値します」

 ソフィーは小さく息を吐き、机の向こうの二人を見つめながら心の中で思った――この報告を終えたことで、戦いの最前線だけでなく記録と責任の世界でも、確かに自分たちは役目を果たせたのだ、と。


 宿舎の食堂は静かで、昼下がりの柔らかい光が窓から差し込んでいた。ソフィーの他には、アニータ、ジョルジュ、リゼーヌの三人だけ。周囲の席は空いており、まるでこの小さな空間だけが世界の全てのように感じられる。

 ソフィーは席につき、静かにフェルナンドの最期を話した。

 ジョルジュは少し顔をしかめ、怒りと苛立ちを混ぜた声で答える。

「フェルナンド、怖かったけど憎めない奴だった。戦争を起こしたのはエドガー・ロジャースのせいなのに、あいつが先に死んで処刑できなかったから、それだけの理由でフェルナンドが全ての罪を背負って処刑されるなんて…正直、吐き気がする」

 リゼーヌも眉を寄せ、少し哀しげな声を落とした。

「フェルナンドさんは完全に悪い人ではなかったのに…。彼が処刑されてしまったこと、本当に残念でなりません」

 アニータは静かに紅茶のカップを持ち上げ、淡々とした口調で言う。

「この世は、完全に善と悪で割り切れるものじゃないわ。誰もが複雑な事情を抱えている」

 ソフィーは言葉を受け止めながら、心の中で何度も反芻した。戦争の渦中で命を落とした者、そして罪を背負った者。それぞれの想いと選択の重さが、静かな食堂の空気の中でじんわりと胸に沈んでいく。

 ソフィーはカップを手に取り、静かに視線を落としたまま話す。

「善と悪に割り切る――以前の私がそうだった。今では、五鬼衆と呼ばれるあの五人組との出会いが、私を良くも悪くも変えた。彼らがいなかったら、触れられなかった考え方、生き方に出会えず、自分の考えを改めることもできなかったから」

 アニータは唇をかすかに震わせ、ぼそっと漏らす。

「…ベルナルドはそこには至らなかった」

 その声は失意に沈んでおり、言葉に重みがあった。

 リゼーヌはすぐに反応した。

「アニータさん、何か言いましたか?」

 アニータは軽く首を振り、声を落として答える。

「いいえ、なんでもないわ」

 だがその瞳の奥には消えない哀しみが映っていた。

 ジョルジュはため息をつき、目を細めながらソフィーを見た。

「それにしても、ソフィーは強いな。なんでフェルナンドについて行こうと思ったんだ?」

 ソフィーは息を整え、言葉を選ぶように答える。

「彼を独りで死なせたくなかったから。でも、そこで見た光景は私にとって衝撃的だった」

 その目には処刑の場で目撃した民衆の表情――憎しみ、怒り、嘲笑、勝利を確信した喜び――が焼き付いている。

「正直、隊長がそばにいなかったら、私は耐えられなかったかもしれない。いや、死を選ぶほど立ち直れなかったと、今ならわかる」

 しばし食堂に沈黙が訪れる。

 アニータはそっとカップを置き、視線を遠くに向ける。

「……その覚悟があるからこそ、あなたはここにいるのね」

 リゼーヌは小さく頷き、言葉少なに続けた。

「そうですね……誰もが同じ強さを持っているわけじゃない」

 ジョルジュは拳を軽く握り、しかし口元には微かな笑みを浮かべる。

「君の話を聞くと、ボクも負けてられないなって思うよ」

 ソフィーは小さく微笑み、視線をテーブルに落としたまま答える。

「ありがとう。皆がいるから、私は歩き続けられるよ」

 食堂の空気には、悲しみの余韻とともに絆の温もりが静かに広がった。

 アニータは眉をひそめながら呟いた。

「そういえば、二人はブレスト司令部に報告したのよね。処刑を見てこいと言ったくせに、肝心の総司令部は報告も待たずに撤収したんでしょう?」

 ソフィーは言葉を選ぶように口を開いた。

「あ、それがその…」

 ソフィーが静かに間を取り、続ける。

「総司令部は、今もブレストにいるんです」

 アニータは驚きの声を漏らす。

「…え?」

 ソフィーは苦笑混じりに話を足す。

「まだパリに帰ってないんです。いや、一部の人は帰ったらしいですけど」

 ジョルジュの声が少し震えた。

「ど、どうして?!」

 ソフィーは少し息をつき、重苦しい空気を伴って回想する。


 先刻前、報告を終えた後のこと。マクシムが軽く眉をひそめ、執務室の静かな空気に口を開いた。

「ところで、なぜお二人はまだブレストにいるのですか?」

 イザベルは机の向こうで静かに答える。

「帰らぬ事情ができたのでね」

 ソフィーは声を潜め、言葉を紡ぐ。

「帰らぬ事情……とは、どういうことですか?」

 アルフォンスが重い口を開く。

「お二人が旅立ったあの日、大元帥は体調不良で倒れたのです」

 その言葉にソフィーとマクシムは思わず目を見合わせ、驚愕の色を隠せなかった。

 イザベルは続ける。

「各部隊にはただちに通達をした。しかし、表向きは各部隊の健闘に対しての休暇ということにしてある。実際は大元帥が倒れたため、海軍としては一時的に活動を休止するしかないという判断だ」

