夏祭りの三原色と、路地裏の亡霊

1


 八月下旬。夏休み最後の週末。

 南国・鹿児島市は、年に一度の熱狂に包まれていた。

 『かごしま錦江湾サマーナイト大花火大会』。

 桜島をバックに一万五千発以上の花火が夜空を焦がす、南九州最大級の夏祭りだ。

 市街地は昼過ぎから浴衣姿の人々で溢れ返り、路面電車もバスも満員状態。海沿いのドルフィンポート跡地(ウォーターフロントパーク)には、数え切れないほどの屋台が並んでいる。


 夕暮れ時。

 茜色に染まる空の下、僕は指定された待ち合わせ場所で、冷や汗をかきながらスマホを握りしめていた。

 

 ――約束の時間は十八時。

 しかし、僕のスマホには三件の異なる場所からの呼び出し通知が入っている。


 『水族館口の電停前で待ってるね! 早く来て! 浴衣だよ!』(楓)

 『混雑による遅延を回避するため、17時55分に北埠頭ターミナルの2階へ。最短ルートを確保しました』(凛)

 『人が多いのは嫌い。少し離れた石橋記念公園の橋の下にいるわ』(雫)


 ……無理だ。身体が三つないと足りない。

 僕は頭を抱えていた。合宿を経て、彼女たちの「独占欲」と「管理欲」はさらに加速している気がする。

 どうすれば角を立てずに全員と合流できるのか。最適解が見つからないまま、時計の針は無情にも約束の時間を刻んでいく。


「……悠真!」


 悩んでいる暇はなかった。

 人混みをかき分けて、鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。


 霧島楓だ。

 彼女は待ちきれずに走ってきたらしい。息を切らしながら、満面の笑みで僕の目の前に現れた。

 着ているのは、鮮やかなピンク地に桜の柄が入った浴衣。帯は明るい黄色で、背中で大きなリボン結びになっている。アップにした髪には、揺れるかんざしが挿されていた。


「見つけた! もう、待ち合わせ場所違くない? 電停って言ったのに!」

「ご、ごめん楓。人が多くて身動きが取れなくて……」

「まあいいや! 会えたし! 見て見て、浴衣! お母さんに着付けてもらったの! どう?」


 楓がその場でクルリと回ってみせる。下駄がカラコロと軽快な音を立てる。

 可愛い。悔しいけど、圧倒的に可愛い。普段の制服姿とは違う、少し大人びた、けれどあどけない「幼馴染の夏」がそこにあった。


「……うん。すごく似合ってるよ」

「えへへ、ありがと! 悠真も甚平似合ってるよ! じゃあ行こ、りんご飴食べたい!」


 楓が自然な動作で僕の腕に抱きつこうとした、その瞬間。


「先輩。位置情報と違いますよ」


 背後から、冷ややかな声がした。

 ビクリと肩が跳ねる。


 種子島凛だ。

 彼女は人混みの中でも一際目立つ、涼しげな空気を纏っていた。

 着ているのは、濃い紺色に幾何学模様が入ったモダンなデザインの浴衣。帯は深紅で、キリッと固く締められている。

 いつも高い位置で結んでいるポニーテールは、今日は複雑な編み込みでまとめられており、白いうなじが露わになっている。手にはいつものタブレットではなく、今日は扇子を持っていた。


「霧島先輩。フライング(抜け駆け)はルール違反です」

「なによ! 早い者勝ちでしょ! 先に見つけたもん勝ち!」

「非効率です。……先輩、こっちに来てください。屋台の混雑状況をドローンカメラの映像とSNSの投稿数からリアルタイムで解析しました。今なら人気のたこ焼き屋の待ち時間はゼロです」


