③
「こんにちは!」と、先程にも増して元気な声が響く。海老名はいかにも嫌そうな態度で首を捻った。ほとんど逆さまの視界に一人の姿が映る。制服を着た青年だ。男性アイドルにでもいそうな顔に溌剌とした笑みを浮かべている。彼は左右非対称に歪んだ顔と視線をかち合わせた。途端、特徴的な八重歯が見える程口を大きく開く。「海老名さん!」と一際大きな声が出された。
「お疲れ様です。今日もお店を開けてて偉いですね」
「シャッターを閉めとくとガンガン叩くんだろうが、お前が。それでも無視してるとクソ坊主が抉じ開けてきやがる。こっちは堪ったもんじゃねぇんだよ」
「鍵を持っているんだ。無理矢理なんかじゃないぞ」
明空が口を挟む。その後はカツ丼を掻き込みだした。
「何なんだよお前ら全員。人を四六時中見張るような真似しやがって」
海老名ががなり立てる。声は所々が情けなくひっくり返った。全員という物言いにはここへ居る二名以上の含みがある。続く声はいよいよヒステリックに甲高くなった。
「隠れて出て行こうとすればバス停で爺婆に捕まる。そうでなくても、素振りを見せただけで気味の悪い脅迫文を貼られる始末だ。仕方なく店を開ければ入れ替わり立ち替わり町の連中が顔を出しやがる。こんな事が一年も続いてるんだぞ。頭がおかしくならない方が有り得ないだろうが」
「商売繁盛で結構じゃないか」と明空。海老名が「なんだと」と噛みついた所でまた戸が開いた。制服姿の青年が「今日は繁盛しますねぇ」と感心した声を出す。海老名は戸口へ背を向けたまま振り返ろうとしない。目を閉じ腕まで組む頑なな態度だ。
塞ぐ事をしなかった耳に声が届く。「ごめんください」と言う女のものだ。さぞかし肉感的な体を通って出たに違いない。そう期待させる音色だった。海老名は餌の匂いを嗅ぎつけた犬のように振り返る。期待は恐ろしく的中していた。黒いドレスを着た女が戸口に立っている。豊満な体の線に張り付く布地が胸元から足首までを覆っている。長い首やしなやかな腕には細かなレースが咲いていた。大胆に開いた胸の谷間も黒いベールに覆われている。海老名の視線はその深い影へどこまでも落ちていった。「おい」と声をかけられてようやく我にかえる。彼は慌てて顔を上げた。
「あら、ようやく目が合いました」
レースで編まれた首に乗る顔はこう言って笑った。毒々しい程赤い唇は肉が厚く、横にも大きい。しかし下品な印象にはならず、一切歯を見せない完璧な微笑を浮かべていた。目鼻立ちも口元に負けず劣らずの主張をしている。鼻は先端にかけて高く尖っている。目は一重で、異様な程切れが長い。白い部分の多い三白眼だ。針で突いたような黒点が海老名を刺し貫く。一言にまとめるなら、怪物じみた美女だった。少しばかりエラの張った輪郭はうねる黒髪に囲われている。
片田舎の商店街に突如出現した美女は、その違和感を感じさせない足取りで店内へ入った。先の細い靴が交互に前へ出るたび、浮き出る太腿や腰の張りが艶めかしい光沢を放つ。海老名の視線がそこここへ移る内、甲高いヒールの音は彼の前に止まった。再び下がっていた面が強制的に上げられる。尖った顎を指が挟み固定した。指輪の台座が食い込んで痛むらしく、海老名は顔を顰める。
「ごめんなさいね。ちゃんとご挨拶をしたかったものだから」
美女は言う。やはり、弦楽器にも似て官能的な声だ。声は奏でる調子で続く。
「という事は、貴方が新しい店主さんなのかしら?よろしくお願いしますね」
「…なんの事だ」
海老名は言葉を返す。顰めていた顔は、間近で香しい息を嗅ぐ内にみるみる蕩けていく。すると、脂下がった顔の向こうから声がした。明空のものだ。
「海老名、その人はお前の雇い主だ」
「雇い主だって?ここはもう俺の店だろうが」
「普通はそんな簡単なものじゃない。まどろっこしい手続きが無かったのは、ここの仕組みが特別だからだ」
「そこからは私が説明しましょう」
この台詞と共に海老名の顎が解放される。長身はバランスを崩し前へ傾いた。彼の視界いっぱいにレースで覆われた女の乳房が広がる。夜の帳を被った山間のようなそこは、こうして上から覗き込む格好になると、高まった先の頂きまでが仄見えそうだ。自然と首が伸び、突き出た喉仏がぐびりと上下する。頭上で笑い声が起こった。
「素直なのね。可愛いわ」
言葉と共に乱れた前髪を梳き上げられる。尖った爪先が頭皮を掻く心地よさに、海老名は脳の痺れを覚えた。危うく下半身が催しかける。不味い変化を感じ取った直後、彼は強い息苦しさに襲われる。遅れて上半身が後ろに仰け反った。視界から谷間が消え、代わりに呆れ顔の坊主が現れる。
「いくらなんでも素直過ぎだ。犬かお前は」
明空は言う。彼は海老名が着るシャツの襟を後ろから掴んでいた。それから一度降りた小上がりへ戻る。腕は高く掲げられたままだ。結果として、吊られる側は絞首刑のような格好になる。海老名はげえげえと蛙じみた声を出してもがいた。
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