 マクシムは黙って頷き、しかし疑問を抑えきれず問いかける。

「なぜ、本当のことを言わないのですか?」

 イザベルは冷静な瞳で答えた。

「皆に混乱を招くからだ。ただし、そのうち正式に発表はする」

 少し間を置いて、イザベルは自身の立場について語る。

「今は私が大元帥の代理として、私とルソー准将、そしてアルフォンスを中心に総司令部を回している」

 ソフィーは息をのみ、少し恐るように尋ねた。

「そんな、二週間以上も…? えっとその、大元帥の容体は……?」

 アルフォンスは言葉を選び、慎重に答える。

「医師曰く、風邪ではないが熱が高いとのことです。心の問題ではないか、という指摘もあります」

 イザベルは静かに微笑み、最後に優しく告げる。

「まあ、話していても仕方ない。君たちも旅路で疲れたであろう。ゆっくり休みたまえ」

 その言葉を最後に報告の緊張はゆっくりと解け、執務室の重い空気は少しだけ温かみを帯びたものとなった。イザベルとアルフォンスに礼を告げ、ソフィーとマクシムは静かに執務室を後にした。廊下を歩く二人の足音だけが響き、外の光が大きな窓から差し込んでいた。

「大元帥が倒れたとは……」

 ソフィーは小さく息を吐く。

 マクシムも黙って頷く。言葉にできない緊張と安堵が交錯していた。外に出ると、冬の冷たい風が頬を打った。港から差し込む海の匂い、波の音。旅路の疲れが少しずつ体に染み込む。

「考えても事態はそう変わらない。君も休まないと」

 マクシムが声をかける。ソフィーは頷き、深く息を吸い込んだ。目の前に広がる海の景色が、心のざわめきを少しだけ鎮めてくれる。

 二人はキール通りを急がずに歩き、宿舎の扉を押すと室内は仲間たちの笑い声と温かい空気に満ちていた。疲労で重い体も、ここに戻れば少しほぐれる。ソフィーは小さく笑みを浮かべ、マクシムも自然と肩の力を抜いた。窓の外では、日没に染まった空が赤く海面を照らしている。冬の海の静かな光景が二人の歩みを柔らかく包み込んだ。宿舎に戻った瞬間、旅の疲れも総司令部での緊張も、少しずつ日常の空気に溶けていった。


 翌日。午後の光の中、彼女の足取りは自然と外へ向かっていた。庭先に目を向けると、リー・ウェンがグウェナエルと話し込んでいた。

「グウェナエルさん、感謝してますよ。わたしの馬の面倒を見てくださり。彼、すっかりあなたに懐いているのでこのまま託します」

 リーの言う「彼」とは黒い馬のことで、元はリーの愛馬だった。彼が偵察依頼のため遠方へ向かう間、マクシム隊の宿舎に置いていったものだ。以来、馬の扱いに慣れたグウェナエルが世話を引き受けていた。

 ソフィーは馬を見つめ、自然と過去の記憶が蘇る。あの黒い馬には何度も助けられたのだ。直近では、ブレストでの海賊襲撃のとき。謎の男と脱走したフェルナンドを追うため、あの馬に乗って奔走したことを思い返す。体を預けるだけで、彼女を安心させてくれる相棒の存在。黒い馬の瞳にまた無言の信頼を感じた。

 ソフィーはゆっくりと馬に近づいて軽く撫でる。耳にかかるたてがみの感触と落ち着いた呼吸のリズムが、今日の慌ただしさを少しずつ溶かしていくようだった。ソフィーは馬のたてがみをそっと撫でながら、顔を上げてリーに微笑みかけた。

「リー、元気そうでよかった」

 リーは軽く頭を下げ、穏やかな声で応じる。

「ソフィーさん、お疲れ様です」

 その横で、グウェナエルが少し硬い表情でソフィーを見つめる。

「…ソフィー。隊長からフェルナンドのこと聞いた。それに、その後のお前の話も。心中察する」

 具体的には語られなかったが、ソフィーはおおよその内容を理解することができた。

「お気遣いに感謝します」

 グウェナエルの声は落ち着き、少しだけ掠れたように続く。

「当たり前だ。…仲間なんだから」

“当たり前だ”の後に何か小さく呟いた言葉は聞き取れなかったが、ソフィーの胸にはじんわりと嬉しさが広がった。視線を黒い馬に戻し、ソフィーは興味を込めて尋ねる。

「ところで、このお馬さんはなんて名前なの?」

「この子の名は黒龍(ヘイロン)です。黒い龍のように力強く、夜でも風のように駆けるという意味があります」

 ソフィーは目を細め、黒光りするたてがみと鋭い瞳を持つヘイロンを見つめる。あの戦闘の時、頼もしく自分を運んでくれたヘイロン。

 ソフィーはヘイロンの首元に手を添えながら口を開いた。

「龍、ドラゴンよね…?」

 リー・ウェンはにっこり微笑むと語り始めた。

「そうです。が、東洋の龍と西洋のドラゴンでは、ずいぶん意味合いが違います」

 グウェナエルは首を傾げて興味深げに聞き入る。

 リーは説明を続ける。

「西洋のドラゴンはたいてい翼を持ち、四肢も太く重厚で、大地を踏みつける姿が想像されます。多くの場合、火を吐き、悪魔的な存在として語られることが多いですね」

 彼は指でヘイロンのたてがみを軽く撫で、視線をソフィーに向ける。

「一方、東洋の龍はもっと細長く、体はしなやかで、しばしば空を滑るように舞う。爪や角もありますが、力強さだけでなく優雅さが重視されるんです。神聖視されてて、守護や吉祥の象徴として崇められることが多いです」