 凛が僕の左腕を掴む。楓が右腕を掴む。

 祭りの雑踏の中で、綱引きが始まった。


「ちょっと凛ちゃん! 今日くらいデータとか忘れて楽しみなよ!」

「楽しむために最適化しているんです。並ぶ時間は人生の浪費です」


 二人が睨み合う。

 その時、ふわりと墨のような、あるいは夜の海のような香りが漂った。


「……騒がしいわね。風情がないわ」


 人混みが割れ、神宮司雫が現れた。

 周囲の空気が、一瞬で変わる。

 彼女の浴衣は、漆黒の生地に、白い彼岸花(ヒガンバナ)が描かれた妖艶なものだった。帯は紫。手には赤い和傘を差している。

 周りの喧騒を吸い込むような、異質で、そして目が離せない美しさを放っている。


「日向くん。花火が一番美しく見える穴場、見つけたの。……一緒に行きましょう?」


 雫が僕の正面に立ち、静かに手を差し伸べる。


 三色の浴衣。

 ピンク(陽)、紺(雷)、黒(月)。

 祭りの提灯の明かりよりも眩しい三人の少女に囲まれ、周囲の視線が痛いほど突き刺さる。

 僕は観念して、大きく息を吐いた。


「……分かった。みんなで行こう。今日は喧嘩なしで、ね?」


2


 祭りのメインストリート、屋台通り。

 ソースの焦げる匂いと、綿あめの甘い香りが入り混じる中、僕たちは奇妙な集団として歩いていた。


「悠真、あーん!」


 楓が巨大なりんご飴を僕の口元に差し出してくる。

 周りの目があるから恥ずかしいと言っても、彼女は引かない。


「甘っ! 楓、これ大きすぎない?」

「いいの! お祭りは雰囲気なの! 赤くて丸くて可愛いでしょ?」


 楓は終始ご機嫌だ。混雑を理由にして、幼馴染としての距離感を最大限に利用し、僕にベタベタと触れてくる。彼女の体温と浴衣の擦れる感触が、僕の理性をじわじわと削っていく。


 一方、金魚すくいの屋台の前で、凛が足を止めた。

 水槽の中を泳ぐ金魚を、真剣な眼差しで見つめている。


「……先輩。勝負しませんか」

「え、金魚すくい?」

「はい。ポイの紙の厚さ、水の抵抗係数、金魚の遊泳速度。全て計算すれば100%すくえます」


 凛は本気モードで浴衣の袖をまくった。

 結果は凄惨だった(屋台のおじさんにとって)。

 彼女は機械のような精密な動きで、次々と大物をすくい上げていく。ポイが破れる気配すらない。


「……計算通りです。この黒出目金、先輩にあげます」

「え、くれるの?」

「はい。……目が先輩に似てて、少し間抜けで可愛いので」


 凛はそっぽを向いて、水袋を僕に押し付けた。耳が赤い。

 袋の中で、黒い金魚が僕を見つめている。確かに、ちょっと似ているかもしれない。


 雫は、射的の屋台で優雅にコルク銃を構えていた。

 その姿は、まるでスナイパーのように洗練されている。


「……動く的は嫌いね。止まっていればいいのに」


 彼女はため息をつきつつ、引き金を引いた。

 パンッ! という乾いた音と共に、一番上の棚にあった「景品の変な人形」が一発で落ちた。


「あげるわ。……私の部屋に置くには美しくないから」

「……ありがとう」


 なんだかんだで、みんな楽しんでいる。

 僕の両手は、食べ物と金魚と人形でいっぱいになった。

 これが「リア充」というやつなのだろうか。それにしては、胃の痛みが治まらないけれど。


 ドォーン……!


 遠くで号砲が鳴った。

 花火が始まる合図だ。


「始まっど! 早く場所取りせんと!」


 楓が僕の手を引く。

 僕たちは人混みを抜け、少し静かな港の倉庫街の方へ向かった。

 そこは雫が見つけたという「穴場」らしい。


3


 倉庫街の裏手。

 ここは祭りの中心から離れており、人もまばらだ。

 海風が心地よい。目の前には錦江湾が広がり、その向こうに桜島のシルエットが黒く浮かび上がっている。


 ヒュルルル……ドンッ!

 パラパラパラ……。


 夜空に大輪の花が咲いた。

 一発、また一発と、色とりどりの光が闇を切り裂いていく。


「うわぁ、綺麗……!」


 楓が歓声を上げ、空を見上げる。

 花火の光が、彼女の瞳の中でキラキラと弾けている。ピンク色の浴衣が、光を受けて幻想的に輝く。


「……綺麗ですね。酸化金属の燃焼反応ですが」

 凛が憎まれ口を叩くが、その視線は空に釘付けだ。

「……儚(はかな)いわね。一瞬で消えるからこそ、美しい」

 雫が静かに呟く。


 僕は彼女たちの横顔に見とれていた。

 花火よりも、彼女たちの方がずっと眩しかった。

 夏合宿を乗り越え、少しずつ自信を取り戻し、こうして仲間たちと笑い合える。

 中学時代の孤独な夏祭りとは違う。僕はもう一人じゃない。

 トラウマなんて、もう過去のものになりつつある――そう思っていた。


 その時。


「――ほう。……負け犬の分際で、随分と楽しそうだな」


 花火の爆音にかき消されない、低く、腹に響くような声がした。

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 全身の血が引いていくのが分かる。

 この声を、忘れるはずがない。

 つい先月、練習試合のコートの向こう側から感じていた、あの無言のプレッシャー。それが今、言葉となって僕の背中を刺した。


 ゆっくりと振り返る。

 倉庫の影、街灯の逆光の中に、その男は立っていた。

 祭りの場に似つかわしくない、黒いスーツ。整えられた白髪交じりの髪。

 そして、獲物を射抜く猛禽のような鋭い眼光。


 黒岩巌(くろいわ いわお)。

 竜胆中学バレー部監督。

 僕を「リベロ」という名の機械に作り変え、そして壊した元凶。


「……監督」


 喉が張り付いて、かすれた声しか出ない。

 楓が息を呑み、僕の前に出ようとする。凛が警戒して身構える。雫が目を細める。


 黒岩監督は、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 手には火のついた煙草を持っている。紫煙が、夜風に流れていく。


