ハルピュイアの鎮魂

静谷悠

小学生編

序章


――遠き山に日は落ちて

星は空を散りばめぬ

今日のわざをなしおえて

心軽く安らえば

風は涼しこのゆうべ

いざや たのし

まどいせん



 ……まどいせん……の最後の音響が夕空に吸い込まれたところで、水埜みずのあきらは、うっすらと目を開いた。――

 朽ちかけた格子戸の間から、あかがねいろの夕日が差し込み、宙に舞う埃をキラキラと浮かび上げている。

 眠っていたのだ……誰もこの壊れた社務所を探すことは思いつかず、晶を見つけることができなかったのだ。

(おれの勝ちだ)

 少年の頬に浮かんだ微笑は、わずかの間にかき消えた。


 静かすぎる。……


 鬼だった啓介の声も、先に見つかっているはずの他の子の声もない。

(見つからないから、諦めて先に帰ったのかな……)

 そこまで考えたところで、ようやく、さっき目覚めかけたときに聞いた、遠くのスピーカーから流れる、甲高くかすれたメロディが耳によみがえった。


 ……まどいせん……

 (しまった)

 無意識に息を吸い込んだ晶の喉は、割れ笛のような音を立てた。

 (帰らないと……)

 じわじわと冷や汗が背に滲む。


 (うそりよだかが来るぞ)

 そう言ったのは、啓介? いや、最初に言い出したのは恵梨花だったかもしれない。

 (きまりを守らない子には、うそりよだかが来るわよ)

 (そりかえった羽の下は真っ暗で)

 (泣きながら飛ぶのよ、真夜中に)

 (泣いてるのは、よだかじゃなくて、)

 (お腹に飲み込まれた子どもたちなの……)


 馬鹿馬鹿しい……

 あんな、子供だましの怪談を思い出して怖くなるなんて。

 

 今は、怪談よりもっとがあるというのに。

 

 そっと壊れた格子戸を押し開ける。細心の注意を払ったにもかかわらず、弱った格子が軋み、一本が呻くような音を立てて、折れた。同時に舞い上がった埃がまともに気管に入り、晶は激しく噎せながらえずいた。

 秋虫が、草むらいっぱいに鳴いている。

 (帰らないと。早く……静かに)

 気ばかり焦っても、なかなか咳は治まらない。そのとき、近くのスピーカーが、砂のような雑音を立て、耳に馴染んだ声を吐き出した。


「えー……こちらは、防災……防災……稲敷町……

 警報……蟲害警報……レベル2が発令……されました……

 外出中の町民は……ただちに……耐害三レベル以上の建物か……お近くの……防災壕に避難してください……繰り返します――」


 唾を飲み込んで、晶は走り出した。乾いた地面に短靴が鳴る。必死に足を動かしているのに、神社の境内は広く、なかなか裏通りにたどり着かない。

 (一番近い防災壕って……)

 息が上がり、喉が焼ける。

 翼化して飛んだほうが早いのは分かっていたが、いたずらに注意を引いてしまう可能性が高かった。

 

 その時、虫の声が止んだ。

 

 空気が急に冷たくなる。空から、むっとするような臭気の風が吹いてくる。つんと鼻を、のどを刺すこの臭いは……そう、腐った肉の臭いだ。

 がくがくと震える足で石段を駆け下りようとしたとき、ざっと空がかき曇り、「それ」が来た。

 

「百足」型の夜蟲だった。

 

 いくつもの脚が体節からギチギチと音を立てながら蠢き、牙に似た嘴が粘液を垂らしながら蠢く。

 そしてその向こうには、ぬるぬると青白く発光しながら、無数の「蛞蝓」型の夜蟲が晶を取り巻こうとしている。半透明の身体の中で、黒ぐろと流れる体液までもが見えた。

 足が強張り、喉を悲鳴が貫いた。

 逃げなくてはいけないのに。

 足が動かない。

 叫んじゃ駄目だ、かえって刺激するのに……

 なのに悲鳴を抑えられない。

 百足の巨大な足が絡みつき、晶を石段の上に押し倒した。手ひどく頭をぶつけ、一瞬意識が遠ざかる。生臭い液体が頭上に滴り、見上げると、赤黒い嘴が左右に開いたところだった。

 ――視界の隅を、銀色のものが過った。

 それが、【刃翼じんよく】と理解した時には、目の前の百足は四方に飛び散り、腐肉の臭いのする体液がどっと晶に浴びせかけられていた。

「晶」

 父さん、と晶は呼んだ。

「無事か、晶……」

 父は、ちょっと笑ったが、その顔色は悪かった。飛びつこうとして、晶はためらった。

 父の刃翼は、不自然に長く大きく影を引き、引きつれた皮膚から骨が突き出して伸び上がり、血を滴らせながら、歪んだ木のような形に変化していた……

「晶」

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