 ソフィーはヘイロンの背を撫でながら、ぽつりと呟く。

「そういえば…この子、優雅というか、落ち着いた雰囲気ね」

 リーは頷きながら少し笑みを込めて言った。

「そうでしょう?黒龍の名もその意味を込めて付けた。西洋のドラゴンのような荒々しさはありませんが、信頼できる力を秘めています」

 ヘイロンが静かに鼻を鳴らし、冬の空気に溶け込むように白い息を吐いた。

 ソフィーはヘイロンを見つめながら目を輝かせた。

「リー、もっと教えて。東洋の龍と西洋のドラゴン、他にどんな違いがあるの?」

 リーはまるで自分の知識を誰かに伝えるのを待ち望んでいたかのように、息を整えた。

「ふむ、では話しましょうか。まず西洋のドラゴンは、先ほども申しましたように、恐ろしく邪悪な存在として描かれることが多いです」

 ソフィーは頷き、ヘイロンの黒光りする毛並みを撫でながら聞き入る。

 リーはさらに熱を帯びて続けた。

「一方、東洋の龍は神聖で、雨や水を司る存在として尊ばれ、人々に幸運や繁栄をもたらすとされています」

 グウェナエルも頷きながら、静かにその解説を補足する。

「西洋と東洋で、龍に対する敬意や恐れの根源が全く違うんだな」

「そうです。それに加え、東洋の龍は皇帝の象徴であり、天の意志を示すものでもあります。伝説には人々を救うために現れるものも多いです。逆に西洋のドラゴンは人々に災厄をもたらす者として語られ、勇者が退治する対象になることが多い。つまり、東洋の龍は調和と力の象徴、西洋のドラゴンは試練と征服の象徴…」

 語気は熱を帯び、まるで一冊の書物を丸ごと朗読するかのようだ。

 ソフィーは耳を澄ませ、ヘイロンをそっと撫でながらその話に引き込まれていった。

「東洋の龍は、時に人間の姿を借りることもあります。賢者や守護者として現れ、必要な時に助言や加護を与えるのです。この黒龍も、あなたが危機に陥った時にそばにいて、導いてくれたのかもしれないですね」

 ヘイロンの瞳が光を受けて黒曜のように輝き、三人の前に静かに立っている。ソフィーはその姿に自分の運命や選択を重ねながら、胸の奥に新たな決意を抱いた。ふと自分の首元に手をやり、銀細工の首飾りをリー・ウェンに差し出した。

「…あ、もしかしてこれも龍?」

 銀の龍と蛇が絡み合い、その中心には淡い青のアクアマリンが輝く。まるで二つの生き物が財宝を護るかのように。

 リーの瞳が瞬き、すぐに熱を帯びた声を響かせる。

「おお、まさしく東洋の龍ですね!しかも、この銀細工の精巧さ。これを作った職人は相当な腕前でしょう。わたしでも、これほどの品は滅多にお目にかかれません」

 グウェナエルが腕を組み、興味深げに首をかしげる。

「ほう、そんなに高価なものか」

 彼は続けて言う。

「以前から気になってたんだ。アクセサリーに興味なさげなソフィーが、なぜ着けているのか」

 ソフィーは小さく眉をひそめ、軽くツッコミを入れる。

「…あの一言余計では」

 だが彼女はすぐに顔を上げ、静かに説明した。

「これは大切な友人からいただいたものです。いわば、約束の証ですね。元々はその友人の物でした」

 リーは頷き、目を細めて真剣な声で言った。

「ふむ。そのような品を持っていたご友人、さぞかし立派な立場の方でしょうね」

 グウェナエルは視線を首飾りに落とし、ひと息ついて口を開く。

「龍の意味はわかった。だが、なぜ普通の蛇もいるんだ?」

 絡み合う龍と蛇――その形が、静かに三人の視線を引きつける。グウェナエルの疑問を受け、リー・ウェンは首を傾げて深く息をついた。

「なるほど…では、少し説明しましょうか」

 ソフィーとグウェナエルの視線が集中する。リーの声は穏やかだが、ひとたび話し始めるとまるで弾丸のように熱を帯びて流れ出す。

「東洋において、蛇は龍の伴侶や使いとして描かれることがあります。龍が天を象徴するなら、蛇は地や水の象徴として調和を保つ存在です。龍が天と人を結ぶなら、蛇は財宝や智慧を守るものとして描かれることもあります」

 ソフィーは首飾りの銀細工を見つめて頷く。まさに目の前の龍と蛇の構図そのものだ。

「一方、西洋では蛇はしばしば誘惑や災い、悪魔的存在として描かれます。皆様の身近なもので例に挙げるなら、エデンの園での一場面ですかね。知恵や再生の象徴として扱われることもありますが、多くは危険で邪悪なイメージが強いですね」

 リーはゆっくりと視線をソフィーの首飾りに戻す。

「この首飾りに龍と蛇が絡む意味は、ただ美しいだけではありません。東洋の伝承的には、龍が天空や精神的な力を表すとすれば、蛇は現世的な智慧や財宝を象徴します。つまり、この二つが互いに守り合い、力を均衡させる。ご友人があなたに授けたのは、まさに『守るべきものと、守られるもの』の象徴でしょう」

 グウェナエルは腕を組み、しばし黙って首飾りを見つめる。

「なるほど…そういう意味があったのか」

 ソフィーは静かに頷き、胸の奥で暖かいものを感じた。

「約束の証…つまり、友人との誓いを守るための象徴ということね」

 リーは満足げに微笑む。

「その通り。単なる装飾ではない、意味を込められた品。あなたが身につけることで、龍と蛇が互いに守り合うように、あなた自身も守られ、導かれるわけです」

 ソフィーは首飾りに指を沿わせ、そっと息をついた。龍と蛇の銀細工が光を受けてきらめき、まるで自分の胸の中で約束の力が静かに息づいているかのようだった。彼女が首飾りを胸に触れたまま微笑んでいると、リー・ウェンの目がさらに輝きを帯びた。