「先日の練習試合。……氷室相手に、一本だけまぐれで拾ったそうだな」


 監督は、感情のない声で言った。

 練習試合の時、彼はベンチで腕を組んだまま、一言も発しなかった。僕と目を合わせようともしなかった。

 それは「無視」以上に、「眼中にない」という残酷なメッセージだった。

 だが今、彼は僕を直視している。


「だが、所詮はまぐれだ。……こんな祭りで女に囲まれて、腑抜けた顔をしおって。それがお前の選んだ『バレー』か? 緊張感の欠片もない」


 侮蔑。失望。

 彼の言葉一つ一つが、僕の心臓に楔(くさび)のように打ち込まれる。

 足が震える。

 逃げたい。今すぐここから消えたい。

 身体が、あの中学時代の「絶対服従」の記憶に支配されていく。条件反射だ。パブロフの犬のように、彼の声を聞くだけで身体が萎縮してしまう。


「日向。お前は私の最高傑作だった。私の理論を体現する、完璧な守備人形になるはずだった。……だが、心があまりに脆(もろ)すぎた」


 監督は僕の目の前まで来ると、煙草の煙をふぅーっと吹きかけた。


「来月の春高予選。……桜島南も出るそうだな」

「……は、はい」

「あの練習試合のザマで、本気で勝てると思っているのか? ……楽しみにしておけ。一回戦で消えるか、それとも私の前まで這い上がってくるか。……まあ、今の『ぬるま湯』に浸かったお前では、氷室の足元にも及ばんがな」


 監督は冷笑を浮かべ、踵(きびす)を返した。


「せいぜい、壊れないように気をつけるんだな。……廃棄物は、二度は使えんからな」


 男の背中が闇に消えていく。

 僕はその場に立ち尽くしていた。

 金魚の入った袋を握りしめる手が、白くなるほど震えている。

 花火の音が、遠く聞こえた。


4


「……悠真!」


 楓が僕の肩を揺さぶる。

 彼女の目には涙が溜まっていた。


「大丈夫!? あいつ、何なの!? 言いたいことだけ言って……! 悠真は廃棄物なんかじゃない! 誰よりもすごいリベロだよ!」


 楓の声が、凍りついた僕の心を溶かしていく。


「……データ照合完了。竜胆中学監督、黒岩巌。……想定以上の『圧力』ですね」


 凛の声も、少し硬かった。

 彼女は自分の腕を抱きしめている。兄を壊した「根性論」の権化を目の当たりにして、彼女もまた恐怖を感じていたのだ。

 それでも、彼女は僕の隣に立った。


「ですが、論理的ではありません。彼の言葉はただの精神攻撃(ハラスメント)です。……先輩の価値は、彼が決めることじゃありません」


「日向くん」


 雫が、僕の震える手をそっと握った。

 冷たい指先。でも、今はそれが心地よかった。


「……大丈夫よ。君はもう、一人じゃないわ」


 彼女は僕の手のひらに、何かの文字を書くように指を滑らせた。


「君が壊れそうになったら、私たちが支える。……だから、前を向いて」


 三人の声。三人の体温。

 それが、僕を「現在」に引き戻してくれた。

 僕は深く息を吸い込み、夜空を見上げた。

 最後のスターマインが、空を埋め尽くすように炸裂し、黄金色の柳となって降り注いでいた。


 怖い。

 まだ、足は震えている。

 あの男の影は、僕の心に深く根を張っている。練習試合で一度は乗り越えたと思った壁が、実はもっと高くそびえ立っていたことを思い知らされた。

 でも、逃げるわけにはいかない。


 夏が終わる。

 そして、本当の戦いが始まる。

 春高予選。全国への切符をかけた大会で、僕はあの「亡霊」を超えなければならない。

 氷室を倒し、黒岩監督の目の前で証明するんだ。

 僕が選んだ道は、間違いじゃなかったと。


 僕は握りしめた拳に力を込めた。

 震えは、まだ止まらない。

 けれど、もう逃げるつもりはなかった。


「……帰ろう、みんな」


 僕は言った。

 祭りの後の静けさが、心地よかった。

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