「さて、龍と蛇についてもう少し付け加えましょうか。東洋では、龍は天候や水の流れを司り、天と地をつなぐ存在です。そして蛇は、龍の力を現世に伝える媒介とされることがあります。つまり、龍だけでは力は空回りし、蛇だけではその力は限定的になるのです」

 ソフィーは頷きながら聞き入る。グウェナエルも興味深げに眉を寄せた。

「風水的な見方をすれば、この二つが互いに絡み合うことは極めて良い意味を持ちます。龍が天の吉祥を運ぶとき、蛇は地の吉祥や財を守る。二つが揃うことで、全体の調和が生まれるのです」

 リーは指で首飾りを軽く撫で、続ける。

「あなたがこの首飾りを身につけることで、友人との約束や守るべきものが、自然とあなたの力と調和し、あなた自身を支える。東洋の伝承ではこうした象徴が身近にあることで、心の迷いや決断の道筋も正されると言われています」

 ソフィーは首飾りをじっと見つめ、深く息をついた。

「…なるほど、私がこの首飾りを大切にする意味、やっと分かった。友人との約束、守るべきもの、そして自分自身の決意…」

 グウェナエルが少し笑みを漏らす。

「そうか…それでお前は、どんな状況でも迷わず前に進めるんだな」

 リーは満足げに頷き、静かに言った。

「東洋の伝承も、こうして現実に役立つことがあります。龍と蛇のように、互いに補い合い、守り合う関係を、あなた自身も心に持つといいでしょう」

 ソフィーは首飾りを握り締め、胸の中で静かに決意を固める。

「ええ、必ず守る。仲間も、約束も、自分自身も」

 リーの熱弁と解説を聞き終えたソフィーは、思わずくすくすと笑い出した。

「でもね、リー。偶然にしては、よくできた話だと思うの」

 リーは首をかしげ、少し興味深げに問いかける。

「と、いうと?」

 ソフィーは首飾りを軽く握りながら、楽しげに続ける。

「私がこれをもらった時、まだお互いほんの子供だったのよ。たしか二人で約束はした。でも、一個一個の意味や要素の解説を聞くと、とてもよくリンクした話だなって思うの」

 リーは首飾りの中央に光るアクアマリンに目を留め、柔らかく微笑む。

「なるほど、その宝石も無意味ではありませんね。アクアマリンは水の精を象徴し、航海や旅路を護る力があると伝えられています。心を清め、危険から守るお守りとしても古くから珍重されてきました。つまり、龍と蛇が財を護ると同時に、この宝石が身を守る意味を持つ。なるほど、これは非常に縁深い組み合わせです」

 グウェナエルは腕を組み、やや呆れたように笑みを浮かべた。

「結局、偶然の産物ってわけか」

 ソフィーの笑顔は和らぎ、首飾りの銀細工の龍と蛇が午後の陽射しに微かに光る。偶然が紡いだ縁の妙と、自分たちの小さな約束が、今もこうして形になっていることを実感していた。

 ヘイロンは穏やかに鼻を鳴らし、三人の間に静かに息づく時間を感じさせる。宿舎の中庭には、まだ見ぬ日々の冒険と、守るべきものへの決意が満ちていた。

 ソフィーは静かに首元の銀細工を撫でた。龍と蛇が絡み合い、中央に輝くアクアマリンは、かつての約束を守るかのように揺れている。冬の淡い陽光が宝石の青を柔らかく反射し、手のひらに微かな温もりを落とした。だが、胸に浮かぶ思い出は甘くはなかった。

 あの友人とはあの海岸で誓いを交わして以来、しばらく会っていない。

 久々に訪れたヴール・レ・ロズの屋敷――あの場所――は、もぬけの殻で暗闇に緋色が滲んでいた。あれはおそらく血の痕。屋敷で何が起きたのか、ソフィーは知らない。ただ思い出すだけで背筋が凍り、記憶は無意識に封印されていた。

 ソフィーは首飾りを指先で軽く転がしながら小さく息をつく。

 ―――ラウル、一体あなたに何があったの?

 ―――なぜ、ずっと会えないままなの。

 冬空に漂う冷たい風が頬を撫で、まるで答えを持たぬ天の静寂がソフィーの問いに応えているようだった。天を象徴する銀の龍に目を留め、絡み合う蛇が宝石を守る姿に、かつての約束と友情が確かにここにあることを感じ、思わず笑みが零れた。偶然にしては、あまりに見事な巡り合わせだ。

 ソフィーは冬空を見上げ、心の奥深くで呟く。

「もしあなたたちが見えるなら、答えてくれるかな」

 青い光がソフィーの手元で瞬く。首飾りのひとつひとつの造形、龍の躍動、蛇の巻きつき、アクアマリンの澄んだ輝き――すべてが、遠い過去の約束と、今も心に残る友情の証であることを語っていた。

 ソフィーは首飾りを握りしめ、視線を冬空に向けたまま、心の奥で自分に問いかける。

 ―――いつか、ラウルに会えるのだろうか。

 ―――あの時の約束を、私たちはまだ果たせていない。

 胸の奥に確かな決意が芽生える。過去を振り返るだけでは、答えは見つからない。あの緋色の屋敷で何が起きたのか今も不明のまま。しかし、恐れや悲しみに飲まれるのではなく、真実を知る覚悟を持たなければならない。

「私が動かなければ、誰も助けられない」

 ソフィーは静かに息を吐き、肩の力を抜く。首飾りの冷たい金属の感触が、心を少しだけ落ち着かせた。龍の躍動する銀細工と、蛇が宝石を守る姿は、まるで自分の決意を映す鏡のように感じられた。

 そして、心の中でそっと誓う。

「ラウル、いつかあなたに会う時まで、私は変わらずここにいる。あなたを見つける。その時、あの約束を果たすために――」

 冬空の淡い光が首飾りのアクアマリンに反射して青く輝いた。それは過去と未来、友情と決意が交錯する瞬間だった。ソフィーの瞳には、これから進むべき道が少しずつ見えていた。


 ソフィーとマクシムがトゥーロンへ向かっていた裏で、総司令部では何が起きていたか。

 曇天の影が重く垂れ込め、海風にかすかに震える窓硝子が低い音を響かせていた。ここはブレスト城。総司令部の中枢にあたる大元帥の執務室。重厚な机を囲むように、イザベル、ルソー、アルフォンスの三人が腰を据えていた。大元帥エリオットの不在を埋めるべく、彼らはこれからの方針を巡って議論を続けている。

「エリオットはまだ回復しないのか?」

 腕を組み、苛立ちを隠さぬ声音で問うのはルソーだった。

「大元帥は、倒れたあの日から熱が一向に下がりません」

 アルフォンスは冷静に応じる。書類の束を机に並べながら、その端正な横顔には陰りが差していた。

「医師によれば、ただの風邪ではないそうです。恐らく心の問題かと。……あの真面目なお方が職務を放棄するなど、本来あり得ないのですが」

「戦乱続きだと、どんな強い奴でも壊れるぞ」

 ルソーは鼻を鳴らし、椅子の背に深く身を投げかけた。

「壊れないやつは――よほど戦を愛してるか、人間じゃねえか、どっちかだ」

「……いまさら自己紹介か?」

 イザベルがニヤリと笑って鋭く切り返すと室内にわずかに緊張が走る。

「うるせーな!」

 即座に返すルソーの声音にいつもの血気と照れが入り混じった。

「エリオットが回復しなければ、私達もブレストに留まるほかないわね」

 イザベルは机上の地図を見下ろしながら冷徹に言葉を継いだ。

「けど、いつまでもパリに残した連中を少人数で働かせるわけにもいかない。こちらは書記官が五人、我々三人……そうだ、ベルリオーズもいた。なら書記官は全部で六人か。書記官は一人で充分だ、五人はパリに帰すとしよう。アルフォンス、人選はあなたに任せる」

「承知いたしました!」

 即座に背筋を正したアルフォンスは、力強く答えた。

「では――ベルリオーズくんをこちらに残します!」

「……お前ら、そんなに仲良かったか?」

 ルソーが片眉を上げ、半ば呆れたように口を挟む。

「司令官と参謀本部の連中も、二人ずつ残す方向でいい?」

 イザベルは視線を鋭く巡らせながら提案を続けた。

「戦闘もないのなら、頭脳は二人いれば申し分ない。それに、彼らには他国との戦闘や密輸取り締まりといった職務もある。暫くはそちらに集中させるためにもパリに戻す。……異論はあるかしら?」

「承知いたしました」

 アルフォンスは即座に返答し、背筋を正す。

「異論はないぜ」

 ルソーも腕を組み、短くうなずいた。

 イザベルはちらとルソーを見やり、わざとらしく問いを投げる。

「ユルリッシュ、君はどうしたい? このまま他国との戦闘に繰り出してもいいし、ここに残っても構わないけど」

「なんだ、やけに素直だな。まあいい、緊急を要するからな」

 ルソーは鼻を鳴らし、椅子にもたれかかった。

「オレはエリオットがちゃんと自分の足で立つまで見守るぜ。それに、オレの部隊一つでも残せば、ブレストは無敵の要塞だ」

「……もともとブレスト城は要塞として十分な出来なんだけど。まあいい、いちいち突っ込んでいてはキリがない」

 イザベルは肩をすくめ、冷めた声音で返す。

「さて――エドガー・ロジャース率いる海賊連合によって我々は厳しい戦局を迎えたものの、“ブレスト鉄壁の盾作戦”により無事勝利で終わらせた」

 イザベルは組んだ腕をほどき、机上に置かれた報告書の山へと視線を落とした。

「ブレストに集結した各艦艇部隊の状況を確認しましょう。アルフォンス、まとめてちょうだい」

「はい!」

 アルフォンスは椅子からわずかに腰を浮かせ、手元の書類を広げた。

「まず、船舶や備品の損傷状況です。海賊どもによる砲弾の雨で、甚大とは言えませんが海軍としての戦力は大きく削がれました。造船所や各専門家の監修を仰ぎつつ、修理には数か月を要する見通しです」

 ルソーが腕を組み直し、短く鼻を鳴らした。

「……予想通りだな」

 アルフォンスは続けた。

「次に隊員の負傷状況と死傷者についてです。各部隊の負傷者はブレスト城の医療班の尽力で徐々に回復しています。衛生状態も良好で感染症の心配もほとんどありません。ただ……」

 一拍置き、声を落とす。

「今回も多くの犠牲は避けられませんでした」

 イザベルの指示により、アルフォンスがまず各部隊の集結状況を報告する。

「ブレストには、第一艦艇部隊、第二艦艇部隊、第三艦艇部隊、第五艦艇部隊、第七艦艇部隊が駐留しています。一回目の霧中戦、二回目の夜間戦後、増援要請で各部隊に小隊が追加されました」

 報告書には各部隊の内訳も明記されている。

 第一艦艇部隊が全三小隊。

 第二艦艇部隊は二小隊、加えて隠密任務を一任された部隊もいる。

 第三艦艇部隊は一小隊が補給任務を担い、第五艦艇部隊は二小隊が沿岸監視を担った。

 そして海賊討伐が主な任務である第七艦艇部隊。

 こちらは全三小隊がブレストに集結した。

 ルソーが腕を組み、険しい表情で聞き入る。

 アルフォンスは死傷者について報告を続けた。

「一回目の霧の中での海賊襲撃では、第一艦艇部隊の小隊ごとの平均死傷者は十二名、第七艦艇部隊は十三名です。霧の隙間から砲煙が立ち上り、兵士たちは互いの声を頼りに進むしかありませんでした。二回目の夜間戦では第一が十四名、第七が十五名負傷または戦死しています。増援後の部隊で人数は補われましたが、現場の緊張は変わりません。漆黒の闇に紛れた敵の動きに、小隊は懸命に応戦しました」

 ルソーがふう、と息を吐く。

「なるほど。霧や夜間の不利な条件でも、よく持ちこたえたな」

 アルフォンスはさらに三回目の長期戦を報告した。

「三回目は朝から夕方まで続く長期戦でした。大型戦列艦三隻に第一と第七が乗艦し、五十隻の海賊船団に接近、白兵戦を含む防衛戦に臨みました。帆が裂け、甲板は飛び散る破片と血で滑りやすくなり、兵士たちは一歩ずつ前進しながら敵を押し返しました。この戦闘で第一は一小隊あたり十八名、第七は二十名の死傷者が出ています」

 イザベルは冷静に書類を見下ろす。

「では、全体での死傷者数は?」

 アルフォンスは計算を示した。

「三回の戦闘を通じ、第一と第七だけで合計約二百十名の死傷者です。各小隊平均は第一が十四名、第七が十六名。他の部隊は直接戦闘が少ないため被害はわずかですが、それでも任務負担は小さくありません」

 ルソーは目を細め、重みを感じさせる声でつぶやく。

「うむ…部隊人数によって、数字の重さは全然違うな。第一や第七にとっては、かなり痛手だ」

 アルフォンスは頷き、衛生状態や負傷者の回復状態も補足する。

「現在、医療班の尽力で負傷者は徐々に回復傾向にあります。衛生環境も良好で、感染症の心配も少ないとのことです」

 アルフォンスが報告を終えると部屋の空気にしばし沈黙が落ちた。

 ルソーは椅子にもたれて低く鼻を鳴らした。

「……平均十四名と十六名か。五十から八十名規模なら持ち堪えられるだろうが、二十名規模の部隊だと現場の重みは全然違う。紙の上じゃ同じ“十数名”でも、体感はまるで違う。城や甲板で戦った兵士たちの苦痛や緊張は計り知れん」

 イザベルは軽く眉を寄せつつも冷静に答えた。

「それでも全滅や壊滅に比べれば遥かに抑えられたわ。敵が海賊連合であったことを考えれば、むしろ幸運と言うべきでしょう」

 ルソーは鼻を鳴らす。

「お前はいつもそうだな。数字で割り切って気楽かもしれんが、兵の尽力は数字の一つじゃねえ。城と甲板上で互いの声に頼り、血と火に包まれながら戦った奴らのことも称えろ」

 アルフォンスは慌てて二人の間を取り持つように口を挟む。

「ですが、ルソー准将のおっしゃることも、ボナパルト副司令官の見立ても、どちらも正しいかと存じます。被害は確かに痛手ですが……ここで士気を崩すわけにはいきません」

 イザベルが小さく笑みを漏らし、肩をすくめた。

「なるほど、さすがはシャトレ家。代々海軍のトップの側近を務めているだけあるな。口調まで上手く折り合いをつける」

 ルソーはふん、と鼻を鳴らした。

「ま、言いたいことは言ったさ」

 報告を一通り聞き終え、イザベルは指先で机を軽く叩いた。

「さて……次はランデヴァンネックの件ね。アルフォンス、続けて」

 アルフォンスは頷き、手元の書類に目を落とした。

「はっ。現在、第五艦艇部隊が引き続き監視・調査を行っております。現時点では不審な船舶や人物の確認はありません。ランデヴァンネックは、海賊団の拠点としては機能していない様子です。第五艦艇部隊からは、今後も海上から監視を続けるとの報告を受けております」

 ルソーは大きく息を吐き、肩を回した。

「まあ、奴らも一度叩かれりゃ尻尾を巻くか……だが、空いた拠点ほど厄介なものはない。誰が住み着くか分かったもんじゃねえ」

 イザベルは冷静に応じる。

「同感。空白地帯ほど好事家を呼ぶものはないわ。監視は続けるように」

「承知いたしました」

 イザベルは椅子にもたれ、静かに吐息を漏らす。

「海賊の脅威は一先ず遠のいたけど、ブレストの周辺が真に静穏になることはないでしょうね」

 短い沈黙の後、会議室に張り詰めた空気が漂う。その空気を破ったのはイザベルだった。

「……さて、もうひとつ触れておかねばならん問題がある。旧ブルボン派の動きについて」

 ルソーが眉をひそめる。

「ったく、あいつらの名前を聞くだけで胸糞悪いな。海賊より厄介だぜ。根を張る場所も分かりにくい」

 アルフォンスは表情を引き締め、慎重に言葉を選び、淡々と報告を重ねる。

「各地で旧ブルボン派残党の活動が確認されています。武力衝突はまだ表立ってはないものの、亡命貴族を中心に資金力を持ち、国外から傭兵を雇っているとの報もあります」

 イザベルが口を開く。

「しかも奴らは“簒奪者”という言葉を好んで使う。現国王をそのように呼び、民衆を揺さぶろうとしている。……今は小さな火種に過ぎないけど、放置すれば大火になるかもしれない。私としてはすぐに消火したいところね」

 ルソーは拳を握り、苛立ちを隠せずに声を荒げる。

「……正義だの復古だの、どっちにしろ民衆に血を流させるだけだ。海賊退治の次は内輪揉めか。オレたちゃいつまで戦い続けるんだ?」

 イザベルは淡々と答える。

「戦がある限り、我々に休息はない。けど見誤るな、ユルリッシュ。海賊は“敵”。旧ブルボン派は“裏切り者”だ。この違いは大きい」

 アルフォンスは静かに頷き、記録を取りつつ補足を加えた。

「……先日の件に関して、副司令官の指令で動いていた第二艦艇部隊からも報告が届いております。陸路を用いた情報収集や潜入活動を進め、ベルリオーズくんの実家、モンレザール家当主――十四代目コルヴァン殿の尽力もあって重要な手掛かりを掴みました」

 イザベルは顎を軽く引いて促す。

「ベルリオーズがパリで幾度も顔を合わせたという男の正体は?」

 アルフォンスは書類を見下ろし、淡々と答える。

「ピエール・ダラス、ダラス家の三男でございます」

 室内の空気が一瞬、重くなった。ルソーが苦虫を噛み潰したような表情で机を叩き、低く声を漏らした。

「ちっ……! 通りで身のこなしが優雅だと思ったんだ、あの野郎。パリで一度顔を合わせた時に気づくべきだった……ダラス家の三男坊とはな」

 アルフォンスは無表情で続ける。

「彼は狩猟仲間と称して私兵を持ち、フェルナンドとベルリオーズくんの毒殺、そしてフェルナンドの脱走を裏で手引きした可能性が高いと見られます。ブレストでの聞き込み調査でも、目撃情報が報告されております」

 イザベルは机の上で腕を組み、前のめりの姿勢を取った。

「……つまり、今回の一件は単なる海賊の暴走ではない。旧ブルボン派と通じる貴族――ダラス家が背後にいた、ということね」

 イザベルの洞察を受け、ルソーは拳を握りしめた。

「冗談じゃねえ!ダラス家といえば、国王を戴冠当初から支えてきた人柱の一族だろうが!そんな連中が裏でブルボン派とつるんでるとは、許せるか!」

 イザベルは冷徹な声で遮る。

「許す許さぬの話じゃない。問題は、この事実をどう扱うか。もし王宮に即座に報告すれば、“国王の信頼する名門”が裏切り者だったと知れ渡って、政界は混乱して海軍も揺らぐ」

 アルフォンスが深刻な面持ちで付け加えた。

「……民衆まで巻き込めば、正義の名の下に熱狂する群衆は“誰を敵とすべきか”を見失うでしょう。旧ブルボン派とダラス家が結びついている事実は重すぎます」

 ルソーは舌打ちをし、天井を仰ぐ。

「じゃあどうする。見て見ぬふりをしろってのか?」

 短い沈黙の後、イザベルが決然と結論を下した。

「世間に伝えるべきは、あくまで“海賊が結束して我らに牙を剥いた”という事実のみ。海賊に拠点を提供し、資金を流し込んでいたなど貴族の裏工作は一切触れてはならない。海軍も、王宮も、民衆も……政治の闇に惑わされるべきではない」

 アルフォンスは静かに頷き、議事録に記した。

「――“旧ブルボン派およびダラス家の関与は秘匿。報告の際は一切触れず、海賊の組織的反抗として処理する”」

 ルソーは悔しげに息を吐いた。

「……クソッたれな話だ。だが、民を混乱に巻き込むよりゃマシか」

 会議室に重苦しい沈黙が落ちる。三者は皆、知っていた。

 真実は闇に葬られる。それこそが、彼らに課せられた“正義”なのだと。

 ランデヴァンネックの件と旧ブルボン派の影を踏まえ、室内にはしばし重苦しい沈黙が落ちた。

 イザベルは深く息をつき、椅子にもたれたまま静かに前方を見据える。

「……当面は、私が大元帥代理として行動する」

 その言葉にルソーはまるで当然のことだと言わんばかりに立ち上がり、拳を軽く握った。

「そりゃ当然だ!頼む、しっかり頼むぞ。エリオットが完全でない以上、海軍としては組織そのものがグラグラだ。正直、この会議の取り仕切り一つとっても、お前がいなかったら完全に崩壊してたぜ。そりゃお前しかエリオットの代理は任せられねえって話だ!」

 アルフォンスは書類を手に微かに眉を寄せ、慎重に声を落とす。

「はい……ですが、副司令官、くれぐれもご無理はなさらぬよう。私も全力で補佐いたします」

 イザベルは軽く笑みを漏らし、机の上に手を置く。

「……ありがとう。でも私は、止まったままではいけない」

 ルソーはにやりと笑い、イザベルに向けて軽く肩を叩いた。

「オレがついてる、心配すんな!こっちも負ける気はねえ」

 アルフォンスはその言葉に頷き、筆記具を握る手に力を込めた。

 イザベルはふと穏やかな調子で頷く。

「そういえば、陸軍は帰ったかしら?」

 アルフォンスが書類をめくる。

「一週間前に全部隊が無事にブレスト城から撤収しています。今回の戦闘において砲撃支援にも尽力いただきました」

 イザベルは軽く目を閉じ、息をつく。

「そう。エリオットが回復したら、改めて礼を伝えに行くとしましょう」

 ルソーは鼻を鳴らす。

「陸軍もちゃんと頼もしいな。そういや第六部隊はどうした?」

 アルフォンスは控えめに報告する。

「すでに撤収しております。あの戦闘後、新兵器の開発成功を胸に早々に帰還しました」

 イザベルは少し眉をひそめる。

「相変わらず帰るのが早いわね……突然戦場に現れては兵器を試し、また早々に帰る。いつものことだけど、今回の対海賊戦では二つの新型兵器の理屈について確認しておきたかったわ」

 アルフォンスが応じる。

「司令官の一人が詳細を聞いておりますので、後でまとめた報告として提出いたします」

 ルソーは拳を握り、熱気を帯びた目で語った。

「連結剣と震撃砲、どちらもよくできてたぞ。特に震撃砲は海賊船群をぐらつかせるのに最高だった」

 イザベルは冷静に頷きながらも目を細める。

「震撃砲……発射時の低い唸りと、弾体が水面に着弾した瞬間の衝撃波が前衛の小型船を激しく揺さぶった。航行や砲撃の精度を乱すには十分だったわ」

 アルフォンスも手元の書類にメモを取りつつ付け加えた。

「船体を破壊するほどではないものの、前衛の海賊船の動きを封じて戦闘を有利に展開できたとの報告です。連結剣も熟練者による運用で敵の前衛を切り崩す補助として有効だったようです」

 ルソーは少し目を細めて腕を組む。

「戦場じゃ、目の前で奴らの剣や槍が絡め取られて、船員がバランス崩す光景は壮観だった。ああいうのを見ると、やっぱり兵器の威力は数字だけじゃないな」

 イザベルは冷徹に微笑み、机に手を置く。

「ええ。戦術として成功と見ていいでしょう。連結剣も震撃砲も、次の海賊戦で活かす価値があるわ」

 アルフォンスは頷き、戦果を整理して記録に残した。

「副司令官。次回作戦でも活用できるよう部隊展開を含めて報告としてまとめます」

 彼は手元に記録をまとめながら付け加える。

「次回の作戦に向けて、震撃砲の射線をさらに前方に伸ばす案を検討中です。また連結剣を扱える隊員の教育を強化することで、前衛戦闘の安定性を高める方向です」

 ルソーは軽く頷き、少し目を細める。

「なるほどな。前衛を揺さぶる震撃砲と、熟練者による連結剣。次はもっと効率的に動かせるか」

 イザベルは冷徹な声で締める。

「ええ。兵器の性能を最大限に活かし、海賊との次の戦闘でも有利を取る。準備は怠らない」

 ルソーは窓の外を見上げ、低く息をついた。

「よし……これで海賊対策も一段落か。あとは、オレたちがこの城と艦隊を守るだけだな」

 イザベルは冷徹ながらも確固たる表情で答える。

「ええ。各部隊の役割は明確。統率は私が行い、必要な情報はアルフォンスが整理する。任務は重いけど、これで戦闘の損失を最小限に抑えて次に備えられる」

 アルフォンスは軽く頷き、筆記具を握り締めた。

「承知しました。三者での確認事項、全て記録いたします」

 ルソーは拳を握り直し、熱を帯びた目で二人を見渡した。

「よし、ならオレは思いっきり戦力を振るうだけだ。副司令官、頼むぞ」

 イザベルは静かに微笑み、机に手を置いたまま答えた。

「……ええ、任せて」

 室内に落ちる沈黙は兵器の威力を体感した三者の確信と、これから続く戦いへの覚悟を象徴していた。沈黙の中、三者はそれぞれの視線を前方に向けた。砲声や剣のぶつかる音はまだ遠い――しかし次の戦いに備えた決意だけは、すでにこの部屋に満ちていた。


 執務室の静寂から少し離れた奥、ブレスト城内の一室。大元帥の寝室には、ベッドに横たわるエリオットの荒い呼吸だけが響いていた。体は衰弱し、額には薄く汗が光る。目を閉じながらも、頭の中にはかつての親友――伝説の海賊、ゼフィランサスの姿が浮かんでいた。微かに笑むその影を見つめ、エリオットは苦しげに唇を動かす。

「とんだ置き土産だな、ゼフィール……」

 声はかすれて床に落ちそうなほど小さくも、ゼフィランサスに向けられた言葉だった。さらに視界の奥では銀細工の龍と蛇、そして青い宝石をあしらった首飾りの記憶がちらつく。

 ソフィーが手にしていた、あの不思議な輝きを放つネックレス。

 指先に触れた感覚まで脳裏に蘇った。

「そうだ、あのネックレス……」

 喉がつまるように、エリオットはさらに息を吐き、弱々しく続けた。

 その首飾りを通して、一人の少年の面影が静かに浮かぶ。

 幼い瞳、柔らかな髪、どこか懐かしい香り――。

「ラウル……」

 その名と共に、微かに微笑む少年の姿が薄暗い病室に光を落とした。

 ベッドの傍らには静かに時計の針が刻を刻む。

 エリオットの心は過去と現在、そして未来への想いを交錯させながら、次なる決意への道筋を模索していた。

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